コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

テレビ三面記事 ウィークエンダー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
テレビ三面記事 ウィークエンダー
WEEKENDER
ジャンル ワイドショー
構成 池田淳
山崎忠昭
演出 萩原雪彦
森岡正彦
油井禧成
小川通仁
監修 円山法律事務所
司会者 加藤芳郎
出演者 桂朝丸
泉ピン子
横山やすし
西川きよし
円山雅也
ほか
ナレーター 小早川正昭
オープニング 「Rhapsody In White」
エンディング 「I do love you」
製作
プロデューサー 細野邦彦
製作 日本テレビ
放送
放送国・地域日本の旗 日本
レギュラー放送(55分番組時代)
放送期間1975年4月5日 - 1975年9月
放送時間土曜 22:00 - 22:55
放送分55分
レギュラー放送(54分番組時代)
放送期間1975年10月 - 1984年5月26日
放送時間土曜 22:00 - 22:54
放送分54分
大晦日スペシャル イヤーエンダー'75
放送期間1975年12月31日
放送時間水曜 19:00 - 20:54
放送分114分
回数1回
大晦日スペシャル イヤーエンダー'76
放送期間1976年12月31日
放送時間金曜 19:00 - 20:54
放送分114分
回数1回
イヤーエンダー'84お騒がせ事件総集編
放送期間1984年12月31日
放送時間月曜 21:00 - 23:19
放送分139分
回数1回
ピン子のウィークエンダーリターンズ
司会者泉ピン子
羽鳥慎一
放送期間2005年12月31日
放送時間土曜 18:00 - 20:00
放送分120分
回数1回
大晦日限定!泉ピン子ウィークエンダー2006
司会者泉ピン子
放送期間2006年12月31日
放送時間日曜 18:00 - 21:00
放送分180分
回数1回
テンプレートを表示

テレビ三面記事 ウィークエンダー』(テレビさんめんきじ ウィークエンダー)は、日本テレビ系列局ほかで放送された日本テレビ製作のワイドショーである。全465回。

製作局の日本テレビでは1975年4月5日から1984年5月26日まで、毎週土曜22:00 - 22:55 (1975年9月まで)→土曜22:00 - 22:54 (同年10月以降)に生放送されていた。遅れネット局では録画放送。1978年からは、『24時間テレビ 「愛は地球を救う」』の放送日と重なっていた場合には放送を休止していた。

概要

[編集]

全国ニュースで伝えられることがないB級事件について、リポーターフリップボードや再現フィルムを使って解説していた番組である。生放送で放送されていた(司会の加藤芳郎がプロ野球の結果を伝えていたことがあった)。常に30%以上の視聴率を獲得し、日本テレビの看板番組の一つになっていた[1]。当時日本テレビでは朝のワイドショー『あなたのワイドショー』の金曜日枠内で類似コーナーとも言える「テレビ三面記事」が放送されており[2]、本番組はそれを週末のプライムタイム枠に持ってきて、夜の放送に向いた(かつ男性向き)事件内容にスライドさせたスピンオフ番組と言える。

下世話な事件を泉ピン子大山のぶ代・桂朝丸(後の桂ざこば)・高見恭子青空はるおらが面白おかしく伝え、特に泉はこの番組で飛躍的に知名度を得た。スタジオでリポーターが喋るという極めて低予算の作りで高視聴率を挙げており、プロデューサーの細野邦彦は「最も低予算でヒットをつくる名人」と言われた[3][4]

ウィークエンダーというタイトルはいわゆる和製英語で、かつて同じ日本テレビで『ウィーク・エンド・イン』というタイトルのバラエティ番組が放送されていたことから、スタッフがこれを基にした話題で親友の外国人と話し合っているうちに、比較的楽に『ウィークエンダー』というタイトルに決まっていったという[5]

番組の流れは、番組タイトル→提供クレジットコマーシャル→ふたたび番組タイトル→出演者・スタッフ紹介→オープニング→最初の記事の順だった。そして番組のラストでは「来週こそいい週でありますように… おやすみください」というメッセージボードが出された。なお、毎年の最終放送では「来週こそいい週」は「来年こそいい年で」と代えられ、さらに毎年一発目の放送では「今年もいい年でありますように…」となっていた。

1984年の時点でも視聴率は約20%を確保しており好調だったが、スポンサーが30分番組を2本提供したいという営業上の理由により終了した[6]

取り上げた話題

[編集]

性犯罪や情欲絡みの殺人事件、少女買春などを扱うことが多かったが、当時の番組表によると震災など通常の事件や殺人などの凶悪事件も多少放送しており、番組終了の1984年にはグリコ森永事件ロス疑惑、当時は原因不明の奇病として世界中で恐れられていたエイズなども報じていた。また当時、その存在が世間に知られるようになり、日本医師会と確執状態にあった医療法人徳洲会」を「24時間いつでも診てくれる」、「患者は廊下の真ん中を歩き医師やスタッフは端を歩く」など好意的に紹介するなどもした。

番組に対する批判

[編集]

人気番組だったその一方で「表現が過激」「興味本位すぎる」との批判が常にも寄せられた[7][8]。1978年には日本PTA全国協議会が選んだ子供に見せたくない番組「ワースト7」の中にランキングされている[9]

放送当時、『テレビ腐蝕検証』(1977年刊、汐文社)や『テレビよ、驕ることなかれ』(1983年刊、麦秋社)などの書籍で、青少年への悪影響(性描写に関して)や、事件当事者への配慮の欠如、信憑性などが非難された。

1975年10月18日放送の回で同年9月のストリップ小屋への警察による一斉摘発・抜き打ち捜査の事件を採り上げた際に泉ピン子が「スパっと脱いで一日8万円なら、私もやりたいわ」と発言したことに、ストリッパーで構成する組織「日本成人実演舞踊協団」が抗議。この発言だけでなく「罰金も払って決着は付いていたのに、また蒸し返された」と憤慨した上で「興味本位で事件を採り上げるテレビ局の姿勢が許せない。今後は日本テレビの番組への出演は一切辞退させていただく」と、この番組がこの事件そのものを採り上げたことについても抗議し、同年12月29日に放送を控えていた同じ日本テレビの『11PM』の「恒例!年忘れ大狂乱 紅白ストリップ合戦」についても同協団に所属する30人のストリッパーの出演の拒否を表明し、更に日劇ミュージックホールロック座など他団体にも働きかけて、他の局への出演も拒否する方向に持って行くという方針を明らかにし、当時茶の間でストリップが見られなくなるかも知れないという騒ぎになった[10]。その後和解は成立し、12月29日の11PMの紅白ストリップ合戦は予定通り放送された。

初期の「再現フィルム」は殺人事件ばかりをリアルに扱っていたために放送開始後間もなくして抗議を受け[5]、それは局のPR室だけでなくインフォメーションセンターや報道部にまで回り[5]、当時の朝日新聞の電話で受け付けた意見を掲載していたコーナー『0023コーナー』ではこの番組のことで意見が殺到したことで急遽この番組に関する特集を組んだほどであった[5]。果ては司会の加藤芳郎宅にも「イメージダウンになるから変な番組に出るな」「あまりふざけるな」など抗議の電話が行ったほどであった[5]。そのようなこともあって、いったんコーナーが中止になる。復活に際しては犯人の名前など人名を仮名にし、顔写真フリップは目隠し入りで対応した。同時に殺人事件以外に覗き・恐喝・トルコ風呂など、殺人以外の「再現フィルム」も放送されるようになった。

出演者

[編集]

司会は加藤芳郎(加藤が入院した期間は青空はるおが代理)。1975年4月5日に開始直後は、青空はるお、天地総子、石原裕子、うつみ宮土理、大沢嘉子、大野しげひさ大山のぶ代西川きよし野沢那智水の江瀧子リポーター役でレギュラー出演した[11]。その後は、桂朝丸泉ピン子横山やすし青空うれしすどうかずみ高見恭子エド山口、加原夏美(有田美春から改名)、芸能リポーター井口成人スイッチョンなどに交代する。桂朝丸が降板後は、桂べかこ春やすこ桂雀々(最後の1年だけ)と引き継がれた。のちに政治家に転身した山谷えり子や、『Gメン'75』の主題歌を歌ったしまざき由理もリポーターを務めた時期がある[12]

クインシー・ジョーンズによる『鬼警部アイアンサイド』のテーマとともに、ナレーターの小早川正昭(元日本テレビアナウンサー)の「新聞によりますと…」で始まる事件解説のイントロダクションが特徴であった。

「再現フィルム」には、柳沢慎吾山口良一片霧竜二大地康雄らが出演した。なかでも笑福亭鶴光のそっくりさんの役者・高嶋洋は常連で、コメディタッチの役柄や変態役でよく出演していた。

特別番組

[編集]

イヤーエンダー

[編集]

開始直後の1975年と翌1976年12月31日(大晦日)には各月のニュースのなかから1つをピックアップしたものが19:00 - 20:54に総集編『大晦日スペシャル イヤーエンダー'XX』(『XX』には「75」か「76」が入る)として放送されていた[注 1]。本放送の終了後となる1984年の大晦日にも『第35回NHK紅白歌合戦』の裏番組として『イヤーエンダー'84お騒がせ事件総集編』として、21:00 - 23:19枠[13]で放送された。

ピン子のウィークエンダーリターンズ

[編集]

2005年の大晦日には、メイン司会に泉ピン子司会、サブ司会に羽鳥慎一(当時日本テレビアナウンサー)で『ピン子のウィークエンダーリターンズ2005』として21年ぶりに復活。18:00からの2時間番組であった。奈良騒音傷害事件など2005年に世間を騒がせた事件について取り上げている。番組内容はスタジオ出演者によるリポートはあるもののほとんどピン子のトークバラエティで、当時の画像は辛うじてオープニングに20秒ほど出ただけである。視聴率は裏番組『第47回日本レコード大賞』(TBSテレビ)を0.4ポイント上回る10.4%を記録した[要出典]

2006年大晦日にも『大晦日限定!泉ピン子ウィークエンダー2006』というタイトルで復活特番を放送、放送時間も1時間拡大して、シリーズ最長の3時間番組として放送したが[14]視聴率は7.1%[要出典]と低迷した。この年は番組後半がいじめをテーマとした討論会となっていた。諏訪地方連続放火事件(くまぇり)を紹介する時にほしのあきグラビアアイドルの現実を取り上げていた。

評価

[編集]

裏番組の『ウィークエンダー』に低視聴率を強いられた頃のTBSテレビでは、当時の役員が「ウチにこれだけの番組を作るサムライがいたら…」と評価[15]NHKで『NHKスペシャル』などを手掛けてドキュメンタリー番組で数々の賞を受賞したディレクターの相田洋も、『ウィークエンダー』の登場をテレビ番組史上の重要な出来事と評価した。『ウィークエンダー』の素材はともかく、方法論については学ぶことが多いとし、たとえ動く映像が撮影できなくとも、キャスターは現場に立って一次情報に接し、自分の言葉で視聴者に語ることが大事だと訴える。1998年にNHKスペシャル『マネー革命』を制作したときは「私たちは首から上の『ウィークエンダー』を目指そう」と檄文に書いた[16]。『BS自動車』から相田がテレビに出演して視聴者に解説するというスタイルを用いて、この方法論を実践している[17]

岡嶋二人の長編『とってもカルディア』と連作短編『三度目ならABC』は、この番組を連想させる事件再現フィルムを専門に請け負う制作会社スタッフを主人公にしている。作者(岡嶋は合作ペンネーム)の一人井上夢人は映像制作会社出身とされているが、この番組に関わっていたかどうかははっきりしない。

映像の保存状況

[編集]

当番組が放送された時期は、上記の通りPTAのワースト番組に常連で挙げられていたうえ、1970年代まで放送用VTRの規格が2インチで高価・操作頻雑だったこと等も重なり、横浜市にある放送ライブラリーへの映像の保存は一切行われていない。

2003年ダウンタウンのバラエティ50年史』において当番組の一部がダイジェストで1分ほど放送され、朝丸、うれし、すどう、はるお、加藤の映像が流された。2008年3月2日『THE・サンデー』でロス疑惑を伝えた際には「イヤーエンダー」の模様(おもにインタビュー)が放送された。

使用楽曲

[編集]

ネット局

[編集]

当時は日本テレビ系フルネットの地方局も現在と比べてかなり少なかったためネット局は少なかった。この当時の日本テレビ系土曜22時台がローカルセールスだったためである。2024年現在もこの名残があり福井放送ではテレビ朝日制作水曜21時台ドラマ(『相棒』など)を放送している。

一部の系列局と系列局外で放送された事例もあるが、午前0時台などの深夜帯(当時としては相当遅い)が多かった。大晦日の特別番組のみネットしていた局も多かった。特に、既存のNNS系かありながら、ネット拒否や編成の都合で他系列で放送された県もあった。

主なスタッフ

[編集]
  • 監修:円山法律事務所
  • ナレーター:小早川正昭
  • 構成:池田淳、山崎忠昭
  • 取材:吉田清、林田慎也、渡辺正人、山田哲也、荒井裕晶
  • 演出:萩原雪彦、森岡正彦、油井禧成、小川通仁
  • プロデューサー:細野邦彦
  • 製作:日本テレビ

スタッフ(復活版)

[編集]
ピン子のウィークエンダーリターンズ
部門 担当者
構成 内田裕士、橋本敦司、会沢展年、大久保政男ほか
TM 古井戸博
TD 土屋隆
SW 村上新郷
CAM 遠藤文章
MIX 中村一男
VE 佐藤満
LD 高星武志
美術 高津光一郎
デザイン 道勧英樹
EED 稲垣浩二
MA 竹岡良樹
TK 塚越倫子
音効 相田恵美子、村尾有紀子
CG アイヴリックスタジオ
ロゴ協力 アイドマ
編成 中村博行
広報 高松美緒
デスク 赤津郷子
海外コーディネート サイモン・プレンティス、南米通信社
参考文献 「チャールズとカミラ」(イーストプレス刊)
AD 野地努、廣瀬由紀子、白川大介、杖谷友香、生出恵美子、石内史帆
AP 横山裕康、城戸可路、鈴木香代
ディレクター 山見穣太郎、陸口考史、三井利行、田中真二、岩井俊幸、内田功、小澤俊一、三嶋敏裕、青柳剛、中野テツジロ、山井貴超、清水晃
演出 佐藤健二郎、吉田絵
総合演出 吉原利一
プロデューサー 千葉知紀、面髙昌義、佐藤俊一、山田哲也、松橋裕
チーフプロデューサー 後藤東
制作協力 アンメック、mondo、日本テレビエンタープライズ
製作著作 日本テレビ

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ なお、前年1974年の同枠でも、石原慎太郎を司会に起用した『大晦日スペシャル'74』が放送された事があった(以上 参考:「読売新聞縮刷版」1974年・1975年・1976年のそれぞれ12月31日付のラジオ・テレビ欄)。
  2. ^ a b c 当時は日本テレビ系列・NET〜テレビ朝日系列のクロスネット局だった(山口放送は1978年10月以降)。
  3. ^ 青森放送は『11PM』を1977年3月に日本テレビ系列局で最初に打ち切っていた。
  4. ^ 放送開始当初同時ネットせず、深夜枠での放送とし、代わりに東京12チャンネルの『大江戸捜査網』を時差ネットしていた。放送開始から半年後の1975年10月から同時ネットとなるが、その後再び深夜でのディレイネットになったこともある。
  5. ^ 前番組『傷だらけの天使』は広島ホームテレビ(NET〜テレビ朝日系列)で火曜日22時から遅れ放送していたが本番組は広島テレビ・広島ホームテレビの両局とも放送枠を確保できなかった。なお、広島テレビは従来通りフジテレビ系の遅れネット番組を編成し、広島ホームテレビの火曜日22時台は1975年10月改編まで引き続き日本テレビ系遅れネット枠とされ『金曜劇場ちんどんどん』を放送し、NET系で同枠の『TOKYO DETECTIVE 二人の事件簿』(ABC制作)も土曜16:30から遅れネットしていた。
  6. ^ 南海放送は、当時は事実上TBS系・テレビ朝日系とのクロスネット編成を組んでいた。
  7. ^ 当時の社長、野村幸祐が教育界出身だった山口放送は当番組の他にも『ミセス&ミセス』・『11PM』・『お昼のワイドショー』のエログロ低俗化を訴えた[要出典]。最終的には、山口放送での当番組と『お昼のワイドショー』のネットは継続されたものの、『11PM』は1978年3月で、『ミセス&ミセス』は同年9月でネット打ち切りになった。(山口放送では『11PM』は『プロ野球ニュース』に差し替えたが、『お昼のワイドショー』については、1978年当時は裏番組の『笑っていいとも!』(1982年10月4日開始)が放送開始していなかった。尚、『ミセス&ミセス』(該当番組以降の現『スッキリ』)、『お昼のワイドショー』(現『ヒルナンデス!』)NNS加盟局でも新潟総合テレビテレビ熊本テレビ大分鹿児島テレビ放送では放送されなかった(テレビ大分を除き現在はNNS脱退)。)
  8. ^ 1979年3月までの放送エリアは香川県のみで、同年4月より岡山県でも放送開始。

出典

[編集]
  1. ^ 日本テレビ放送網株式会社社史編纂室 編『大衆とともに25年 沿革史』日本テレビ放送網、1978年8月28日、241頁。NDLJP:11954641/133 
  2. ^ 木村政雄の私的ヒストリー|木村政雄の事務所
  3. ^ 荒俣宏『TV博物誌』小学館、1997年、p.256
  4. ^ 岡田晋吉『青春ドラマ夢伝説 あるプロデューサーのテレビ青春日誌』日本テレビ放送網、2003年、p.167
  5. ^ a b c d e 週刊TVガイド 1975年5月2日号 p.16 - 21「土曜日の夜、何かが起こる『テレビ三面記事 ウィークエンダー』全角度レポート」
  6. ^ 『中日新聞』1984年5月4日付夕刊
  7. ^ 読売新聞芸能部、『テレビ番組の40年』日本放送出版協会、1994年、p.383
  8. ^ 藤平芳紀『視聴率の正しい使い方』朝日新聞社、2007年、p.137
  9. ^ TVワースト7 放映の中止を要求 日本PTA全国協議会『朝日新聞』1978年(昭和53年)8月9日朝刊、13版、22面
  10. ^ 週刊TVガイド 1975年12月12日号 p.23「REPORT・泉ピン子の発言にストリッパーが抗議」
  11. ^ 毎日新聞夕刊 1975年4月5日掲載の新番組広告より
  12. ^ 讀賣新聞夕刊 1981年7月13日
  13. ^ 参考:「読売新聞・縮刷版」1984年12月31日付ラジオテレビ欄
  14. ^ 2006年12月31日付「朝日新聞」ラジオ・テレビ欄
  15. ^ 読売新聞朝刊 1976年1月4日
  16. ^ 相田洋『ドキュメンタリー 私の現場 記録と伝達の40年』日本放送出版協会、2003年、pp.192-193
  17. ^ 川本裕司『ニューメディア「誤算」の構造』リベルタ出版、2007年、p.26
  18. ^ 『東奥日報』1977年10月17日付朝夕刊のATVテレビ欄(これに『新番組「テレビ三面記事」』と記載あり)
  19. ^ 岩手日報』1977年9月各日朝刊テレビ欄
  20. ^ 福島民報』1983年9月テレビ欄
  21. ^ 『福島民報』1975年10月4日、1976年9月25日、1981年10月3日付朝刊、テレビ欄。
  22. ^ 『北日本新聞』1978年5月20日付朝刊、テレビ欄。
  23. ^ 1975年4月11日、1979年9月29日 信濃毎日新聞 テレビ欄
  24. ^ 1980年10月4日、1983年9月、1983年10月8日、1984年3月31日 信濃毎日新聞 テレビ欄
  25. ^ 山梨日日新聞』1977年9月各日朝刊テレビ欄
  26. ^ 『北國新聞』1975年10月6日付、1977年2月12日、1983年9月付各朝刊テレビ欄より
  27. ^ 山陰中央新報』1983年9月テレビ欄
  28. ^ a b 山陽新聞』1983年9月テレビ欄
  29. ^ 中国新聞、1977年12月23日、16ページ、テレビ・ラジオ欄。
  30. ^ 中国新聞、1978年10月6日、24ページ、テレビ・ラジオ欄。この時は本番組では珍しく昼間時間帯での放送。
  31. ^ 愛媛新聞』1977年9月各日朝刊テレビ欄
  32. ^ a b 熊本日日新聞』1977年9月各日朝刊テレビ欄
  33. ^ 沖縄タイムス』1983年9月テレビ欄

関連作品

[編集]

1976年6月19日、この番組を連想させるテレビ番組のスタジオを模したセットで、泉ピン子の進行により、大久保清西口彰らの事件をオムニバス形式で再現した映画『戦後猟奇犯罪史』(監督:牧口雄二)が、全国東映系で公開された。この作品は独自に企画された犯罪実録ドラマオムニバスで、番組人気に便乗するような内容だったため監督は反対したが、会社の意向で追加撮影、挿入された。

関連項目

[編集]
日本テレビ系列 土曜22時台
前番組 番組名 次番組
テレビ三面記事 ウィークエンダー