函館西部地区の町並み
函館西部地区の町並み(はこだてせいぶちくのまちなみ)は、北海道函館市にある北海道遺産に選定されている町並みである。
概要
[編集]函館市街西部に位置する函館山麓の地区は、函館市の発祥の地(宇須岸と言われていた地域)とされているが、一般的に西部地区の町並みという呼び方は、元町、末広町、大町、豊川町および弥生町の各一部にあたる重要伝統的建造物群保存地区をさし、函館の代表的な観光地となっている。
観光地としての内外の評価の高まりによりバブル経済期には地価の高騰と高層マンションの建設との問題が起きた。周辺住民の反対運動という形で現れ、1991年(平成2年)4月には地域内で結成された複数の反対運動の会の連合組織「函館西部地区の高層建築を考える会」が結成されるほどで、市はその対応を迫られることになる。しかしバブル崩壊により1992年(平成3年)以降はマンション建設も急速に下火になったが、マンション建設やホテル建設が目的とされながら空地となった敷地のいくつかがそのまま放置され、斜陽化する地域を際立たせることになった[1]。
住民としては一定の生活の困難さがみられる。2022年(令和4年)- 2023年(令和5年)現在、古民家を改装したおしゃれなカフェが開業していて若い女性を中心に人気が出ているものの、地域の人口減少や空き家問題を抱えており[2]、例えば地区の公営住宅には風呂がない住宅もあり、公衆浴場の廃業により入浴困難者、いわゆる風呂難民も発生している[3]、観光客にとっては美しい坂道が住民の移動を妨げ、市ではグリーンスローモビリティの実証実験(2022年<令和4年>)を行う[4]、町会では函館バスに運行依頼した谷地頭温泉シャトルバス「9系統お元気バス谷地頭号」を週2回、1日1往復を運行する[5][6]など解決に苦慮している。
建築物
[編集]西部地区の町並みと呼ばれる伝統的建造物群保存地区は、函館山と函館港に囲まれ、この地区がもっとも繁栄していた明治末期から昭和初期にかけての洋風・和風・和洋折衷の建物が多く残る地域である。これらが、函館山から函館港に向かう坂道や路面電車が走る街路と調和して特色のある町並みを形成している。元町、末広町を中心とした14.5ヘクタールが「函館市元町末広町伝統的建造物群保存地区」の名称で、国の重要伝統的建造物群保存地区として選定されており、北海道遺産にも選定されている。
保存地区は大まかに二つのゾーンに分けられる。一つは主に山麓の傾斜地に広がる元町を中心とする地区で、函館ハリストス正教会復活聖堂、カトリック元町教会、旧函館区公会堂や元町公園などがこの地区に含まれる。行政・文化の中心地としての歴史性を持ち、外国文化の影響を受けた公共施設や宗教的建造物が建ち並ぶ。
もう一つは、函館港沿いの旧金森倉庫を中心とする地区で、赤煉瓦の倉庫や和洋折衷の海産商の旧宅が立ち並び、港町のにぎわいを今に残している。
主な建築物
[編集]主な建築物は下記の通り[7]。
- 金森倉庫1号 - 5号(金森赤レンガ倉庫)
- 函館ハリストス正教会復活聖堂
- 旧函館区公会堂
- 旧開拓使函館支庁書籍庫
- 旧北海道庁函館支庁庁舎
- カトリック元町教会聖堂
- 真宗大谷派函館別院(東本願寺函館別院)本堂
- 旧イギリス領事館
坂道
[編集]- 谷地頭切通
函館市電青柳町停留場から谷地頭停留場にかけての電車通りの坂道。1878年(明治11年)に尻沢辺の谷地を埋め立て、その時にできた切通しができて谷地頭発展の基となった。電車を配した観光ポスターや映画、CMロケ等によく使われる。
- 青柳坂
青柳町へ向かう坂ということからこう呼ばれる。坂の途中にある青柳小学校の校舎は函館大火の復興校として1935年(昭和10年)に建てられたもの。
- あさり坂
市電宝来町停留場からまっすぐ登っていく坂、アサリの貝殻がたくさん出たことからこの名が付いた。ここでジョン・ミルンがエドワード・S・モースと貝塚を発掘している。坂の上に石川啄木の居宅跡がある。啄木の函館滞在は4か月ほどだが、最も充実していたという。「函館の青柳町こそかなしけれ 友の恋歌 矢ぐるまの花」の歌もここの情景と考えられる。
- 護国神社坂
「汐見坂」ともいう。昔は「招魂社の坂」や「倒産坂」という呼び名もあった。この坂に面して門を立てるとばちが当たってかまどがつぶれるといわれた由来がある。グリーンベルトには高田屋嘉兵衛の銅像が立っている。
- 谷地坂
谷地頭に向かう坂ということからこの名がある。谷地頭は、かつて行楽地として当時の市民に親しまれた場所である。
- 南部坂
江戸時代、蝦夷地が幕府の直轄地になった際、北方警備を命じられた南部藩の陣屋(南部陣屋)があったことからこの名が付いた。かつて、この坂の入口にデパートの丸井今井函館店があったため、「丸井さんの坂」とも呼ばれた。旧丸井今井の建物は現在、「函館市地域交流まちづくりセンター」として利用されている。坂の頂上には函館山頂に向かう函館山ロープウェイの駅がある。
- 二十間坂
かつては「大工町坂」とも呼ばれた。1879年(明治12年)の大火のあと、1880年(明治13年)に防火帯として坂の拡幅が行われ、その幅が20間(約36m)あったことからこの名前が付いたが、1934年(昭和9年)3月21日の昭和9年大火では風向きの逆転があったため機能し、本来の目的の機能はしなかったと考えられている[8]。1900年(明治33年)に建設された函館山の要塞に大砲を運ぶための道路として使われた。
- 大三坂
昔、木下という人が住んでいたので、この坂は「木下の坂」と呼ばれていたが、その後「大三」という屋号の郷宿ができたので大三坂と呼ぶようになった。この大三には、箱館奉行所に公用で来る人が泊まったという。昭和62年(1987年)に「日本の道百選」に選ばれた。坂の上には、函館ハリストス正教会復活聖堂、カトリック元町教会、函館聖ヨハネ教会が建っている。
- チャチャ(爺々)登り
函館では珍しいアイヌ語由来の地名。大三坂の上にあり、ハリストス正教会横から函館山に向かって伸びる急坂で、この坂を登るとき、だれもが老人のように腰をかがめることからこの名前が付いた。老人のことをアイヌ語で「チャチャ」と呼ぶ。
- 八幡坂
かつて、この坂の上に函館八幡宮があったことからこの名前がある。函館八幡宮は1878年(明治11年)の大火で焼失、現在地である谷地頭に移転したが坂に名前が残った。まっすぐ港に向かう坂で、真正面に連絡船桟橋跡と旧青函連絡船函館市青函連絡船記念館摩周丸が見えるので、人気の観光スポットである。八幡坂の上には北島三郎や辻仁成の出身校である北海道函館西高等学校がある。
- 日和坂
港が一望でき、天気を見る(日和見)ことが出来る坂ということでこの名がある。坂の上には保延元年(1135年)建立の北海道最古といわれる船魂神社がある。義経伝説を持つ神社でもある。
- 基坂
かつて函館から札幌に向かう札幌本道の起点であり、里程を図る道路元標が置かれていたことからこの名前が付いた。坂の上の元町公園一帯は過去に箱館奉行所、開拓使、開拓使函館支庁、函館県庁、渡島支庁がおかれ、行政の中心地であったことから、「御役所坂」「御殿坂」とも呼ばれた。
- 東坂
かつて浄玄寺(現、真宗大谷派函館別院)があり、「東(本願寺)の坂」と呼ばれ、その名が残った。途中に函館中華会館がある。
- 弥生坂
弥生町にあった坂だからという説と、坂の途中の弥生小学校にちなんだという説。1934年(昭和9年)の大火後に春のような繁栄を願ってつけられたという説があり、坂の名が先か後かは判然としない。前出した弥生小学校は、石川啄木が臨時で教員をしていた。
- 常盤坂
江戸時代にこの坂の上に屋敷があり、そこに奥州の「義経腰掛の松」という銘木の種を得たという大木の松があった。それで常盤の松にちなんでこの名が付いた。この坂の麓の方は別名「見返り坂」と呼ばれる。そのわけは、この坂の下にかつて遊郭があり、楽しんだ客が名残を惜しんで見返り見返り帰ったことにちなむ。また、坂の上には芝居小屋があり、「芝居町の坂」とも呼ばれたことがある。
- 姿見坂
かつて、この坂の上に、江戸の吉原を模した遊郭があったことにちなんだ名前である。この一帯は茶屋町と呼ばれ、遊女たちの艶姿が見られたことでこの名がある。この遊郭は明治4年(1871年)大火で焼失し、遊郭は蓬来町にうつった。
- 幸坂
坂の上に神明社があったので、もともとは「神明坂」と呼ばれていた。町の名が幸町になったので、坂の名前も多幸を祈ったのかこの名前になった。
- 千歳坂
諸説あるが、近くにあった千歳の松に由来するといわれる。1879年(明治12年)の大火をはじめとして大火のごとに街区整理されたため、坂道も変遷している。この坂のあった場所も、かつては「神楽坂」という細い坂があったが、大火後の区画整理でこの坂になった千歳坂の名も、この頃から使われだした。
- 船見坂
港に出入りする船がよく見られたのでこの名が付いた。かつては、称名寺まで通じていたため「称名寺の坂」とも呼ばれる。
- 魚見坂
西部地区の一番西にある坂。坂の入口に市電函館どつく前停留場がある。山背泊に来る魚群を見ることからこの名が付いた。かつてこの一帯は台町と呼ばれ、その由来は安政3年(1856年)に弁天台場が築かれたことによる。それでこの坂を「台町の坂」と呼ばれたこともあった。1879年(明治6年)2月27日に坂の左右を台町遊廓として遊廓指定地に指定される。客層は船員や漁業者が多かったと伝わっている。1907年(明治40年)8月25日発生の明治40年函館大火により焼失し、大森町へ移転(函館遊廓または大森遊廓、辰巳の里とも呼ぶ)、跡地は住宅地になって当時の面影をとどめるものは何もない[9]。坂を登った先には、高龍寺や外国人墓地がある。
夜景
[編集]市は1990年度(平成2年度)より国のふるさと創生事業の交付金1億円を活用し、歴史的建造物のライトアップや街路灯強化を行った(1989年<平成元年>策定のファンタジー・フラッシュ・タウン基本計画)。2006年度(平成18年度)には函館市夜景グレードアップ構想・基本計画などを策定してリニューアルを行った[10][11]。
イベント
[編集]- 函館西部地区バル街 - チケット制の飲食店飲み歩き・食べ歩きイベント
- はこだて国際民俗芸術祭
- はこだて冬フェスティバル - 冬季の観光誘致イベント。かつては五稜郭地区でのまちづくりイベントを兼ねていた
脚注
[編集]- ^ 函館市史 通説編第4巻 p895-p899
- ^ "函館 観光エリアの背後にある問題とは" 道南Web NHK 2022年7月21日16時21分更新 2024年1月21日閲覧
- ^ "函館西部地区「風呂難民」なお 3改良団地 1カ月以上入浴しない住民も" 北海道新聞 2023年11月19日22:50更新 2024年1月22日閲覧
- ^ "ハコダテグリスロ(グリーンスローモビリティ実証運行)" 函館市 2023年1月23日更新 2024年1月22日閲覧
- ^ "谷地頭温泉まで乗り換えなしの「お元気バス谷地頭号」12月1日から運行" e-Hakodate/函館新聞 2004年11月21日14:45更新 2024年1月22日閲覧
- ^ 時刻表 2023年10月 函館バス p185-186
- ^ "伝統的建造物一覧" 函館市 2023年7月26日更新 2024年1月16日閲覧
- ^ 『昭和9年函館大火の復興計画に関する研究』 坂口美加 室崎益輝く 大西一嘉 1988年
- ^ 函館西部地区Ⅱ 山側部 p.36
- ^ 函館における観光開発 龍野紋香 1996年
- ^ "街灯の色味の変更について" 函館市民の声 函館市 2020年4月21日更新 2024年1月4日閲覧
参考・関連資料
[編集]- 函館市勢要覧 2007年版
- 元木省吾「新編 函館町物語」幻洋社、1987年
- 函館建築研究会・函館の歴史風土を守る会編、角 幸博(監修)「函館の建築探訪」北海道新聞社、1997年
- 北海道新聞社編・木下順一(文)「函館 町並み今・昔」北海道新聞社、2001年
- 函館商工会議所 「函館歴史文化観光検定公式テキストブック」、2006年
- 茂木治 『函館西部地区Ⅱ 山側部』、2010年