ケン・ウォートン
ケン・ウォートン | |
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基本情報 | |
国籍 |
イギリス ( イングランド) |
出身地 | 同・ウェスト・ミッドランズ州スメスウィック |
生年月日 | 1916年3月21日 |
没年月日 | 1957年1月12日(40歳没) |
F1での経歴 | |
活動時期 | 1952-1955 |
所属チーム |
'52 フレイザー・ナッシュ '52,'53 クーパー '54 マセラティ '55 バンウォール |
出走回数 | 15 |
通算獲得ポイント | 3 |
ポールポジション | 0 |
ファステストラップ | 0 |
最終戦 | 1955年イタリアGP |
ケン・ウォートン(Ken Wharton 、1916年3月21日 - 1957年1月12日)は、イングランド出身の元レーシングドライバー。F1のみならずラリーや耐久レース、スポーツカーレースなど幅広く活躍したドライバーでもあった。
略歴
[編集]F1
[編集]F1へは1952年スイスGPにフレイザーナッシュから参戦、同グランプリで4位入賞を記録している。彼自身にとってこれが最初で最後の入賞となった。同年最終戦からは名門クーパーに移籍するが、1953年とあわせて完走3回のみと振るわなかった。 1954年はマセラティから参戦。5戦中完走3回という記録を残す。(なお、ドイツGPは予選中に同僚のオノフレ・マリモンが事故死し、ルイジ・ヴィッロレージともども出走しなかった。)1955年からはバンウォールから2戦出場、祖国イギリスGPで9位完走を果たした。 完走すれば必ずシングルフィニッシュで、アクシデントによるリタイアもたった一回だったが、1956年はF1には顔を出さなかった。
そのほかの活動
[編集]F1に参戦しながらもラリーや耐久レース、スポーツカーレースにも出走し、1954年7月4日のランス12時間耐久レースではピーター・ホワイトヘッドとジャガー・Dタイプを駆け、優勝。また、1951年から1954年にかけてBHCC(英国ヒルクライム選手権)でチャンピオンを獲得した。なおBHCCで4回連続チャンピオンになったドライバーは後にも先にもウォートンただ一人である。1954年から1956年まではBST(英国スピードトライアル)でもチャンピオンとなった。
事故死
[編集]1957年1月12日、ニュージーランドで行われたスポーツカーレースにフェラーリ・750モンツァスパイダー・スカグリエッティで参戦したが、走行中にマシンが横転し事故死した。40歳だった。
レース戦績
[編集]F1
[編集]年 | 所属チーム | シャシー | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | WDC | ポイント |
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1952年 | フレイザー・ナッシュ/フラネラ | FN48 | SUI 4 |
500 | BEL Ret |
FRA | GBR | GER | 13位 | 3 | |||
421 | NED Ret |
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クーパー/フラネラ | T20 | ITA 9 |
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1953年 | クーパー/ケン・ウォートン | T23 | ARG | 500 | NED Ret |
BEL | FRA Ret |
GBR 8 |
GER | SUI 7 |
ITA NC |
NC (26位) |
0 |
1954年 | マセラティ/オーウェン | 250F | ARG | 500 | BEL | FRA Ret |
GBR 8 |
GER DNS |
SUI 6 |
ITA | ESP 8 |
NC (28位) |
0 |
1955年 | ヴァンダーヴェル | VW 55 | ARG | MON | 500 | BEL | NED | GBR 9 |
ITA Ret |
NC (37位) |
0 |
ル・マン24時間レース
[編集]年 | チーム | コ・ドライバー | 使用車両 | クラス | 周回 | 総合順位 | クラス順位 |
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1953年 | オートモビルズ フレイザー・ナッシュ Ltd. | ローレンス・ミッチェル | フレイザー・ナッシュ ル・マン ツーリング クーペ | S 2.0 |
253 | 13位 | 1位 |
1954年 | ジャガー カーズ Ltd. | ピーター・ホワイトヘッド | ジャガー・Dタイプ | S 5.0 |
131 | DNF | DNF |
1956年 | ジャック・フェアマン | S 5.0 |
3 | DNF | DNF |