コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

兵頭雅誉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

兵頭 雅誉(譽)(ひょうどう まさよ、安政5年1月20日[1]1858年3月5日) - 1927年(昭和2年)4月1日[2])は、明治、大正時代の軍人。最終階級は陸軍中将、位階勲等は従三位勲二等功三級

生涯

[編集]

安政5年(1858年)1月20日、伊予宇和島藩士の兵頭慶右衛門[1] の長男として江戸の宇和島藩邸で生まれる。初名は久太郎。1870年(明治3年)、父が死去したことにより、家督を相続した[1]

1875年(明治8年)、陸軍士官学校に入学し、同校の旧二期生となる。同期には井口省吾石井隼太伊地知幸介大迫尚道大谷喜久蔵加藤泰久税所篤文渋谷在明仙波太郎田内三吉鷹司煕通田村怡与造豊島陽蔵長岡外史松本鼎村木雅美村田惇山田忠三郎らがいる[3]

1879年(明治12年)2月1日に同校を卒業し、陸軍少尉に任じ[2]正八位に叙せられ[1]大阪鎮台山砲隊附となる。

日清戦争では野戦砲兵第三聯隊第二大隊長となり、勲功に依り功四級金鵄勲章を賜う。1897年(明治30年)には勲五等を賜う[1]1902年(明治35年)には陸軍大佐に昇進し、従五位を叙せられた[1]日露戦争が始まると、野戦砲兵第一聯隊長として各地を転戦し、この功に依り功三級金鵄勲章を賜う。1907年(明治40年)11月には、陸軍少将に任ぜられた。同年に基隆要塞司令官[4]、1910年(明治43年)に陸軍兵器本廠[4]、同年転じて東京砲兵工廠提理[4] などを歴任した。

1912年(明治45年)、愛媛県軍人会の発起人(中心は秋山好古中将)となり創設に関わる。発起人には他に尾崎正満中佐(後に少将)、白石通則少佐(後に中将)がいた[5]。1912年(大正元年)12月に陸軍中将に累進。

1913年(大正2年)8月、正四位に陛る。1914年5月、予備役となる。その後は旧宇和島藩主伊達侯爵家の家令を務めた[6]1922年(大正11年)、遊就館長となり、3年半在職する。1927年(昭和2年)4月1日卒去。享年70[7]。卒去後特旨により勲二等を叙せられた。嗣子良吉が家を継いだ。墓所は青山霊園1-ロ-8-29。戒名は、大量院殿髙岳雅譽大居士。墓誌は後進である鈴木孝雄陸軍大将が記している。

栄典

[編集]

親族

[編集]

東京府東京市牛込区(現在の新宿区矢来町4番地[13]

慶応2年6月1866年7月)〜1939年(昭和14年)6月3日

脚注

[編集]

これ以外の引用は、青山霊園にある墓誌から。

  1. ^ a b c d e f 人事興信録 初版』(人事興信所、1903年)p.1096
  2. ^ a b 兵頭雅誉(ひょうどうまさよ)とは - コトバンク(デジタル版 日本人名大辞典+Plus)
  3. ^ 陸軍軍人職歴一覧
  4. ^ a b c 兵頭 雅誉(ヒョウドウ マサヨ)とは - コトバンク(20世紀日本人名事典)
  5. ^ 豫山会の歴史 - 一般財団法人 豫山会
  6. ^ 『人事興信録』(第4版)データベース
  7. ^ 兵頭雅誉 - 軍人|死去ネット
  8. ^ 『官報』第23号「叙任」1883年7月27日。
  9. ^ 『官報』第2667号「叙任及辞令」1892年5月21日。
  10. ^ 『官報』第4289号「叙任及辞令」1897年10月16日。
  11. ^ 『官報』第7352号「叙任及辞令」1907年12月28日。
  12. ^ 『官報』第558号「叙任及辞令」1914年6月11日。
  13. ^ 『人事興信録』第4版