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モニカ・セレシュ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
モニカ・セレシュ
Monica Seles
モニカ・セレシュのサービス
基本情報
国籍 ユーゴスラビアの旗 ユーゴスラビアアメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の旗 ユーゴスラビアノヴィ・サド
居住地 アメリカ・フロリダ州サラソータ
生年月日 (1973-12-02) 1973年12月2日(51歳)
身長 179cm
体重 70kg
利き手
バックハンド 両手打ち
殿堂入り 2009年
ツアー経歴
デビュー年 1989年
引退年 2008年
ツアー通算 59勝
シングルス 53勝
ダブルス 6勝
生涯通算成績 684勝167敗
シングルス 595勝122敗
ダブルス 89勝45敗
生涯獲得賞金 $14,891,762
4大大会最高成績・シングルス
全豪 優勝(1991-93・96)
全仏 優勝(1990-92)
全英 準優勝(1992)
全米 優勝(1991・92)
優勝回数 9(豪4・仏3・米2)
4大大会最高成績・ダブルス
全豪 ベスト4(1991・2001)
全仏 3回戦(1990)
全英 ベスト8(1999)
全米 ベスト8(1999)
国別対抗戦最高成績
BJK杯 優勝(1996・99・2000)
ホップマン杯 優勝(1991)
キャリア自己最高ランキング
シングルス 1位(1991年3月11日)
ダブルス 16位(1991年4月22日)
獲得メダル
テニス
オリンピック
2000 女子シングルス

モニカ・セレシュセレシュ・モーニカMonica Seles, Monika Seleš, セルビア語: Моника Селеш, ハンガリー語: Szeles Mónika, 1973年12月2日 - )は、ユーゴスラビアセルビア)・ヴォイヴォディナ自治州ノヴィ・サド出身のハンガリー人マジャル人)で、現在はアメリカ国籍の女子プロテニス選手。フロリダ州サラソタ在住。「セレス」と呼ばれることも多い。

左利きで、フォアハンド・ストローク、バックハンド・ストロークとも両手打ちである。そこから繰り出される強烈なショット(特にバックハンドストロークはコンパクトなスイングから非常に強烈なショットを放った)と正確なコントロールを最大の持ち味とした。WTAツアーで4大大会9勝を含むシングルス53勝、ダブルス6勝を挙げた。

経歴

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1989年に15歳でプロ転向後、セレシュはすぐに世界的な活躍を始めた。4月末にアメリカヒューストンの大会でクリス・エバートを決勝で 3-6, 6-1, 6-4 で破り、WTAツアー初優勝を飾る。その年初出場した全仏オープンでいきなり準決勝進出を果たし、初対戦のシュテフィ・グラフに 3-6, 6-3, 3-6 で敗れたものの善戦する。翌1990年全仏オープンでは、決勝でグラフを 7-6, 6-4 のストレートで圧倒し、「16歳6ヶ月」の当時のオープン化以降4大大会最年少優勝記録を樹立した。(これは現在も全仏オープン女子シングルスの大会最年少優勝記録である。4大大会女子シングルスの最年少優勝記録は、1997年全豪オープンに「16歳3ヶ月」で優勝したマルチナ・ヒンギスによって破られた。)1991年3月11日には、史上最年少の「17歳3ヶ月」で世界ランキング1位の座につき、グラフの世界1位連続保持記録を「186週」で止めた。1990年-1992年全仏オープン3連覇、1991年-1993年全豪オープン3連覇、1991年1992年全米オープン2連覇を達成するなど、1990年から1993年の4月までは彼女の絶頂期であった。

しかし1993年4月30日、セレシュはドイツハンブルクの「シチズンカップ」準々決勝でブルガリアマグダレナ・マレーバとの対戦中に、暴漢ギュンター・パルシェに背中を刺された。この事件が競技中に起きたことから、全スポーツ界に大きな衝撃が広がる。セレシュはこの後遺症により(PTSDと考えられる)、2年半も試合から遠ざかった。(暴漢はグラフの“熱狂的ファン”と自称し、「セレシュに怪我をさせれば、その間試合に出場できなくなるので、グラフが再び世界1位に返り咲けると思った」と犯行動機を話している。)この事件によるブランク期間中の1994年3月、モニカ・セレシュはアメリカ市民権を取得した。なお、この事件以降セレシュはドイツ国内でのプレーを拒否してきた。2001年に女子ツアー年間最終戦のWTAツアー選手権がアメリカ・ニューヨークからドイツ・ミュンヘンに開催地を移転した時も、前年の2000年から「(来年)仮に出場資格を得たとしても、欠場するだろう」と話していた。(ミュンヘン開催は2001年の1度だけだった。)

1995年8月、セレシュはようやくカナダオープンで復帰を果たす。その準決勝ではガブリエラ・サバティーニ、決勝でアマンダ・クッツァーを破り、復帰戦を優勝で飾った。翌月の全米オープンでは第2シードで出場。決勝ではライバルのシュテフィ・グラフに 6-7, 6-0, 3-6 で敗れたが、以前と変わらない大接戦で、ブランクを全く感じさせなかった。翌1996年、セレシュは全豪オープンで復帰後初の4大大会優勝を果たす。この勝利により達成した4大大会女子シングルス通算9勝は、モーリーン・コノリーと並ぶ女子歴代8位タイ記録である。

その後はけがによる不振や、マルチナ・ヒンギスビーナスセリーナのウィリアムズ姉妹など若手の台頭により、4大大会の優勝から遠ざかった。その後の4大大会で、最も優勝に近かったのは1998年全仏オープンであった。大会直前の5月16日、長年彼女を支え続けてきた父親が死去したばかりであった。その悲しみを乗り越え、準決勝で第1シードのマルチナ・ヒンギスを破り、全仏オープンでは6年ぶり4度目、4大大会では1996年全米オープン以来となる決勝進出を果たした。決勝戦の対戦相手は、それまでの対戦成績が14勝2敗のアランチャ・サンチェス・ビカリオであり、圧倒的にセレシュ有利と言われたが、サンチェスの粘りのテニスに屈し 6-7, 6-0, 2-6 で敗れて準優勝に終わった。これが彼女の最後の4大大会決勝戦になる。これはまた、セレシュが4大大会決勝戦でグラフ以外の選手に初めて(唯一)敗れた試合でもあった。

2003年全仏オープン1回戦でナディア・ペトロワロシア)に敗退したのが、セレシュの最後の公式戦出場になる。その後は足の故障により、公式戦復帰への手がかりをつかむことができなかった。2005年12月には「私はまだ練習に励み、挑戦を続けている。でも同時に現実主義者でもある」と語り、近いうちの引退を示唆するコメントを発表した。最後の公式戦出場から5年後、セレシュは2008年2月14日(日本時間15日)に正式な現役引退を表明した。

現役引退表明と前後する2008年1月、セレシュはテニス番組の拡充に力を入れているWOWOWと契約を結び、「WOWOWテニスアンバサダー」の肩書きで同社公式サイトでのコラム執筆を開始した。3月に来日し、記者会見やテニスクリニックの開催などを行った[1]。さらにローレウス・スポーツ賞のアカデミー選考委員にも加わり、多彩な活動を繰り広げている[2]

2009年7月11日、モニカ・セレシュはアンドレス・ヒメノスペイン)らとともに国際テニス殿堂入りを果たした。

2014年6月、大富豪のトム・ゴリサリーノ英語版との婚約を発表した[3]

著書に『私は負けない』(1996年刊行、原題:“From Fear to Victory”、直訳では「恐れから勝利へ」の意味)がある。

記録

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全豪オープン「3連覇」
他4名とタイ記録。
全仏オープン「3連覇」
ジュスティーヌ・エナンとタイ記録。
全仏オープン最年少優勝「16歳」
年間ですべてのグランドスラム決勝に進出
他5名とタイ記録。

4大大会優勝

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  • 全豪オープン:4勝(1991年-1993年、1996年) [大会3連覇を含む]
  • 全仏オープン:3勝(1990年-1992年) [大会3連覇。初優勝の1990年は大会史上最年少記録。準優勝1度:1998年]
  • 全米オープン:2勝(1991年&1992年) [復帰後の1995年&1996年、2年連続準優勝]
ウィンブルドン準優勝1度:1992年)
大会 対戦相手 試合結果
1990年 全仏オープン 西ドイツの旗 シュテフィ・グラフ 7-6, 6-4
1991年 全豪オープン チェコスロバキアの旗 ヤナ・ノボトナ 5-7, 6-3, 6-1
1991年 全仏オープン スペインの旗 アランチャ・サンチェス・ビカリオ 6-3, 6-4
1991年 全米オープン アメリカ合衆国の旗 マルチナ・ナブラチロワ 7-6, 6-1
1992年 全豪オープン アメリカ合衆国の旗 メアリー・ジョー・フェルナンデス 6-2, 6-3
1992年 全仏オープン ドイツの旗 シュテフィ・グラフ 6-2, 3-6, 10-8
1992年 全米オープン スペインの旗 アランチャ・サンチェス・ビカリオ 6-3, 6-3
1993年 全豪オープン ドイツの旗 シュテフィ・グラフ 4-6, 6-3, 6-2
1996年 全豪オープン ドイツの旗 アンケ・フーバー 6-4, 6-1

4大大会シングルス成績

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略語の説明
 W   F  SF QF #R RR Q# LQ  A  Z# PO  G   S   B  NMS  P  NH

W=優勝, F=準優勝, SF=ベスト4, QF=ベスト8, #R=#回戦敗退, RR=ラウンドロビン敗退, Q#=予選#回戦敗退, LQ=予選敗退, A=大会不参加, Z#=デビスカップ/BJKカップ地域ゾーン, PO=デビスカップ/BJKカッププレーオフ, G=オリンピック金メダル, S=オリンピック銀メダル, B=オリンピック銅メダル, NMS=マスターズシリーズから降格, P=開催延期, NH=開催なし.

大会 1989 1990 1991 1992 1993 1994 1995 1996 1997 1998 1999 2000 2001 2002 2003 通算成績
全豪オープン A A W W W A A W A A SF A QF SF 2R 43-4
全仏オープン SF W W W A A A QF SF F SF QF A QF 1R 54–8
ウィンブルドン 4R QF A F A A A 2R 3R QF 3R QF A QF A 30–9
全米オープン 4R 3R W W A A F F QF QF QF QF 4R QF A 54-10
テニス4大大会女子シングルス優勝記録
順位 優勝回数 選手名
1位 24勝 オーストラリアの旗 マーガレット・スミス・コート
2位 23勝 アメリカ合衆国の旗 セリーナ・ウィリアムズ
3位 22勝 ドイツの旗 シュテフィ・グラフ
4位 19勝 アメリカ合衆国の旗 ヘレン・ウィルス・ムーディ
5位タイ 18勝 アメリカ合衆国の旗 クリス・エバート | アメリカ合衆国の旗 マルチナ・ナブラチロワ
7位タイ 12勝 フランスの旗 スザンヌ・ランラン | アメリカ合衆国の旗 ビリー・ジーン・キング
9位タイ 9勝 アメリカ合衆国の旗 モーリーン・コノリー | ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の旗アメリカ合衆国の旗 モニカ・セレシュ
11位 8勝 ノルウェーの旗アメリカ合衆国の旗 モーラ・マロリー
12位タイ 7勝 イギリスの旗 ドロテア・ダグラス・チェンバース | ブラジルの旗 マリア・ブエノ | オーストラリアの旗 イボンヌ・グーラゴング | ベルギーの旗 ジュスティーヌ・エナン | アメリカ合衆国の旗 ビーナス・ウィリアムズ*
*は現役選手

脚注

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  1. ^ モニカ・セレス来日 - テニス4大会の魅力と錦織圭への期待を語る”. マイコミジャーナル (2008年3月10日). 2009年6月4日閲覧。
  2. ^ Laureus Academy Member”. Laureus.com (2010年2月10日). 2010年2月10日閲覧。
  3. ^ Danielle Haynes (2014年6月8日). “Monica Seles engaged to Tom Golisano”. UPI通信. 2015年2月22日閲覧。

外部リンク

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