中山忠愛
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時代 | 江戸時代後期 - 明治時代 |
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生誕 | 天保3年10月23日(1832年11月15日)[1] |
死没 | 明治15年(1882年)7月25日[1] |
別名 | 字:子誠、号:東園 |
官位 | 右近衛中将 |
主君 | 孝明天皇→明治天皇 |
氏族 | 中山家 |
父母 | 父:中山忠能、母:中山愛子(松浦清の十一女) |
兄弟 | 忠愛、慶子、正親町公董、忠光 |
子 | 忠直、孝麿 |
中山 忠愛(なかやま ただなる)は、江戸時代後期の公卿。准大臣・中山忠能の長男。字は子誠、号は東園。官位は従四位右近衛中将。維新後は華族。中山家25代当主。
経歴
[編集]中山忠能の長男として誕生。母は松浦藩主松浦清の十一女中山愛子。1863年(文久3年)、右近衛中将に至るが、養子であった同母弟・忠光が天誅組の変を起こし、忠能から義絶された。また弟正親町公董が三条実美と面会したとされて差控となり、忠能は半引退状態となった。さらに翌年の禁門の変で忠能・忠愛父子は長州藩に好意的な態度を取ったとして参朝・他行・面会を禁じられて失脚した[2]。1867年(慶応3年)正月の孝明天皇崩御と明治天皇践祚にともなう大赦が行われ、禁門の変で処分された公家の復権が行われたものの、忠能・忠愛父子はこれに含まれていなかった[3]。同月の23日になって忠能は赦免され、ようやく復権した[4]。忠愛は1868年(慶応4年3月19日)に参与に任じられている[5]。1876年(明治9年)には従四位の位階を返上している[6]。
明治15年(1882年)に没し、祭粢料500円が下賜された[7]。享年51。
系譜
[編集]脚注
[編集]- ^ a b 『平成新修旧華族家系大成』下巻(霞会館、1996年)p.251
- ^ 刑部芳則 2018, p. 173.
- ^ 刑部芳則 2018, p. 204-205.
- ^ 刑部芳則 2018, p. 207.
- ^ 「中山忠愛ヲ参与職ニ任ス」 アジア歴史資料センター Ref.A15070204100
- ^ 「太政官日誌明治9年第48号」 アジア歴史資料センター Ref.C07040204800
- ^ 「華族故中山忠愛ニ宮内省ヨリ祭粢料下賜」 アジア歴史資料センター Ref.A15110043500
参考文献
[編集]- 刑部芳則『公家たちの幕末維新-ペリー来航から華族誕生へ』中央公論新社〈中公新書〉、2018年。ISBN 978-4121024978。