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ペドロ・バルデス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ペドロ・バルデス
Pedro Valdes
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 プエルトリコの旗 プエルトリコ
生年月日 (1973-06-29) 1973年6月29日(51歳)
身長
体重
6' 1" =約185.4 cm
180 lb =約81.6 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 外野手
プロ入り 1990年 MLBドラフト12巡目(全体340位)
初出場 MLB / 1996年5月15日
NPB / 2001年3月24日
KBO / 2007年
最終出場 MLB / 2000年10月1日
NPB / 2004年10月11日
KBO /2007年9月18日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
国際大会
代表チーム プエルトリコの旗 プエルトリコ
WBC 2013年
獲得メダル
プエルトリコの旗 プエルトリコ
ワールド・ベースボール・クラシック
2013

ペドロ・ホセ・バルデス・マンゾPedro Jose Valdes Manzo1973年6月29日 - )は、プエルトリコ出身の元プロ野球選手外野手、左投左打)。

経歴

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プロ入りとカブス時代

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1990年MLBドラフト12巡目(全体340位)でシカゴ・カブスから指名され、プロ入り。

1996年5月15日、メジャーデビューを果たした。

1998年12月4日にDFAを経て自由契約となった。

レンジャーズ時代

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1999年1月12日にボストン・レッドソックスと契約したが、4月5日に再びDFAとなった。4月18日にテキサス・レンジャーズと契約した。

ダイエー時代

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2000年オフ、年俸2,500万円でトニー・ミッチェルとともに福岡ダイエーホークスに入団。来日1年目の2001年シーズンは、恐怖の2番打者として一時は打率4割を記録するなどの活躍を見せた。

2002年も前年同様21本塁打をマークした。

2003年には打撃3部門全てで自己最高の成績をマークし、チームの日本一に貢献。3番井口資仁(109打点)、4番松中信彦(123打点)、5番城島健司(119打点)の後を支える6番打者として104打点を記録し、100打点カルテットを組んだ。

2004年は、夏場までは3割を超える活躍を見せていたが、8月中旬から不振に陥り、9月には故障により登録を抹消されるもプレーオフには出場した。この年は打率3割を逃し、4年連続での3割達成を逃す形となった。オフには戦力外通告を受け退団した。本人は、日本でのプレーを希望していたが獲得する球団は現れなかった。

メキシカンリーグ時代

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2005年は、メキシカンリーグへ移籍。

2006年はメキシカンリーグのゲレーロ・デ・オアハカに在籍し、打率.362、本塁打14、打点100を残す。

韓国時代

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2006年12月29日、李炳圭中日ドラゴンズに移籍し、選手層の薄くなっていた韓国プロ野球LGツインズに入団。LGでのニックネームは「蚕室の黒真珠」「잠실의 흑진주」。2007年は打撃面では安定していたものの、長打力が期待に及ばなく、また守備にも不安があったことや、チームがサムスンからジェイミー・ブラウンを獲得したこともあり、1年で自由契約となる。

メキシカンリーグ時代

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2008年以降は、主にメキシカンリーグでプレーした[1]

プエルトリコ時代

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2009年からはプエルトリコのウィンターリーグでもプレー。

2010年には打率.316(6位)、本塁打4(1位タイ)、打点27(1位)を残し、シーズンMVPを受賞。さらにカロリーナ市から現役最年長選手の栄誉を讃えられバルデスの背番号20が永久欠番とされた。受賞に際しては「このような賞をいただいて非常に感動している。ここカロリーナでは私の家族、息子たち、市長、そして毎試合自分を応援してくれたカロリーナのファンといつも過ごしてきた」とコメントした[2]

2013年3月に開催された第3回WBCプエルトリコ代表に選出された。

引退後

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2017年1月12日にオリックス・バファローズの駐米スカウトに就任した[3]

人物

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関係者によれば「気難しい人物」であるという。例えばフリー打撃では「真ん中の球以外には手を出さない。ストライクゾーン内であっても、内外角両コーナーの球は見送り、打って手がしびれたりすると、規定のスイング数の途中で止めてしまうことがあった」。また人間の好き嫌いも激しく、ダイエー時代に打撃コーチを務めた新井宏昌は、後に「当時、自身がバルデスから毛嫌いされていた」「(バルデスが)本塁打を打ってベンチに帰ってきた際も、一人だけハイタッチを拒否された」ことを明らかにしており、バルデスからは「新井コーチが打撃投手に指示して、自分が打ちにくい球を投げさせている」とまで言われた(もちろんそのような事実はない)と語っている[4]

詳細情報

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年度別打撃成績

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O
P
S
1996 CHC 9 9 8 2 1 1 0 0 2 1 0 0 0 0 1 0 0 5 0 .125 .222 .250 .472
1998 14 24 23 1 5 1 1 0 8 2 0 1 0 0 1 0 0 3 1 .217 .250 .348 .598
2000 TEX 30 60 54 4 15 5 0 1 23 5 0 0 0 0 6 0 0 7 0 .278 .350 .426 .776
2001 ダイエー 137 611 526 95 163 31 0 21 257 81 1 1 2 6 77 4 0 85 13 .310 .394 .489 .883
2002 121 506 446 65 135 32 2 21 234 76 2 1 3 2 52 5 3 82 14 .303 .378 .525 .903
2003 124 534 453 72 141 24 2 26 247 104 1 1 0 10 64 4 7 64 16 .311 .397 .545 .942
2004 115 503 419 68 117 20 0 18 191 74 1 0 0 6 74 1 4 61 20 .279 .388 .456 .844
2007 LG 116 512 435 50 123 15 0 13 177 72 4 1 0 5 70 4 2 49 14 .283 .381 .407 .788
MLB:3年 53 93 85 7 21 7 1 1 33 8 0 1 0 0 8 0 0 15 1 .247 .312 .388 .700
NPB:4年 497 2154 1844 300 556 107 4 86 929 335 5 3 5 24 267 14 14 292 63 .302 .389 .504 .893
KBO:1年 116 512 435 50 123 15 0 13 177 72 4 1 0 5 70 4 2 49 14 .283 .381 .407 .788

記録

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NPB

背番号

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  • 28 (1996年、1998年)
  • 9 (2000年)
  • 35 (2001年 - 2004年)
  • 57 (2007年)
  • 202013WBC

代表歴

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脚注

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関連項目

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外部リンク

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