コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

五戸町

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
五戸村から転送)
ごのへまち ウィキデータを編集
五戸町
五戸町旗 五戸町章
1961年7月1日制定[1]
日本の旗 日本
地方 東北地方
都道府県 青森県
三戸郡
市町村コード 02442-2
法人番号 3000020024422 ウィキデータを編集
面積 177.67km2
総人口 14,593[編集]
推計人口、2024年11月1日)
人口密度 82.1人/km2
隣接自治体 八戸市十和田市上北郡六戸町おいらせ町三戸郡南部町新郷村
町の木 オンコ(イチイ
赤松
町の花 キク
五戸町役場
町長 若宮佳一
所在地 039-1513
青森県三戸郡五戸町字古館21-1
北緯40度31分52秒 東経141度18分29秒 / 北緯40.53122度 東経141.308度 / 40.53122; 141.308座標: 北緯40度31分52秒 東経141度18分29秒 / 北緯40.53122度 東経141.308度 / 40.53122; 141.308
外部リンク 公式ウェブサイト

五戸町位置図

― 市 / ― 町 / ― 村

ウィキプロジェクト
テンプレートを表示

五戸町(ごのへまち)は、青森県三戸郡

地理

[編集]

三戸郡北部の内陸部に位置する。町内は坂が多い。総面積の半分以上を森林が占める。

土地利用

[編集]

五戸町は都市計画区域に指定されている。 五戸町の総面積17,782haの内訳は以下の通り。 都市計画区域:8,220ha(そのうち用途地域は325.7ha) 農用地:4,630ha 森林:9,278ha 原野:679ha 河川・水面・水路:228ha 道路:691ha 宅地:638ha その他:1,638ha

気候

[編集]

青森県農林総合研究センターリンゴ試験場 県南果樹研究センターの資料(平成11年から平成15年までのデータ)から五戸町の気候について述べる。

  • 年間平均気温 9.6度(平成11年から平成15年までの平均)
  • 最高気温 35.0度(平成11年)
  • 最低気温 -12.4度(平成12年)
  • 降水量は 1165mm(平成11年から平成15年までの平均)
  • 日照時間 1556時間(平成11年から平成15年までの平均)
  • 最深積雪 90cm(平成15年)

隣接している自治体

[編集]

人口

[編集]

平成27年国勢調査より前回調査からの人口増減をみると、6.84%減の17,433人であり、増減率は県下40市町村中20位。

五戸町と全国の年齢別人口分布(2005年) 五戸町の年齢・男女別人口分布(2005年)
紫色 ― 五戸町
緑色 ― 日本全国
青色 ― 男性
赤色 ― 女性
五戸町(に相当する地域)の人口の推移
1970年(昭和45年) 24,061人
1975年(昭和50年) 23,607人
1980年(昭和55年) 23,720人
1985年(昭和60年) 23,638人
1990年(平成2年) 22,525人
1995年(平成7年) 21,666人
2000年(平成12年) 21,318人
2005年(平成17年) 20,138人
2010年(平成22年) 18,712人
2015年(平成27年) 17,433人
2020年(令和2年) 16,042人
総務省統計局 国勢調査より


歴史

[編集]

行政

[編集]
  • 町長:若宮佳一(わかみやけいいち)(2期目) 任期:2027年(令和9年)6月26日まで[3]

産業

[編集]

金融機関

[編集]

郵便

[編集]
  • 倉石郵便局(84154)
  • 五戸郵便局(84004)
  • 浅田郵便局(84111)
  • 上市川郵便局(84132)
  • 又重簡易郵便局(84710)
  • 切谷内簡易郵便局(84734)

姉妹都市・提携都市

[編集]

国外

[編集]
  • フィリピンの旗 フィリピン共和国ヌエバ・ビスカヤ州バヨンボン町 - 1983年(昭和58年)12月22日提携 戦没者慰霊訪問、教育・文化・スポーツの交流
  • 大韓民国の旗 大韓民国忠清北道沃川郡(おくちょん) - 1997年(平成9年)8月28日提携 農業技術研修・教育・文化・スポーツの交流

学校

[編集]

小学校

[編集]

※以下は廃校。

  • 五戸町立浅水小学校(1965年・南小学校を統合新設)
  • 五戸町立扇田小学校(同上)
  • 五戸町立手倉橋小学校(1987年・南小学校へ統合)
  • 五戸町立豊川小学校(同上)
  • 五戸町立中市小学校(2013年・倉石小学校へ統合)
  • 五戸町立石沢小学校(同上)
  • 五戸町立又重小学校(同上)
  • 五戸町立蛯川小学校(2014年・五戸小学校へ統合)
  • 五戸町立豊間内小学校(同上)
  • 五戸町立南小学校(同上)

中学校

[編集]

高等学校

[編集]

専門学校

[編集]

交通

[編集]

鉄道

[編集]

町内に鉄道駅はない。町中心部への最寄り駅は八戸市にある八戸駅で、同駅と町を結ぶ路線バスが運行されている。町の東端部は青い森鉄道陸奥市川駅、北東端部は同下田駅に近いがいずれも徒歩圏ではなく、駅と地域を結ぶ路線バスもない。
かつては八戸駅五戸駅の間を南部鉄道が運行していたが、1968年十勝沖地震で被災し、復旧せず廃止された。

路線バス

[編集]
  • 南部バス岩手県北自動車南部支社) - 八戸市十和田市新郷村との間を運行している。
    • 八戸ラピアBT - 八戸駅前 - 張田 - 七崎 - 扇田 - 五戸駅
    • 八戸駅前 - 上市川 - 五戸駅
    • 東十一番町 - 十和田市まちなか交通広場 - 道の駅とわだ - 五戸駅
    • 五戸駅前 - 中市 - 倉石温泉 - 金ケ沢
    • 五戸駅前 - 扇田 - 浅水 - 手倉橋 - 西越局前
  • コミュニティバス - 町内各地を運行する(南部バスへの委託運行)。なお、南部バスの一般路線も町内のみ利用する場合はコミュニティバスと同運賃で利用可能である。

道路

[編集]

国道4号が通るが、いかなる形態の高速道路も通っていない。最寄り高速道路インターチェンジは八戸自動車道八戸北ICもしくは八戸西SIC

名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事

[編集]
  • 江渡家住宅〔荒町〕国の重要文化財[1]
  • 寶福寺 〔浅水字浅水〕本堂(県重宝)
  • 浅水城跡 〔浅水字浅水〕現八幡宮。四戸城の候補地のひとつ。
  • 野沢(ぬさ)城跡 志戸岸地区を四戸とする説を採る際の、四戸城の候補地のひとつ。
  • 歴史みらいパーク
  • 小渡平公園
  • ひばり野公園
  • わむら(上村)のカシワの木 〔倉石中市字中市〕県天然記念物、推定樹齢650 - 750年。[2]
  • 旧圓子家住宅 〔倉石中市字中市〕県重宝[3]
  • 五戸町消防団第一分団屯所 〔野月〕県重宝、大正11年。[4]
  • えんぶり
  • 五戸まつり
  • 南部駒踊り
  • 奥州街道 現国道4号線とは別に、三戸本城(聖寿寺館)から五戸町中心部とを結ぶ。

出身有名人

[編集]

ゆかりのある人物

[編集]

四戸(しのへ)について

[編集]

一戸〜九戸の地名のうち、四戸のみ地名としては現存しない。ただし、かつては存在したことが判っており、『北辺の中世史』(六戸町編 名著出版 1997年)、『六戸町史 上』(六戸町史編纂委員会編 六戸町史刊行委員会 1993年)、『角川日本地名大辞典 2 青森県』(角川書店 1985年)、『七戸町史』(七戸町 1982年)などの郷土資料によると、四戸は現在の馬淵川下流域の浅水剣吉名久井福田苫米地櫛引島守地区にあたるという[4]

五戸町内には大字豊間内字志戸岸ならびに大字浅水という候補地がある。ともに浅水川沿岸であり、4キロメートルほどの距離である。南部氏祖先光行の五男宗清から始まる四戸氏も参照のこと。

  • 志戸岸 - 「志」がもともと「四」であったとする説。ただし周辺の丘陵には、山城であったことを推定できる遺構が発見されていない。また、この集落には寺またはその遺構も発見されておらず、根拠が乏しい。五戸町へ到る青森県道214号線はあるが、五戸町中心部からは外れている。この集落の北側には大規模な山城を設置可能な平坦な丘陵があり(現在は畜産施設として利用されているため調査不可)、浅水川上・下流に対する視界は良好である。
  • 浅水 - 「死の辺」から「朝不見」になったという説。浅水城跡が八幡宮として現存する。古陸羽街道沿いにあり、本三戸城(聖寿寺館)と五戸城(詳細地不明、現古舘地区の駒形神社か)の中間に当たる。小規模ながら近世まで宿場町であった。中世のかなり早い時期に四戸城と四戸川が同時に浅水と改名された可能性がある(浅水川上流には他にも集落があるので、中間の集落と同名であることが不自然)。古街道の三戸との峠付近に山姥伝説がある。
  • 両者の中間の浅水川南岸には野沢(ぬさ)城跡が稲荷宮として現存する。
  • 岩手県二戸市の北部を二戸郡四戸郷とする説がある。四戸氏の入部(浅水より移転)によってこのように呼ばれるようになったのか、それ以前からであったのかは不明。金田一に四戸城址とする箇所がある[5]が、これは「四戸氏の居城」との意味である可能性が高い。「南部光行の五男宗清が浅水に配置され四戸氏と呼ばれるようになり、後に二戸郡北部に移転、その地を四戸郷と呼ぶようになった」とするのが合理的である。

脚注

[編集]

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]