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ケリー・レイド

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ケリー・メルビルから転送)
ケリー・レイド
Kerry Reid
ケリー・レイド
基本情報
フルネーム Kerry Ann Melville Reid
国籍 オーストラリアの旗 オーストラリア
出身地 同・モスマン
生年月日 (1947-08-07) 1947年8月7日(77歳)
身長 166cm
体重 57kg
利き手
ツアー経歴
デビュー年 1963年
引退年 1985年
ツアー通算 34勝
シングルス 22勝
ダブルス 12勝
生涯獲得賞金 2,225 アメリカ合衆国ドル
4大大会最高成績・シングルス
全豪 優勝(1977)
全仏 ベスト4(1967)
全英 ベスト4(1974)
全米 ベスト4(1972)
優勝回数 1(豪1)
4大大会最高成績・ダブルス
全豪 優勝(1968・77)
全仏 優勝(1978)
全米 準優勝(1978)
優勝回数 3(豪2・仏1)

ケリー・レイドKerry Reid, 1947年8月7日 - )は、オーストラリア・モスマン出身の元女子プロテニス選手。1977年全豪オープン女子シングルス優勝者で、1972年全米オープンの準優勝もある。女子ダブルスでも1968年全豪選手権(当時の名称)と1978年ウィンブルドンで優勝した。フルネームは Kerry Ann Melville Reid (ケリー・アン・メルビル・レイド)という。旧姓は「ケリー・メルビル」(Kerry Melville)というが、ラズ・レイド(Raz Reid)と結婚した。種々のテニス文献の中でも、彼女の名前表記はさまざまに異なっているが、本記事では1977年全豪オープン優勝時の、最も広く知られた「ケリー・レイド」を見出しとして記載する。WTAツアーでシングルス通算22勝、ダブルス12勝を挙げた。身長166cm、体重57kg、右利き。

来歴

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ケリー・メルビルの選手生活の最初期は、テニス史上最大の転換期である「オープン化措置」(テニス4大大会にプロ選手の出場を解禁すること)の実施と重なっていた。この措置が実施された1968年以後の時代を、テニスの「オープン化時代」(Open Era)と呼び、それ以前の時代とは明確に区別している。オープン化時代が始まる前から、ケリー・メルビルは1966年に「全米クレーコート選手権」の女子ダブルス部門で優勝し、1967年から女子テニス国別対抗戦「フェデレーション・カップ」(現在の名称はフェドカップ)のオーストラリア代表選手となった。1968年から「オープン化措置」が実施され、地元オーストラリア開催の4大大会は1969年から「全豪オープン」の名称となる。その翌年、1970年全豪オープンでケリー・メルビルは初めての女子シングルス決勝に進出したが、マーガレット・コートに 1-6, 3-6 で敗れて準優勝に終わっている。(コートはこの勝利を皮切りに、女子テニス史上2人目の「年間グランドスラム」への道を歩み始めた。)1972年全米オープンでは、2度目の4大大会決勝進出でビリー・ジーン・キングに 3-6, 5-7 で敗れ、ここでも準優勝で止まった。その後、彼女は同じテニス選手のラズ・レイドと結婚した。

1977年の全豪オープンは、年頭の1月開催と年末の12月開催の2度行われた。コート夫人に決勝で敗れてから7年後、既婚選手となったケリー・メルビル・レイドは年頭の1月開催の大会で優勝を果たし、決勝で同じオーストラリアダイアン・フロムホルツを 7-5, 6-2 で破った。年末の12月開催の大会では、出産から復帰したばかりのイボンヌ・グーラゴング・コーリーに準決勝で敗れ、大会2連勝を逃した。

その他の4大大会シングルス成績は、1967年全仏選手権(この年はまだ「オープン大会」ではなかった)と1974年ウィンブルドンでベスト4進出がある。全仏でベスト4に入った時のケリー・メルビルはまだ19歳の少女で、準決勝で地元フランスフランソワーズ・デュールに 6-8, 3-6 で敗れた。全仏オープンからは早く撤退し、最後の出場は1972年の4回戦敗退であった。1974年ウィンブルドンでは準決勝で第2シードのクリス・エバートに 2-6, 3-6 で敗れたが、その勝ち上がりの過程では1回戦でオランダベティ・ストーブに勝ち、3回戦で日本沢松和子選手を破っている。

ケリー・メルビル・レイドは4大大会の女子ダブルスでも、1968年全豪選手権(当時の名称)と1978年ウィンブルドンで優勝している。テニス4大大会が「オープン化措置」のもとで開かれるようになったのは、1968年全仏オープン以後であるため、メルビルが同じオーストラリアカレン・クランツケとのペアで優勝した大会は「全豪選手権」の名称であり、「オープン化時代」に入る前の最後のイベントであった。それから10年後、レイドは1978年ウィンブルドンウェンディ・ターンブルとペアを組んで優勝した。夫のラズ・レイドとの混合ダブルスでは、1977年ウィンブルドンでベスト8に入っている。

レイドは1979年までフェデレーション・カップのオーストラリア代表選手を務め、この年を最後に競技生活の第一線から退いた。その後、1983年から1985年まで4月のアメリカサウスカロライナ州「ヒルトンヘッド」大会のみに出場したが、1985年4月のヒルトンヘッド大会を最後に現役を引退した。

4大大会優勝

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  • 全豪オープン 女子シングルス:1勝(1977年)/女子ダブルス:2勝(1968年・1977年) [1977年の女子シングルス優勝は、1月開催、女子ダブルス優勝は12月]
  • 全仏オープン 女子ダブルス:1勝(1978年)
大会 対戦相手 試合結果
1977年 全豪オープン オーストラリアの旗 ダイアン・フロムホルツ 7-5, 6-2

参考文献

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外部リンク

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