コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

ピート・マラビッチ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ピート・メラビッチから転送)
ピート・マラビッチ
Pete Maravich
ジャズ時代のマラビッチ (1977年)
故人
愛称 Pistol Pete
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
生年月日 1947年6月22日
没年月日 (1988-01-05) 1988年1月5日(40歳没)
出身地 ペンシルベニア州アリクイパ
死没地 カリフォルニア州パサデナ
身長(現役時) 196cm (6 ft 5 in)
体重(現役時) 89kg (196 lb)
キャリア情報
高校 D・W・ダニエル高等学校英語版
ブロートン・マグネット高等学校英語版
エドワーズ・ミリタリー・インスティテュート (ノースカロライナ州サレムバーグ)
大学 LSU
NBAドラフト 1970年 / 1巡目 / 全体3位[1]
プロ選手期間 1970年–1980年
ポジション SG
背番号歴 44, 7
永久欠番 ジャズ  7 
ペリカンズ  7 
ホークス  44 
経歴
19701974アトランタ・ホークス
19741980ニューオーリンズ / ユタ・ジャズ
1980ボストン・セルティックス
受賞歴
通算成績
得点数 15,948 (24.2 ppg)
リバウンド数 2,747 (4.2 rpg)
アシスト数 3,563 (5.4 apg)
Stats ウィキデータを編集 Basketball-Reference.com
Stats ウィキデータを編集 NBA.com 選手情報 NBA.Rakuten
バスケットボール殿堂入り選手 (詳細)
カレッジバスケットボール殿堂入り (2006年)

ピーター・プレス・マラビッチ (Peter Press Maravich, 1947年6月22日 - 1988年1月5日) は、アメリカ合衆国ペンシルベニア州アリクイパ出身の元プロバスケットボール選手。NBAアトランタ・ホークスニューオーリンズ・ジャズなどでプレーし、創造的なドリブルやパス、得点の技術において際立った存在であった。カレッジ・バスケットボール時代はLSUタイガースで活躍し、父であるプレス・マラビッチヘッドコーチのもとでプレーしていた。また、NCAAディビジョンIの歴代最多得点保持者であり、今も破られないであろう、通算3,667得点、1試合平均44.2得点という記録を残している。愛称は「ピストル・ピート[1]1987年に殿堂入り。

少年期

[編集]

父のプレス・マラビッチことピーター・マラビッチ・シニアは元プロバスケットボール選手でNBL、BAAで1945年から1947年までプレーし[2]、のちに大学でバスケットボールチームの監督を務める人物だった。ピート・マラビッチは7歳の頃から父にバスケットボールの手ほどきを受け、日々何時間も練習に取り組んだ。ピート・マラビッチは3ヶ所の高校に通ったが、試合では一試合平均30得点以上をあげる選手になっていた。

カレッジ時代

[編集]

1966年、父はルイジアナ州立大学でバスケットボールの監督を務めることになり、息子のピート・マラビッチも同大学に入学した。当時の規則では1年生が公式戦に出場することは認められていなかったので、マラビッチは1年生のみのチームでプレーした。17試合の出場で、マラビッチは平均43.6得点[1]、7.3アシスト、10.4リバウンドという記録を残した。

翌年、2年生に上がったマラビッチは父が指揮するチームで公式戦に出場するようになり、平均得点43.8、平均アシスト4、平均リバウンド7.5という成績をあげた。3年生、4年生時の平均得点は44点を超え、4年間の平均得点は44.2である。4年生の時にはジェームズ・ネイスミス賞を受賞した。

公式戦で残した通算3,667得点は現在でもNCAA記録である。他にも、4年間の平均得点 (44.2)、フィールドゴール成功数 (1,387) と試投数 (3,166)、1シーズンの総得点(1970年の1,381)など[1]の他、フリースローに関する記録も持っている。

 NCAA キャリアスタッツ

[編集]
略称説明
  GP 出場試合数   GS  先発出場試合数  MPG  平均出場時間
 FG%  フィールドゴール成功率  3P%  スリーポイント成功率  FT%  フリースロー成功率
 RPG  平均リバウンド  APG  平均アシスト  SPG  平均スティール
 BPG  平均ブロック   TO  平均ターンオーバー  PPG  平均得点
 太字  キャリアハイ  *  リーグリーダー  †  優勝シーズン
シーズン チーム GP GS MPG FG% 3P% FT% RPG APG SPG BPG PPG
1966–67[3] ルイジアナ州立大学 19 ... ... .452 ... .833 10.4 ... ... ... 43.6
1967–68 ルイジアナ州立大学 26 ... ... .423 ... .811 7.5 4.0 ... ... 43.8
1968–69 ルイジアナ州立大学 26 ... ... .444 ... .746 6.5 4.9 ... ... 44.2
1969–70 ルイジアナ州立大学 31 ... ... .447 ... .773 5.3 6.2 ... ... 44.5
Career[4][5] 83 ... ... .438 ... .775 6.5 5.1 ... ... 44.2

プロ時代

[編集]

マラビッチは1970年のNBAドラフトボブ・レイニアルディ・トムジャノビッチに続いて、アトランタ・ホークスより全体3位で指名された。同時にABAカロライナ・クーガーズからも誘いを受けたが、マラビッチはホークスに入団した。クーガーズからは200万ドル、ホークスからは190万ドルの契約を提示されており、これは当時としてはかなり高額な契約だったことからチームのベテラン選手からは歓迎されていなかった[1]

マラビッチはABAに移ったジョー・コールドウェルの代わりとして1年目から活躍し、リーグ9位の平均23.2得点をあげオールルーキーファーストチーム入りした。チームはボルチモア・ブレッツに次いでセントラル・ディビジョン2位となりプレーオフ準決勝でニューヨーク・ニックスに敗れた[1]ルー・ハドソンウォルト・ベラミーが活躍した翌シーズンは19試合に欠場、2年目のジンクスで平均19.3得点と成績を落としたがボストン・セルティックスとのプレーオフでは平均27.7得点をあげた[1]。3年目のシーズンには平均26.1得点(リーグ5位)、6.9アシスト(リーグ6位)と復調、オールスターゲーム初出場を果たし、シーズン終了後にはオールNBAセカンドチームに選ばれた。チームは46勝36敗と勝ち越した。プレーオフで平均26.2得点をあげたが、またしてもボストン・セルティックスに敗れた[1]

続く1973-74シーズン、バッファロー・ブレーブスボブ・マカドゥーに次いでリーグ2位の平均27.7点をあげた。この年2度目のオールスター出場を果たし、22分間の出場で15得点をあげた[1]

1974年にNBAの新たなチームとしてニューオーリンズ・ジャズが設立され、ジャズは地元の大学で活躍したマラビッチをトレードによって獲得した。ジャズでの1年目となった1974-1975シーズン、マラビッチは生涯最低のフィールドゴール成功率41.9%を残し、平均得点も21.5に落ちた。チームもNBAワーストの23勝59敗に終わった[1]。翌シーズンは故障がちで62試合に出場し平均25.9得点(マカドゥー、カリーム・アブドゥル=ジャバーに次ぐリーグ3位)、自己最高のフィールドゴール成功率45.9%の成績をあげて初のオールNBAファーストチームに選ばれた[1]

1976-77シーズンには73試合に出場、31.1得点をあげ、リーグの得点王を獲得、オールNBAファーストチームに選ばれた。1977年2月25日のニューヨーク・ニックス戦では68得点をあげた[1]

1977-78シーズン、マラビッチは膝の怪我とバクテリア感染に見舞われ、32試合に欠場、平均27.0得点をあげた[1]。続くシーズンには怪我の影響で49試合の出場にとどまり[1]、ベンチで過ごす時間も多くなった。

1979年にジャズはユタ州ソルトレイクシティに移転した。このシーズンにジャズはエイドリアン・ダントリーを獲得し、マラビッチの出場時間はさらに減少した[1]。マラビッチはシーズンが始まってから2ヶ月余りが過ぎた1980年1月17日、契約を解消されボストン・セルティックスと契約した[1]。セルティックスでも十分な出場時間を得られず、シーズンが終わるとマラビッチは引退した。

プレースタイルと業績

[編集]

少年時代のマラビッチは既に両脚の間を通すドリブル、背後でのドリブル、ノールックパスなどを会得しており、大学に入る頃には人目を引く派手なプレースタイルで人気を集めていた。マラビッチはトリッキーなドリブルやパスを高いレベルで行い、後年のマジック・ジョンソンジェイソン・ウィリアムズの先駆けのような選手だった。

マラビッチは得点能力も高かった。数人をかわしてゴールに切り込むドリブル技術だけでなく、長距離のシュートにも長けていた。多くの得点記録を残した頃の大学バスケットボールではまだスリーポイントシュートがなかったが、マラビッチは今日ならばスリーポイントシュートになるほどの距離からもしばしば得点した。

マラビッチに対しては、個人的な能力や業績は素晴らしいがチームを勝たせる選手ではないという批判が常にあった。彼自身が主力選手だったホークス時代やジャズ時代でチームが勝ち越したのはホークス時代の1シーズンのみであり、プレーオフに出場できたのは新人の年から3年間、それも全て1回戦敗退だった。最後にボストン・セルティックスで過ごしたシーズンにセルティックスはリーグ最高勝率を記録し、プレーオフでは地区決勝まで進んだが、マラビッチの貢献は限定的なものだった。

1976年1977年にオールNBAファーストチーム入り。オールスターには5度選出された。1986年にバスケットボール殿堂に推戴され、翌年殿堂入り[1]1996年にはリーグの「50年間の50人の偉大な選手」に選ばれた[1]。10年間に渡るプロ時代で通算得点は15,948点、生涯平均得点は24.2点。

背番号7はニューオーリンズ・ジャズの後継であるユタ・ジャズ永久欠番になっている。ニューオーリンズ・ホーネッツはマラビッチの死後ニューオーリンズに移転したチームだが、ホーネッツは地元で活躍したマラビッチを讃え背番号7を永久欠番にしている。

練習熱心でも知られ、「練習に全力で取り組まない人はゲームで全力を出せない」と語っていた[6]

NBAキャリアスタッツ

[編集]
略称説明
  GP 出場試合数   GS  先発出場試合数  MPG  平均出場時間
 FG%  フィールドゴール成功率  3P%  スリーポイント成功率  FT%  フリースロー成功率
 RPG  平均リバウンド  APG  平均アシスト  SPG  平均スティール
 BPG  平均ブロック   TO  平均ターンオーバー  PPG  平均得点
 太字  キャリアハイ  *  リーグリーダー  †  優勝シーズン

レギュラーシーズン

[編集]
シーズン チーム GP GS MPG FG% 3P% FT% RPG APG SPG BPG PPG
1970–71 ATL 81 ... 36.1 .458 ... .800 3.7 4.4 ... ... 23.2
1971–72 ATL 66 ... 34.9 .427 ... .811 3.9 6.0 ... ... 19.3
1972–73 ATL 79 ... 39.1 .441 ... .800 4.4 6.9 ... ... 26.1
1973–74 ATL 76 ... 38.2 .457 ... .826 4.9 5.2 1.5 .2 27.7
1974–75 NOJ 79 ... 36.1 .419 ... .811 5.3 6.2 1.5 .2 21.5
1975–76 NOJ 62 ... 38.3 .459 ... .811 4.8 5.4 1.4 .4 25.9
1976–77 NOJ 73 ... 41.7 .433 ... .835 5.1 5.4 1.2 .3 31.1
1977–78 NOJ 50 ... 40.8 .444 ... .870 3.6 6.7 2.0 .2 27.0
1978–79 NOJ 49 ... 37.2 .421 ... .841 2.5 5.0 1.2 .4 22.6
1979–80 UTA 17 ... 30.7 .412 .636 .820 2.4 3.2 .9 .2 17.1
1979–80 BOS 26 4 17.0 .494 .750 .909 1.5 1.1 .3 .1 11.5
通算 658 ... 37.0 .441 .667 .820 4.2 5.4 1.4 .3 24.2
オールスター 4 4 19.8 .409 ... .778 2.0 3.8 1.0 0.0 10.8

プレーオフ

[編集]
シーズン チーム GP GS MPG FG% 3P% FT% RPG APG SPG BPG PPG
1971 ATL 5 ... 39.8 .377 ... .692 5.2 4.8 ... ... 22.0
1972 ATL 6 ... 36.5 .446 ... .817 5.3 4.7 ... ... 27.7
1973 ATL 6 ... 39.0 .419 ... .794 4.8 6.7 ... ... 26.2
1980 BOS 9 ... 11.6 .490 .333 .667 .9 .7 .3 .0 6.0
通算[5] 26 ... 29.1 .423 .333 .784 3.6 3.8 ... ... 18.7

キャリアハイ

[編集]

40得点ゲーム

[編集]

マラビッチはレギュラーシーズンでは、50得点以上を6回、40得点以上を35回達成している。プレーオフでのキャリアハイは37得点。

得点 対戦相手 ホーム/アウェイ 日付 シーズン FGM FGA FTM FTA
68 New York Knicks Home 1977年2月25日 1976–77 26 43 16 19
51 Kansas City Kings Home 1976年12月14日 1976–77 18 38 15 18
51 Phoenix Suns Away 1977年3月18日 1976–77 21 34 9
50 Philadelphia 76ers Home 1972年1月16日 1971–72 18 29 14
50 Cleveland Cavaliers Home 1972年2月5日 1971–72 20 27 10
50 Washington Bullets Home 1976年12月26日 1976–77 23 39 4
49 (OT) Golden State Warriors Away 1976年2月10日 1975–76 18 36 13
47 Atlanta Hawks Away 1975年2月8日 1974–75 18 37 11
46 Los Angeles Lakers Away 1977年3月20日 1976–77 19 38 8
45 Phoenix Suns Home 1972年11月18日 1972–73 15 15 18
45 (2 OT) New York Knicks Home 1975年10月26日 1975–76 11 23 26
45 Denver Nuggets Home 1977年4月10日 1976–77 13 19 22
44 Cincinnati Royals Away 1971年3月13日 1970–71 18 27 8
44 Philadelphia 76ers Home 1972年11月4日 1972–73 14 16 22
44 Boston Celtics Home 1977年1月18日 1976–77 17 10
44 (OT) Kansas City Kings Home 1977年3月25日 1976–77 19 40 6
43 Boston Celtics Home 1976年11月2日 1976–77 17 9
43 Houston Rockets Home 1977年2月6日 1976–77 17 9
42 Philadelphia 76ers Home 1972年12月23日 1972–73 15 12
42 Buffalo Braves Home 1973年11月28日 1973–74 12 18 18
42 Seattle SuperSonics Home 1975年1月17日 1974–75 16 10
42 Cleveland Cavaliers Away 1977年12月27日 1977–78 17 8
41 Buffalo Braves Away 1971年1月18日 1970–71 13 15 19
41 Golden State Warriors Away 1973年10月27日 1973–74 17 7
41 Cleveland Cavaliers Home 1976年11月21日 1976–77 16 9
41 Cleveland Cavaliers Home 1977年4月1日 1976–77 17 7
41 New Jersey Nets Away 1977年10月21日 1977–78 12 17 18
41 Kansas City Kings Home 1977年11月27日 1977–78 19 34 3
41 San Antonio Spurs Home 1978年11月10日 1978–79
40 New York Knicks Away 1970年11月24日 1970–71 17 6
40 Phoenix Suns Away 1973年2月16日 1972–73 15 10
40 Buffalo Braves Home 1975年1月19日 1974–75 17 6
40 Chicago Bulls Away 1976年3月13日 1975–76 14 12
40 San Antonio Spurs Home 1977年2月27日 1976–77 11 18 20
40 Los Angeles Lakers Home 1977年12月13日 1977–78 19 35 2

トップアシストゲーム

[編集]
アシスト 対戦相手 ホーム/アウェイ 日付
18 (OT) Detroit Pistons Home 1973年1月16日
17 Seattle SuperSonics Home 1975年1月17日
15 Seattle SuperSonics Home 1977年1月17日
15 Buffalo Braves Home 1978年1月31日

レギュラーシーズン

[編集]
スタッツ 最高 対戦相手 日付
フィールドゴール成功数 26 vs. New York Knicks 1977年2月25日
フィールドゴール試投数 43 vs. New York Knicks 1977年2月25日
フリースロー全て成功 18–18 vs. Buffalo Braves 1973年11月28日
フリースロー全て成功 15–15 at Milwaukee Bucks 1972年1月23日
フリースロー全て成功 17–18 at New Jersey Nets 1977年10月21日
フリースロー成功数 23 (2 OT) vs. New York Knicks 1975年10月26日
フリースロー試投数 26 (2 OT) vs. New York Knicks 1975年10月26日
リバウンド 15

引退後

[編集]

プロバスケットボールから離れたマラビッチは失意に沈んだが、ヒンドゥー教ヨガUFO菜食主義自然食主義などに生きる方策を求めた末、キリスト教に傾倒するようになった。各地の教会を訪れる傍ら、バスケットボールのキャンプにも現れ指導を行った。自らが出演しバスケットボールの技術を解説するビデオも作られた。

1988年1月、カリフォルニア州パサデナでバスケットボールをしている最中に心臓発作に襲われ死去した。40歳だった。同年、当時のルイジアナ州知事の計らいでルイジアナ州立大学の体育館を改名する条例案が通過し、体育館は「ピート・マラビッチ・アセンブリー・センター」となった。

1996年にNBAが「50人の偉大な選手」を選出した時、50人の中で故人となっていたのはマラビッチだけだった。 この表彰式の際、亡き父の代わりに出席したマラビッチの子供達に対して、マジック・ジョンソンは「君達のお父さんこそ、本物のオリジナルだった」と声をかけた。

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q Pete Maravich”. NBA.com. 2002年10月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年3月25日閲覧。
  2. ^ Right Name, Wrong Genes: The Top 50 Less Talented Relatives of Superstars”. bleacherreport.com (2010年9月7日). 2012年3月25日閲覧。
  3. ^ At this time, freshmen did not play on the varsity team and these stats do not count in the NCAA record books.
  4. ^ Pete Maravich, LSU Sports. Retrieved March 19, 2010.
  5. ^ a b Pete Maravich, basketball-reference.com. Retrieved March 19, 2010.
  6. ^ 中山恵『スーパスターに学ぶバスケットボール』株式会社ナツメ社、2003年、206ページ、ISBN 4-8163-3437-8

外部リンク

[編集]