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南部義堯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
八戸義堯から転送)
 
南部義堯 / 八戸義堯
時代 江戸時代
生誕 寛政6年10月26日1794年11月18日
死没 文政13年5月3日1830年6月23日
改名 富吉(幼名)→義堯
別名 但馬、弥六郞(通称)
墓所 鍋倉城跡二の丸遠野南部家墓所
主君 南部利敬利用利用利済
陸奥国盛岡藩
氏族 八戸氏南部氏
父母 父:八戸義応、母:楢山氏(松樹院)、養父:怡顔
兄弟 義堯
正室:南部継隆の娘
義茂済賢
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南部 義堯 / 八戸 義堯(なんぶ よしたか / はちのへ よしたか)は、江戸時代の武士陸奥国盛岡藩家老。遠野領主。遠野南部家(根城南部家、八戸氏)9代当主(30代当主)。

略歴

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寛政6年(1794年)10月26日、遠野南部家(根城南部家、八戸氏)嫡男八戸義応の子として、陸奥国盛岡城内遠野屋敷に生まれた。[1]幼名は「富吉」。母は楢山氏(松樹院)。[2]

父義応は、27代八戸家当主信彦の五男として宝暦10年(1761年)9月9日に生まれた。祖父信彦は、延享2年(1745年)に盛岡城内にある上屋敷火災の不始末を咎められて隠居しており、分家附馬牛八戸家からの養子義顔が28代当主となっていた。

天明6年(1786年)3月、遠野南部家の本来の血筋を当主に迎えたい家中の意向で、義応が義顔の子で29代当主怡顔の養嫡子となる。寛政7年(1795年)8月15日、義応が家督を継ぐ前に死去。生後間もなく父を失った富吉は、母松樹院の手で養育される。

文化6年(1809年)元服し「義堯」と名乗る。家中には7歳年上の怡顔の実子義恭がおり、両者で家督を巡って争う。文化14年(1817年)10月6日に怡顔が嫡子を藩に届けないまま死去し、母松樹院の甥で家老見習いの楢山隆福の協力で、怡顔の死を伏せて義堯を嫡子と届け出て、11月に藩主利敬に家督相続を許された。

家督相続後に、家督を争った義恭派の家臣には処罰があった。[2]義恭(継昌)は、文政7年(1824年)南部(北)継處の末期養子となって家督を相続している。

文政元年(1818年)10月6日、盛岡藩主南部家の家格が上がったことから、家中の重臣五家(八戸家、北家、南家、中野家、東家)の当主、嫡男、嫡孫まで南部の称号を許され「南部弥六郎」と名乗る。[3]

文政3年(1820年)6月に藩主利敬が死去し、利敬の養子利用(吉次郎)が藩主となると側近政治の藩政が刷新され、義堯等門閥の重臣が家老となった。[1]8月、江戸藩邸で利用(吉次郎)が将軍御目見え前に急死する事態となり、重臣たちで協議の上、身代わりの藩主利用(善太郎)を立てた。11月15日、新藩主利用の供をして江戸城将軍徳川家斉と拝謁した。[3]

文政8年(1825年)9月24日、藩主利用が死去し、12月1日、新藩主利済の供をして江戸城で将軍徳川家斉に拝謁する。

文政12年(1829年)秋より体調を崩し、文政13年(1830年)5月3日死去。享年37。

出典

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  1. ^ a b 遠野市史第2巻
  2. ^ a b 遠野南部家物語
  3. ^ a b 南部史要

参考文献

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  • 巌手県教育会上閉伊郡部会編『上閉伊郡志』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  • 遠野市史編修委員会 編 遠野市史第2巻
  • 伊能嘉矩著 遠野史叢第2篇
  • 吉田政吉著 遠野南部家物語