バージニア・ルジッチ
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バージニア・ルジッチ | ||||
基本情報 | ||||
フルネーム | Virginia Ruzici | |||
国籍 | ルーマニア | |||
出身地 | 同・クンピャ・トゥルジイ | |||
生年月日 | 1955年1月31日(69歳) | |||
身長 | 173cm | |||
利き手 | 右 | |||
バックハンド | 片手打ち | |||
ツアー経歴 | ||||
デビュー年 | 1975年 | |||
引退年 | 1987年 | |||
ツアー通算 | 26勝 | |||
シングルス | 14勝 | |||
ダブルス | 12勝 | |||
生涯獲得賞金 | $1,183,728 | |||
4大大会最高成績・シングルス | ||||
全豪 | ベスト8(1980) | |||
全仏 | 優勝(1978) | |||
全英 | ベスト8(1978・81) | |||
全米 | ベスト8(1976・78) | |||
優勝回数 | 1(仏1) | |||
4大大会最高成績・ダブルス | ||||
全豪 | 2回戦(1980) | |||
全仏 | 優勝(1978) | |||
全英 | 準優勝(1978) | |||
全米 | ベスト4(1976) | |||
4大大会最高成績・混合ダブルス | ||||
全仏 | 準優勝(1978・79) | |||
全英 | 3回戦(1979) | |||
全米 | ベスト8(1981) | |||
バージニア・ルジッチ(Virginia Ruzici, 1955年1月31日 - )は、ルーマニア・クンピャ・トゥルジイ出身の元女子プロテニス選手。1978年の全仏オープン女子シングルス優勝者である。ルーマニア出身の先輩選手イリ・ナスターゼが1972年の全米オープンと1973年の全仏オープンで4大大会に2勝した後、ルジッチは女子の第一人者として活躍し、同国の女子選手として最初の4大大会優勝者になった。WTAツアーでシングルス14勝を挙げる。
来歴
[編集]ルジッチは1973年から女子テニス国別対抗戦・フェデレーションカップのルーマニア代表選手になり、1975年にプロ入りした。1976年から競技成績を伸ばし、全仏オープンでスー・バーカー(イギリス)との準決勝まで進み、全米オープンではミマ・ヤウソベッツ(ユーゴスラビア)との準々決勝まで勝ち進む。1978年の全仏オープンで、バージニア・ルジッチは女子シングルス優勝、女子ダブルス優勝、混合ダブルス準優勝を記録し、3部門すべてで決勝進出を果たした。女子シングルス決勝戦では、大会2連覇を目指したヤウソベッツを 6-2, 6-2 で圧倒し、ルーマニア出身の女子選手として最初の4大大会優勝者になる。この年は続くウィンブルドンと全米オープンでもベスト8に入り、女子テニスツアーでも年間5勝を挙げるなど、彼女の選手経歴の中でもハイライトの時期だった。1980年に全仏オープンで2年ぶり2度目の決勝進出を果たしたが、今度はクリス・エバート・ロイドに 0-6, 3-6 で敗れ、2度目の優勝はならなかった。
ルジッチが2度目の優勝を逃した1980年まで、全仏オープンの女子シングルス本戦は出場資格者が「64名」であり、決勝までに6試合を勝ち進む流れになっていた。しかし1981年から出場枠が現在のような「128名」になり、7試合を勝ち進む方式に拡大された。その中で、ルジッチは1981年と1982年の大会では準々決勝まで進んでいる。この2年間は、上位シード選手は「1回戦不戦勝」(テニスの成績表では“BYE”という)を認められていた。1983年から現在のような、128名の選手全員が1回戦から勝ち抜くトーナメント方式になる。ルジッチの現役選手時代は、4大大会のトーナメント・システムにも大きな変更が加えられた過渡期でもあった。
1982年のウィンブルドン準々決勝でマルチナ・ナブラチロワに 2-6, 3-6 で敗れた試合の後、ルジッチのテニス成績は下降線にさしかかる。1987年のシーズンを最後に、ルジッチは32歳で現役を引退した。
4大大会優勝
[編集]- 全仏オープン 女子シングルス:1勝(1978年)/女子ダブルス:1勝(1978年)
年 | 大会 | 対戦相手 | 試合結果 |
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1978年 | 全仏オープン | ミマ・ヤウソベッツ | 6–2, 6–2 |
外部リンク
[編集]- バージニア・ルジッチ - WTAツアーのプロフィール
- バージニア・ルジッチ - ビリー・ジーン・キング・カップのプロフィール
- バージニア・ルジッチ - 国際テニス連盟
- ウィキメディア・コモンズには、バージニア・ルジッチに関するカテゴリがあります。