ハート・ファウンデーション
ザ・ハート・ファウンデーション | |
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ブレット "ヒットマン" ハート(左)とジム "ジ・アンヴィル" ナイドハートの "オリジナル" ハート・ファウンデーション(1989年) | |
概要 | |
メンバー |
ブレット・ハート ジム・ナイドハート オーエン・ハート ブリティッシュ・ブルドッグ ブライアン・ピルマン |
名称 |
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デビュー | 1985年 |
解散 | 1997年 |
団体 |
ザ・ハート・ファウンデーション(The Hart Foundation)は、ブレット・ハートを中心にWWF(現:WWE)で活躍したプロレスラーのタッグチーム・ユニット。メンバーの多くはスチュ・ハートに師事した人物であり、WWF以前にはカナダのスタンピード・レスリングを主戦場としていた。
来歴
[編集]1985年 - 1991年
[編集]1985年、ブレット・ハートとその義兄であるジム・ナイドハートによってWWFで結成される。マネージャーはジミー・ハートが務めた(同姓だが、彼はハート・ファミリーとの血縁関係は無い。なお、ジミー・ハートは1983年頃、テネシー州メンフィスのCWAでナイドハートのマネージャーを担当していた)。
当初はヒールのチームとして、ブリティッシュ・ブルドッグス(ダイナマイト・キッド&デイビーボーイ・スミス)、キラー・ビーズ(ジム・ブランゼル&ブライアン・ブレアー)と抗争を繰り広げた。その後、悪徳レフェリーのダニー・デービスとも結託、1987年1月26日にはWWF世界タッグ王座をブルドッグスから奪取する[1]。同王座は同年10月26日にストライク・フォース(ティト・サンタナ&リック・マーテル)に敗れるまで[1]、ブルドッグス、ビーズ、カンナム・コネクション(マーテル&トム・ジンク)、ルージョー・ブラザーズ(レイモンド・ルージョー&ジャック・ルージョー)などの挑戦を退けて保持した[2]。
王座陥落後の1988年からはベビーフェイスに転向し、ジミー・ハートやデービスとも決別。以降はWWFを代表するタッグチームとしてタッグ戦線の中心で活躍。ブレーン・バスターズ(タリー・ブランチャード&アーン・アンダーソン)、リズム&ブルース(ホンキー・トンク・マン&グレッグ・バレンタイン)との抗争を経て、1990年8月27日のサマースラム'90にてデモリッション(スマッシュ&クラッシュ)を破り、再びWWF世界タッグ王座を獲得した[3]。
王座戴冠後はジミー・ハートがマネージャーを務めるナスティ・ボーイズ(ブライアン・ノッブス&ジェリー・サッグス)と抗争、1991年3月24日のレッスルマニア7で防衛戦を行うが、ジミーの干渉により王座を失う[4]。これを機にハート・ファウンデーションは解散、ブレットはシングルプレイヤーに転向し、ナイドハートはオーエン・ハートとの新チーム "ニュー・ファウンデーション" を経て1992年にWCWへ移籍した。
日本では、1991年3月30日に開催されたSWSの東京ドーム大会において、ザ・ロッカーズ(マーティ・ジャネッティ&ショーン・マイケルズ)と対戦した[5]。両者とも日本マットには何度となく参戦しているが、コンビとしての来日および試合出場は、これが唯一である。
1997年
[編集]1997年のレッスルマニア13以降、ヒールターンしたブレット・ハートをリーダーにハート・ファウンデーションは再結成される(便宜上「ニュー・ハート・ファウンデーション」と呼ばれる場合がある)。この時のメンバーはブレット以下、WWFに復帰したジム・ナイドハート、ブレットの実弟オーエン・ハート、ブレットの義弟ブリティッシュ・ブルドッグ、そしてハート・ダンジョンでトレーニングを積んだことのあるアメリカ人レスラーのブライアン・ピルマンである。
カナダを賛美する一方でアメリカを愚弄するマイクパフォーマンスを行い、反米ヒールとしてストーン・コールド・スティーブ・オースチン、D-ジェネレーションXなどと抗争を展開。7月6日にホームタウンのカルガリーで開催されたイン・ユア・ハウス16 "カナディアン・スタンピード" では、オースチン、ケン・シャムロック、ゴールダスト、リージョン・オブ・ドゥームとの10人タッグマッチで勝利を収めた[6]。
しかし、リーダーのブレットとWWFの関係が悪化して、ブレットはWCWへ移籍することとなった。同年11月9日、ブレットのWWFでの最後の試合となったサバイバー・シリーズ'97でのショーン・マイケルズ戦でモントリオール事件が発生し、ナイドハートとブルドッグもブレットと共にWCWへ移籍することが決定。ピルマンは同年10月5日に死去しており、最終的にはオーエンのみがWWFに残り、ハート・ファウンデーションは自然消滅した。なお、WCWにおいても移籍してきたメンバー(ブレット、ナイドハート、ブルドッグ)でハート・ファウンデーションを再編するストーリー案があったとされる。
WWE殿堂
[編集]2019年4月6日、ブレット・ハートとジム・ナイドハートの "オリジナル" ハート・ファウンデーションとしてWWE殿堂に迎えられた[7]。ニューヨーク州ブルックリンのバークレイズ・センターで開催された殿堂入り式典では、ナイドハートの娘のナタリアがインダクターを務めた[8]。
メンバー
[編集]- オリジナル・ハート・ファウンデーション
- ニュー・ハート・ファウンデーション
- ブレット・ハート
- ジム・ナイドハート
- オーエン・ハート
- ブリティッシュ・ブルドッグ
- ブライアン・ピルマン
ハート・ファウンデーション2.0
[編集]2002年、テディ・ハート、ハリー・スミス、T.J.ウィルソン(現・タイソン・キッド)、ジャック・エバンスによってハート・ファウンデーション2.0が結成された。テディ・ハート、ハリー・スミスの両名は、スチュ・ハートの孫にあたる人物で、ウィルソン、エバンスもハート道場の門下生である。
ハート・ダイナスティ
[編集]2009年5月、ブリティッシュ・ブルドッグの息子デビッド・ハート・スミス、"ハート・ダンジョン" の卒業生タイソン・キッド、ジム・ナイドハートの娘ナタリヤによって、当時のWWEの第3ブランドだったECWで結成される。結成当初はハート・トリロジー(The Hart Trilogy)と名乗っていたが、後にハート・ダイナスティ(The Hart Dynasty)と改称。ヒールのポジションで活動後、2010年3月28日に開催されたレッスルマニア26でのブレット・ハートとビンス・マクマホンの一戦をきっかけにフェイスターンする。4月25日のエクストリーム・ルールズにて、スミス&キッドは統一タッグ王者のビッグ・ショー&ザ・ミズを下して統一タッグ王座への第一挑戦者となり、翌日のRAWで王者組を破り新王者チームとなる(なお、8月16日のRAWにおいて、統一タッグ王座は当時のRAWのGMだったブレット・ハートの発表をもってWWEタッグ王座となる)。その後、追加ドラフトによりRAWへ正式に移籍した。
オーバー・ザ・リミットではクリス・ジェリコ&ミズ、フェイタル・4ウェイ、マネー・イン・ザ・バンクではウーソズを相手に防衛を重ねていたが、9月19日のナイト・オブ・チャンピオンズのタッグチーム・ターモイル形式の王座戦でウーソズに敗れ、王座から陥落(試合の結果、コーディ・ローデス&ドリュー・マッキンタイアが新王者となった)。また、この後からナタリヤは統一ディーヴァズ王座をめぐりレイ・クール(ミシェル・マクール&レイラ)と抗争を開始したため、シングルプレイヤーとしての活動が多くなった。スミスとキッドは王座陥落後もタッグ王座戦線に絡むが、敗戦が続いてチームは不和となり、11月15日のジャスティン・ガブリエル&ヒース・スレイター戦で両者は仲間割れ。以後、キッドはヒールターンし、ハート・ダイナスティは解散した。
脚注
[編集]- ^ a b “History of the WWE World Tag Team Championship”. WWE.com. 2010年10月11日閲覧。
- ^ “WWE Yearly Results 1987”. The History of WWE. 2024年6月15日閲覧。
- ^ “WWF Summer Slam 1990 Results”. ProWrestling History.com. 2010年10月11日閲覧。
- ^ “WWF WrestleMania VII Results”. ProWrestling History.com. 2010年10月11日閲覧。
- ^ “SWS Wrestlefest In Tokyo Dome”. Cagematch.net. 2023年10月8日閲覧。
- ^ “WWF In Your House 16: Canadian Stampede”. Cagematch.net. 2023年12月11日閲覧。
- ^ “The Hart Foundation: Bio”. WWE.com. 2019年4月7日閲覧。
- ^ “Natalya honors Jim “The Anvil” Neidhart at WWE Hall of Fame induction”. WWE.com. 2019年4月7日閲覧。