ミシェル・ブロー
ミシェル・ブロー Michel Brault | |||||||||
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生年月日 | 1928年6月25日 | ||||||||
没年月日 | 2013年9月21日(85歳没) | ||||||||
出生地 | カナダ ケベック州モントリオール | ||||||||
死没地 | カナダ オンタリオ州トロント | ||||||||
職業 | 映画監督、撮影監督 | ||||||||
ジャンル | ドキュメンタリー | ||||||||
活動期間 | 1958年 - | ||||||||
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ミシェル・ブロー(Michel Brault、1928年6月25日 - 2013年9月21日)は、カナダ・ケベック州の撮影監督、映画監督、映画プロデューサーである。ドキュメンタリー映画、特にダイレクト・シネマにおいて、最も優秀なケベック人シネアストとされる。今日では頻繁に行われる、手持ちカメラによる映画撮影の意義を広めた人物である。
来歴・人物
[編集]1928年6月25日、カナダ・ケベック州のモントリオールに生まれる。
1960年代におけるミシェルの映画製作は、フランスのヌーヴェルヴァーグの考えを取り入れたものであった。ジャン・ルーシュとの、ヨーロッパでの共同作業がその例であり、ダイレクト・シネマ(シネマ・ヴェリテ[1])において新しい手法をもたらした。
穏やかな家族の出身であるミシェルは、当時の照明技師としてカナダ国立映画委員会(l'ONF)のクラスの一員になったり、スタジオで撮影された「ドキュメンタリー」 としてハリウッド式照明を罵ったりした。彼の照明技法は、アンビエント照明の光の影響を受け、広角に執着し、人物の移動によって表れる機動性や、人間の顔に集中するカドラージュ(構図)をとるなど、ハリウッド式撮影術とは一線を画したものであった。これはミシェル自身が断固とった手法であり、カナダ国立映画委員会にも大きな影響を与えた。
それは同時に、カナダ国立映画委員会でのダイレクト・シネマにおける顕著な部分だともいえる。特に、ジル・グルーとの共同監督作『Les Raquetteurs』(短篇、1958年)は手持ちカメラの最初の例であり、ピエール・ペロー監督の『Pour la suite du monde』(1963年)もその一つである。『Les Ordres』(1974年)は、1970年にケベックに介入されたオクトーバー・クライシスをとりあげた作品であり、1975年に第28回カンヌ国際映画祭監督賞を受賞した。
技術に熱心で、カメラメーカーのラボラトワール・エクレールとともに、手持ち撮影に特化したカメラを共同開発した。メディアへの考察、実践、融通性、技術的知性と映画理論によって、大きな影響力を持っている。特に、撮影監督やカメラマンの製作体制は揺るぎがなく、少数編成のスタッフで撮影する手法をとっている。こうした手法は、ピエール・ミニョーやアンドレ・テュルパンに引き継がれている。
ミシェルはイノベーションの精神を体現しており、カナダ国立映画委員会のフランス部門において、シネマ・ヴェリテに没頭している。
2013年9月21日、ハンツビル国際映画祭(フィルム・ノース)へ向かう途上で死去[2]。
受賞
[編集]- 1974年、L・E・ウィメ・モルソン賞 Prix L.-E.-Ouimet-Molson
- 1975年、ヴィクトル・モラン賞 Prix Victor-Morin
- 1980年、モルソン賞 Prix Molson
- 1986年、アルベール・テシエ賞 Prix Albert-Tessier
- 1993年、ルース・ギルボー賞 Prix Luce-Guilbeault
- 1996年、総督舞台芸術賞 Prix des arts de la scène du Gouverneur général
- 2003年、ギイ・レキュイエ賞 Prix Guy-L'Écuyer
- 2003年、ケベック国家勲章オフィシエ章 Officier de l'Ordre national du Québec
- 2005年、ジュトラ賞 Prix Jutra
主な参加作品
[編集]- Les Raquetteurs(1958年、監督、共同監督:ジル・グルー) - 短篇ドキュメンタリー
- ある夏の記録 Chronique d'un été(1961年、撮影、監督・脚本:ジャン・ルーシュ、エドガール・モラン)
- 世界の存続のために Pour la suite du monde(1963年、脚本・撮影、監督:ピエール・ペロー)
- Geneviève(1964年)
- Entre la mer et l'eau douce(1967年、監督・脚本・撮影・編集)
- Les Ordres(1974年、監督・脚本)
- Montréal vu par...(1991年、監督・脚本)
撮影監督
[編集]- Les Mains nettes(1958年)
- À tout prendre(1964年)
- Entre tu et vous(1969年)
- 良識を欠いた国 Un pays sans bon sens !(1970年、監督:ピエール・ペロー)
- カムラスカ Kamouraska(1972年)
- Le Temps d'une chasse(1972年)
- Mon oncle Antoine(1973年)
- ノー・マーシィ/非情の愛 No Mercy(1985年)
引用
[編集]シネマ・ヴェリテの領域で、かつてフランスでなされたことのすべてがカナダから来る、と言われねばならない。それが(ミシェル・)ブローであり、彼は、われわれが知らなかった、そしてそれ以来ずっとコピーしていた映画撮影の新技術をもたらした。事実、ほんとうに、広がりつつある「brauchitis」が存在することは確かだ。ブローは迷惑である、あるいは嫉妬深かったら、と考える人々がいたとしても、それを認識することを強制する力がある。[3] — ジャン・ルーシュ、『カイエ・デュ・シネマ』、No.144、1963年6月
しかしながら、人々を撮影するためには、彼らとともに彼らの間で行くためには、われわれがそこにいるのだと彼らが知らなければならないし、カメラの存在を意識することを彼らは受理しなければならない。そしてそれは、広角の使用が必要だ。ただ合法的な足どりだけが、撮影される人々のなかでの一種の暗黙の契約の基礎をなすものであり、撮影をする人々、他者の存在のいわゆる相互受理となる。 — ミシェル・ブロー[要出典]
このジャンルの映画を撮るためにつねに言っていたのだが、片方の眼で涙を流し、もう一方の眼でマガジンのなかに生フィルムがどれだけ残っているか考えなければならない。脳の半分で感情について仕事をし、もう半分で技術について仕事をする、それも同時に。しかし内容にのみ専念する映画監督はたくさんいる。私は「理想をもっている」数人の監督と仕事をしたが、いかに作品のなかでかたちを変えるかという「理想」をもったことはなかった。 — ミシェル・ブロー[要出典]
脚注
[編集]- ^ http://www.horschamp.qc.ca/article.php3?id_article=162#nh15参照。
- ^ Howell, Peter (22 September 2013). “Quebec film legend Michel Brault, who directed Mon oncle Antoine, dies”. Toronto Star 2017年6月28日閲覧。
- ^ 英語版WikipediaChronique d'un étéにある引用と同じなのでそこにある英文を訳出した。「原文」とは微妙に違っている。