諸子百家
分類
[編集]諸子百家の「~家」の分類は、漢代の学者が後から与えたものである[1]。したがって、諸子百家自身は自分達のことを「~家」とは呼んでいなかった。とはいえ、大まかな学派意識は持っていた[2]。特に「儒」と「墨」と呼ばれる集団が二大学派として認知されていた(儒家八派・墨家三派)[3]。
前漢初期の司馬談は、諸子百家を六家(六学派)に分類した[4]。
後漢の班固は『漢書』芸文志で、上記の六家に三家を加えて九流に分類した。
さらに、これに小説家を加えたものを十家としている。(このような『漢書』芸文志の分類方法は「九流十家」と呼ばれる。)
そして、十家に兵家を加えた合計十一家を諸子百家というのが、現代では一般的である。
歴史
[編集]春秋時代に多くあった国々は次第に統合されて、戦国時代には7つの大国(戦国七雄)がせめぎ合う時代となっていった。
諸侯やその家臣が争っていくなかで、富国強兵をはかるためのさまざまな政策が必要とされた。それに答えるべく下克上の風潮の中で、下級の士や庶民の中にも知識を身につけて諸侯に政策を提案するような遊説家が登場した。諸侯はそれらの人士を食客としてもてなし、その意見を取り入れた。さらに諸侯の中には斉の威王のように今日の大学のようなものを整備して、学者たちに学問の場を提供するものもあった(稷下の学士)。その思想は様々であり、政治思想や理想論もあれば、実用的な技術論もあり、それらが渾然としているものも多い。墨家はその典型であり、博愛主義や非戦を唱えると同時に、その理想の実践のための防御戦のプロフェッショナル集団でもあった。儒家も政治思想とされるものの、同時に冠婚葬祭の儀礼の専門家であった。兵家は純粋な戦略・戦術論を唱える学問と考えられがちであるが、実際には無意味な戦争の否定や富国強兵を説くなどの政治思想も含んでいた。
百家争鳴の中で、秦に採用されて中国統一の実現を支援した法家、漢以降の王朝に採用された儒家、民衆にひろまって黄老思想となっていった道家が後世の中国思想に強い影響を与えていった。また、兵家の代表である孫子は、戦術・政治の要諦を短い書物にまとめ、それは後の中国の多くの指導者のみならず、世界中の指導者に愛読された。一方で墨家は、儒教の階級主義を批判して平等主義を唱え、一時は儒家と並ぶ影響力を持ったが、その後衰退している。
書物の著者
[編集]諸子は、諸侯に自説を説くだけでなく、自説を継承・拡散する弟子の育成もした[5]。現存する『~子』という書物は、名目上の著者は諸子本人だが、実際の著者は多くの場合その弟子たちだった[5]。「先生・師匠」を意味する「子」という尊称が使われたのもそのためだった[5]。また、現存する『~子』の大半は複数の「篇」からなるが、本来は一篇で一個の作品だった[6]。その後、前漢の宮廷図書館の劉向ら後世の学者による編集を経て、現存する『~子』の形になった。
後世の受容
[編集]漢代
[編集]前漢には、道家または儒家を軸に諸子百家を統合したような、雑家的な思想が流行した。その例として、黄老思想、『淮南子』、陸賈・賈誼の思想がある[7]。また『史記』や『戦国策』に諸子の伝記や逸話がまとめられた。
宮廷図書館の劉向・劉歆らは、諸子の書物を収集整理して『七略』に一覧を記した。この『七略』をもとに上記の『漢書』芸文志が書かれた。
魏晋以降の忘却
[編集]魏晋以降は、儒教において孔子や孟子が、道教・玄学・禅などにおいて老子や荘子が、兵学において孫子が、といった形で、一部の諸子のみが重視され、それ以外の諸子はあまり注目されず、大半の書物が佚書となった。
そのなかで諸子全体に注目した希少な例として、劉勰『文心雕龍』諸子篇[5]、唐宋八大家の著作[8]、黄震『黄氏日鈔』読諸子篇[5]、高似孫『子略』、宋濂『諸子弁』などがある。また『抱朴子』『劉子』『金楼子』など、諸子に倣った書物も作られた。
近世以降の諸子学
[編集]明末になると、出版文化の発達による叢書出版の流行により、諸子全体が再注目され[9]、楊慎・李贄・焦竑・胡応麟・傅山らが諸子を研究した[5]。
清末の考証学や[5][10]、江戸時代の徂徠学派[11]・折衷学派[12]・考証学派[13]の漢学では、さらに多くの学者が諸子を研究した。近現代になると、西洋哲学に対する「中国哲学」の代表格として諸子が重視されるようになった[14]。
20世紀末から21世紀には、中国各地の考古遺跡において、諸子の異本や佚書を含む竹簡・帛書が発掘された[15]。その例として『老子』(老子#馬王堆・郭店の発掘書)『孫臏兵法』『戦国縦横家書』がある。
目録学
[編集]『漢書』芸文志以降の図書目録(目録学)では、図書分類上の分野名として「~家」が転用された[16]。つまり例えば、四部分類の「子部」において、北魏の『斉民要術』などの農書は「農家」の書物、明の『紀効新書』などの兵法書は「兵家」の書物とされた[17]。
脚注
[編集]- ^ 伊東倫厚・小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)『諸子百家』 - コトバンク
- ^ 『荘子』天下篇、『荀子』非十二子篇など
- ^ 『韓非子』顕学篇
- ^ 『史記』太史公自序の「論六家要旨」。 中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります:論六家要旨
- ^ a b c d e f g 関口順・濱口富士雄 著「諸子学」、溝口雄三; 丸山松幸; 池田知久 編『中国思想文化事典』東京大学出版会、2001年、348-355頁。ISBN 978-4130100878。
- ^ 鶴間和幸『始皇帝の愛読書 帝王を支えた書物の変遷』山川出版社、2023年。ISBN 978-4-634-15216-8。192頁。
- ^ 井ノ口哲也『入門 中国思想史』勁草書房、2012年。ISBN 978-4326102150。 「第三章 国家統一のための政治思想―秦・前漢」
- ^ “唐宋変革期における諸子学の隆盛及び中唐古文家との関係”. KAKEN. 2023年10月16日閲覧。
- ^ 三浦秀一「明代諸子学史略 ─ その形成過程を論じ地平の拡張に及ぶ ─」『集刊東洋学』第119巻、2018年。
- ^ 小林武『中国近代思想研究』朋友書店、2019年。ISBN 9784892811784。 「第三編 清末の諸子学と異文化受容」
- ^ 松井真希子. “徂徠学派における中国先秦諸子研究―文化交渉学の視点から”. KAKEN. 2023年10月21日閲覧。
- ^ 土屋紀義・佐々木研太『江戸時代の呂氏春秋学:山子学派と森鐵之助・新出注釈二種』中国書店、2017年。ISBN 978-4903316581。
- ^ 町田三郎「力作の『管子纂詁』」『江戸の漢学者たち』研文出版、1998年、ISBN 978-4876361557。
- ^ B.A.エルマン 著、馬淵昌也・林文孝・本間次彦・吉田純 訳『哲学から文献学へ: 後期帝政中国における社会と知の変動』知泉書館、2014年。ISBN 978-4862852007。 p. 339f(馬淵昌也解説)
- ^ 西山尚志「諸子百家はどう展開したか」『地下からの贈り物 新出土資料が語るいにしえの中国』中国出土資料学会、東方書店、2014年。ISBN 978-4497214119
- ^ 金文京「中国目録学史上における子部の意義 : 六朝期目録の再検討」『斯道文庫論集』第33号、慶應義塾大学附属研究所斯道文庫、1998年 。
- ^ “全國漢籍データベース 四庫提要”. kanji.zinbun.kyoto-u.ac.jp. 2023年11月22日閲覧。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 中國哲學書電子化計劃 - 諸子百家の各著作の原文(英語と中国語)
- 『諸子百家』 - コトバンク