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タケデンバード

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
タケデンバード
品種 サラブレッド
性別
毛色 黒鹿毛
生誕 1969年4月25日
死没 不明
アドミラルバード
エリースコット
生国 日本の旗 日本北海道新冠町
生産者 新冠橋本牧場
馬主 武市伝一
調教師 稲葉秀男(中山
競走成績
生涯成績 26戦6勝
獲得賞金 5025万0400円
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タケデンバード日本競走馬中央競馬重賞であるクモハタ記念東京1800メートル)と高松宮杯中京2000メートル)に優勝したが、どちらも(さらに初めての特別戦勝ちも)いわく付きの勝ち鞍であり、魔性の馬死神などと揶揄された。

なお、クラシックではランドプリンス皐月賞)・ロングエース日本ダービー)・イシノヒカル菊花賞有馬記念)・タイテエム天皇賞(春))などのいる「最強世代」と呼ばれた1972年世代の一頭である。

戦績

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1971年9月18日中山でデビューしたタケデンバードは、当レースを5着の結果で終わった。

その後は、5ヶ月の休暇を挟んでの4戦目の未勝利戦で初勝利を挙げた。この時点では、『単なる遅れて来た最強世代の凡庸な一頭』位の評価でしかなかった。

この評価が一転するのが、1972年7月9日に開催されたダービー[1]出走への足掛かりとなった特別戦・みずばしょう特別であった。4頭もの落馬事故が発生した当レースを、不利を受けず、タケデンバードは圧勝している[2]

ダービーを11着と言う結果に終わったタケデンバードは、10月22日の条件戦を勝ちオープン馬となった。次のカブトヤマ記念を2番人気で挑んだものの、ハクホオショウに完敗の9着に終わった。次走のクモハタ記念では野平祐二騎手が鞍上となった。

こうして始まったクモハタ記念[3]は、先導役と目されたトーヨーアサヒの出遅れと言う波乱のスタートとなった。断然の1番人気・ハクホオショウは先行集団の前の定位置に付け、タケデンバードはハクホオショウをマークすべくその外に位置していた。レースが動いたのは、直線に入ってからで、タケデンバードはラファールと共に抜け出す。ハクホオショウは馬群を抜け出すのに手間取ったものの、直線坂上でタケデンバードを捉えた。タケデンバードは二の足を使い逃げ込みを図るものの、ゴール前でハクホオショウにクビ差交わされた様にも見えていた。ところが、決勝判定写真の不備[4]で結果的に誤審となる形で優勝馬とされた。この誤審疑惑は当時は相当な物議を醸し、これ以降は写真判定が義務付けられる事になった(タケデンバード事件[2]

更に、翌1973年の高松宮杯では、逃げる2番人気のハマノパレード[5]が直線で落馬転倒し競走中止した。このため、離されていた2番手を走っていた同馬が、何の不利も受けずに1着入線[2]。1番人気のベルワイドが3着止まりだった事もあり万馬券決着となった。馬主調教師は共に不在で、鞍上も今回初騎乗の蓑田早人であった。

翌年連覇を狙って参戦した高松宮杯では、ハイセイコーに完敗。以降は引退迄の2戦共に惨敗。京王杯オータムハンデキャップは落馬競走中止、ラストランとなった毎日王冠は離された殿負けに終わった。

血統表

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タケデンバード血統ネアルコ系 / Pharos(Fairway)3×4・5=21.88%、Spearmint5×5=6.25%(父内)) (血統表の出典)

*アドミラルバード
Admiral Byrd
1952 黒鹿毛
父の父
Nearco
1935 黒鹿毛
Pharos Phalaris
Scapa Flow
Nogara Havresac
Catnip
父の母
Woodlark
1944 鹿毛
Bois Roussel Vatout
Plucky Liege
Aurora Hyperion
Rose Red

エリースコット
1962 黒鹿毛
*スコット
Scot
1954 鹿毛
Souverain Maravedis
Jolie Reine
Dissenter Cameronian
Lady Juror
母の母
*フエリー
1950 鹿毛
Channel Swell Fairway
Papilla
Mavida Marconigram
Roseflight F-No.1-m


脚注

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  1. ^ この年は、流感騒動の煽りを受け、通年より1ヵ月半遅くのレース開催となった。
  2. ^ a b c 競馬の天才!2019年8月号「競馬場の怪奇譚 ハマノパレード事件と「馬の福祉」問題の深い闇」
  3. ^ この年のみ、中山で無く東京での開催となった。
  4. ^ 発表時の手違いでは無いかとも言われている。
  5. ^ 前走の宝塚記念を優勝し、関西のエースの地位を掴みかけていた。

外部リンク

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