利用者:三菱善次郎/中部日本放送記事転記案
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テレビ関連の沿革についてはCBCテレビ#沿革を参照。 ラジオ関連の沿革についてはCBCラジオ#分社化前の沿革を参照。
- 1950年12月15日 - 中部日本放送株式会社、設立。
- 1951年9月1日 - 午前6時30分、日本初の民放としてラジオ放送を開始。(現:CBCラジオ)
- 1956年
- 1960年
- 1969年
- 1974年
- 1975年3月31日 - 五社連盟加盟局の一つ・朝日放送が腸捻転解消により離脱。入替りに毎日放送が加盟[1]。
- 1976年 - 同局発全国ネットのテレビトーク番組『すばらしき仲間』放送開始( - 1992年3月終了)。第1回ゲストは作家の藤本義一・井上ひさし。
- 1978年11月23日 - AMラジオの周波数を変更。名古屋親局は1050kHzから1053kHzに。同時にラジオ送信所を名古屋市緑区鳴海町伝治山から現在地(三重県桑名市長島町松陰[2])に移転。
- 1981年10月5日 - 同局初の平日夕方5時台のワイドテレビ番組『ぱろぱろエブリデイ』放送開始( - 1983年9月終了)。司会は久野誠アナウンサー。「なめ猫」ブームの火付け役となった番組として知られる。
- 1982年10月4日 - 若年層向けラジオ番組『小堀勝啓のわ!Wide とにかく今夜がパラダイス』放送開始( - 1989年9月終了)。
- 1983年7月27日 - テレビの音声多重放送本放送開始。
- 1986年4月1日 - テレビの文字多重放送(コールサイン:JOAR-TCM)開始。
- 1989年
- 1990年
- 3月26日 - 『ニュース通り』枠の撤廃に伴い、『時代塾』・『SINSEN通信』の2番組を統一、平日夕方17時台に1時間の情報番組『ミックスパイください』をスタート( - 1999年3月26日)。メイン司会には「時代塾」に引き続き小堀勝啓を起用。
- 4月 - ローマ支局閉鎖、ウィーン支局開設。
- 1992年4月4日 - ラジオのAMステレオ放送開始。
- 1993年10月4日 - 平日朝のラジオ番組が大幅改編され、21年にわたり放送された『ラジオ朝市』が終了。代わって、現在も続く朝9時 - の3時間のワイド番組『つボイノリオの聞けば聞くほど』がスタート。
- 1996年4月 - それまでは3年で契約が更新される嘱託社員扱いとなっていた女性アナウンサーに正社員制導入。1999年までに同局在籍の全女性アナウンサーの雇用契約が正社員に切り替わる。
- 1997年9月28日 - 完成したばかりのナゴヤドームで大クイズ大会『超Q in DOME』を開催(なお、この模様はラジオ・テレビ同時生放送の予定だったが、同時生放送決定後に急遽TBS系全国ネットで1998 FIFAワールドカップ・アジア予選(最終予選)日本vs大韓民国の実況中継が14時から入ったため、テレビでは当日13時から冒頭1時間のみ生放送され、翌週に完全版という形で録画放送された。ラジオでは予定通り生放送された)。
- 1998年
- 2002年3月1日 - 新城ラジオ中継局開局 (1557kHz, 100W)。
- 2003年12月1日午前11時 - 地上デジタルテレビジョン放送を開始。当初から2010年7月4日までは、地上デジタル単独マスターで対応。アナログテレビ放送は、放送センター移転後から稼働中の既存のマスターを継続利用。
- 2005年
- 2007年3月31日 - アナログテレビ放送波を利用した独立文字放送を終了(字幕放送は継続)。
- 2009年
- 2010年7月5日 - 地上デジタルテレビジョン放送・アナログテレビジョン放送の送出を単独マスターから、アナログ・デジタル統合型マスターへ更新。それと同時に、日本放送協会 (NHK) と日本民間放送連盟の申し合わせにより、地上デジタル放送への完全移行を前提として地上アナログテレビジョン放送の全番組をレターボックス放送に統一(画角サイズ16:9。画角4:3サイズで制作されたCMは除く)。
- 2011年
- 2013年4月1日 - 免許を含めたラジオ放送事業の全てを株式会社CBCラジオに分割継承。これに伴い、同日午前0時をもってテレビ放送のコールサインも「JOAR-DTV」から「JOGX-DTV[7]」に変更[8]。
- 2014年4月1日 - CBCのグループ経営管理事業及び不動産賃貸事業を除く事業に関する権利義務の一部を完全子会社であるCBCテレビ分割準備株式会社(2013年5月10日設立)に吸収分割させ商号を「株式会社CBCテレビ」に変更、免許含むテレビ放送事業の分割継承を行い、認定放送持株会社体制に移行[9]。なお、認定放送持株会社に移行後も会社名は「中部日本放送株式会社」のまま維持されている[10]。
開局当初の動き
[編集]- 開局数日前、小嶋源作は全社員に『これから我々は、NHK島に敵前上陸を敢行する。NHKの牙城に迫る民放の第一陣として、その使命は重い。諸君はこの決意で邁進されたい。』と鼓舞激励した[11]。
- CBCは名古屋の放送局であるが、開局段階から放送番組に関しては東京との結び付きが不可欠とされていた。したがって、CBCでは東京のキー局を求めることとなったが、中日新聞と競合する朝日新聞や毎日新聞の系列局では具合が悪かったため、当時名古屋に進出しておらずかつ中日と編集協定を結んでいた読売新聞と手を携えることとした[12]。こうして読売を母体に読売放送(略称・YBC)が設立され、開局を目指したが結局ペーパーカンパニーに終わり、一切はラジオ東京(JOKR。現在のTBSラジオ)に統合された。このためCBCもラジオ東京をキー局とする事となった。また、そのことがきっかけでザ・ビートルズの来日公演を読売新聞と共同主催することとなった。
- 上記と矛盾するようではあるが、昭和30年代の一時期、『朝日新聞ニュース』『毎日新聞ニュース』の放送を行っていた(名古屋テレビ開局とともに終了)。これは#中日ドラゴンズとの関係の項目で触れた東海テレビ開局時の様々な問題がこじれたことによる副産物である。つまり、中日とはドラゴンズの独占中継権を得ていたのが東海テレビも割り込む形で中継権を得ることとなり、CBCと中日との関係が複雑になったためと、元々朝日・毎日の2社ニュースをメインとする予定であった東海テレビが結局中日ニュースをメインとして放送することに決めたので、両社は抗議の意味でCBCにニュース放送の申し入れを行ったところ、既述の通りCBCは中日との関係が複雑となっていたこともあってこれを了承したため。
- 浜松放送局を開設しようとして、地元・静岡放送 (SBS) と競合した。
- その他中部地区のラジオ・テレビ各局各局の開設に伴い、支援を行っている。
- 信越放送 (SBC) は創業時出資状況が芳しくなく、地元・信濃毎日新聞の支援も期待できなかったことから代わりにCBCが支援の手を差し伸べることとなり、当時はCBC番組を直接受信し、そのまま中継しようと検討していた。
- 北日本放送 (KNB) も先行きが不安であったことや、戦前から中日の母体である新愛知や名古屋新聞が北陸に進出していた関係で、CBC首脳陣とKNB首脳陣にも交流があったためCBCがKNBに一部出資を行っていた。
- 福井放送 (FBC) は開局直後に経営が悪化。地元・福井新聞とは無関係であったことから、CBCは中日新聞とともにFBCの支援に乗り出すこととなり契約締結まで漕ぎ着けたが、その後FBCの経営権を握った加藤ビルディング一派により契約は解除され、CBCと中日新聞は撤退。その代わりにFBCは福井新聞と関係を結んだ。
- 三重県の県域局・ラジオ三重 (RMC) は経営難から中日新聞が支援に乗り出したが、中日はCBCに対しラジオ三重への支援を要請。CBCの電波料を増額し、増額分をラジオ三重へ付け回すように指示した。別エリアにあるネット局に対するのならともかく、同一エリア内の競合局に対するこの行為はスポンサーへの背信となるためCBCは拒絶。それでも中日への義理を果たすため、以降営業支援金が毎月一定額CBCからラジオ三重へ送金されていた。なお、このラジオ三重は近畿東海放送 (KTB) を経て、1959年に岐阜のラジオ東海 (RTC) と合併。現在の東海ラジオ放送 (JOSF) となっている。
- チューリップテレビ (TUT) には、CBCが設立当初から出資を行っている。また、CBCは同局の3.00%の株を保有する主要株主でもある。
- 鉄道無線を利用した鉄道放送を企画。長距離列車の乗客を対象として需要があると判断。当時の運輸省(現在の国土交通省)へ積極的に働きかけたが、実現には至らなかった。なお、鉄道無線を利用したラジオ放送は、ラジオ関東(JORF、現在のラジオ日本)が1958年12月から1964年までの朝夕のラッシュ時に東急東横線急行電車車内にて同社ニュース番組を放送する形で実現している。
CBC放送会館火事詳細
[編集]1969年5月5日、会館の空調設備の入れ替え工事が行われていた。
- 午後2時頃 - テレビ主調整室から異臭が見られ、ダクトから白煙が出ていたことが分かる。この頃地下の空調室で溶接が行われていた中、埃に引火し火災が発生したものと見られている。
- 午後2時45分頃 - テレビ主調整室から黒煙。本格的に炎上。
- 午後2時50分頃 - 名古屋市消防本部から消防隊出動。
- 午後3時10分頃 - 放水が始まるが、出火場所はまだ特定できなかった。
- この間、テレビ放送が4時まで一時停止(画面は2時45分頃、音声は3時05分頃停止)。その後テレビ塔近くに中継車を出し、この近辺にテレビの特設放送会場を設置。
- 午後4時過ぎ - テレビ放送再開。火災の詳細を伝え、「視聴者・市民にご迷惑をかけました」と謝罪。
- 午後5時頃 - 地下を破壊しての放水活動を開始。
- 午後5時30分頃 - 必要最低限の人員を除きその場を退去するよう命令。
- 午後5時50分頃 - 全員退去命令が出たため、暫定的に1階のラジオ準備室に特設会場を設けて放送を続ける。
- 午後8時前 - ラジオ放送を鳴海送信所に暫定移転するために一時中断し、フィラーとしてレコード音楽を放送。
- 午後8時30分過ぎ - 鳴海送信所の特設スタジオでの放送開始。
- 午後9時過ぎ - 出火場所が2階にあるテレビ調整室から上がっていたことが分かる。
- 午後11時35分 - テレビの放送を臨時に打ち切り。5月6日6時55分から再開する旨をアナウンスする。
- 午後11時50分過ぎ - 鎮火。
- 5月6日 - 復旧工事が終り通常のスタジオからの放送を再開。
分社化前の沿革
[編集]- 1951年
- 1952年1月 - 民間放送初の大相撲中継(東京開催の初場所)を放送[14]。ラジオ東京(KR。現:TBSラジオ)の制作により、KR・CBC・新日本放送(NJB。現:MBSラジオ)・ラジオ九州(RKB。現:RKBラジオ)の4局ネットで放送された[14]。当時KRにスポーツ実況の出来るアナウンサーがいなかったため、NJBのアナウンサーとともに、CBCのアナウンサーも実況を担当した[15]。
- 1953年
- 1954年3月15日 - 豊橋放送局開局(1485kHz<1978年以降> 100W、スタジオ併設、かつてJOAEのコールサインを所有)。
- 1959年10月 - 本局周波数を1030kcに変更。
- 1960年4月 - 本局周波数を1070kcに変更。
- 1962年2月 - 本局周波数を1050kcに変更。
- 1965年
- 1966年10月10日 - ラジオ番組『朝の歳時記』放送開始( - 2005年3月31日終了)。初代パーソナリティは矢島正明。1969年より登板した3代目パーソナリティ・川久保潔の名調子で長年にわたり親しまれる。
- 1968年11月4日 - 平日昼のラジオ帯番組『ばつぐんジョッキー』放送開始( - 1986年10月3日終了)。上岡龍太郎、はかま満緒、板東英二、つボイノリオ、チェリッシュ、種村直樹らがパーソナリティーを担当。
- 1969年
- 5月5日 - CBC会館で火災発生。ラジオについては停波せず。
- 1971年
- 1972年4月10日 - 平日朝のラジオ番組『ラジオ朝市』放送開始( - 1993年10月1日)。パーソナリティーはローカルタレントの新間正次。
現法人の沿革
[編集]- 1992年1月16日 - 株式会社シービーシーヴィジョン設立
- 1992年4月1日 - 株式会社シー・ビー・シー・ミュージックを合併、同社の業務を継承
- 2003年7月1日 - 商号を株式会社テクノビジョンに変更
- 2010年7月1日 - CBCラジオの番組制作業務の受託開始
- 2011年9月1日 - 商号を株式会社CBCラジオに変更
- 2012年4月1日 - CBCラジオの営業業務の受託開始
- 2013年4月1日 - 中部日本放送から免許を含めたラジオ放送事業の全部を譲受、日本民間放送連盟に加盟
- 2013年8月28日 - 同局の長島ラジオ送信所敷地内にて、太陽光発電設備の稼働を開始(出力:約1645kW)[16]。
- 2015年秋 - 東海ラジオ放送と共にFM放送(FM補完中継局)の放送開始予定(93.7MHz)[17][18]。
- 1956年12月1日 - テレビ放送を開始。日本テレビ・ラジオ東京テレビとのクロスネットでスタート。
- 1958年6月 - ラジオ東京テレビ(KRT、現在のTBSテレビ)、北海道放送 (HBC)、大阪テレビ放送(OTV、現在の朝日放送)、ラジオ九州(RKB、現在のRKB毎日放送)とテレビニュースネットワークに関する協定を締結。
- 1959年8月1日 - JNN排他協定締結。
- 1960年2月1日 - KRT・ABC・RKBと四社連盟を結成。開局以来放送されていた日本テレビ系列番組の殆どが姿を消す(翌月、HBCが加わり五社連盟となりこれがJNNの基本協定となる)。
- 1964年
- 1966年
- 1967年7月26日 - 視聴者参加型テレビ番組『天才クイズ』放送開始( - 2004年9月25日終了)。初代司会はタレントの久里千春。後に高松しげお、斉藤祐子、林家こぶ平(現在の9代目林家正蔵)と司会が交替しながら37年余りにわたる長寿番組となる。
- 1969年5月5日 - CBC会館で火災発生。マスターもサブも焼ける。午後2時45分ごろから4時ごろまでの1時間17分停波した。CBCは車庫から中継車を出してテレビ塔に横付けし、それを短いニュースなどのミニ番組スタジオ兼臨時マスターとし、東京や大阪からの回線の番組をそのまま放送波に乗せたため、関東・関西ローカルのCMがそのまま流れる事態も起きた[19]。その後テレビは復旧作業を急ぐため同日の深夜放送を23:35で打ち切りとし、休止の旨と放送終了時の局名告知(周波数アナウンス)は生放送で行われた。なお、このとき真っ黒に焼け焦げたテレビマスターの写真が社史に掲載されている。
- ^ 当時CBC社長を務めていた小嶋源作は、朝日放送が朝日新聞社からネットチェンジを迫られている今こそ、こちら(五社連盟)から朝日放送に対してテレビネットワークの打ち切りを通告すべきと考えていたという。(小嶋源作「CBCとともに」より)
- ^ 当時は三重県桑名郡長島町。
- ^ 郵便番号が7桁化される前は大口事業所個別番号として「〒460-05」を使用していた。
- ^ エスカにはかつて『エスカスタジオ』というCBCラジオのサテライトスタジオがあり、平日16時台に公開リクエスト番組『ゴーゴージュークボックス』の生放送が行われていた。
- ^ 『ラジコ、東海でも配信開始』「中日新聞」朝刊15面(芸能面)2011年2月21日より。
- ^ 3月31日までは東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)に対応するため、radikoのエリア規制が解除され、先に本格サービスを開始した関東・関西の13局とともに全国で聴取可能である。
- ^ JOGXのコールサインは1958年に当局と同じJNN系列の西部毎日テレビジョンに割り当てられていたが、開局前にラジオ九州と合併しRKB毎日放送関門テレビジョン(コールサインはJOFO-TV)となったため、使用されていなかった。
- ^ “中部日本放送株式会社所属放送局の識別信号(呼出符号)の変更”. 総務省東海総合通信局 (2013年3月29日). 2013年3月29日閲覧。
- ^ テレビ朝日(テレビ朝日ホールディングス)と同日に移行。
- ^ “認定放送持株会社体制への移行並びに吸収分割契約の締結及び子会社(分割準備会社)の設立に関するお知らせ” (PDF). 中部日本放送 (2013年5月10日). 2013年5月11日閲覧。
- ^ 石井清司『日本の放送をつくった男 フランク馬場物語』毎日新聞社(原著1998年10月30日)、198頁頁。ISBN 4-620-31247-9。
- ^ 読売新聞は1975年、中部読売新聞(現:読売新聞中部支社)として名古屋に進出した。また中日新聞は1956年、東京中日新聞(現:東京中日スポーツ)として東京に進出して、1963年には東京新聞の発行元である東京新聞社の経営に参加。1967年に東京新聞の編集・発行に関する一切の事業を中日新聞社に譲り受けた。
- ^ この日は、日本初の民間放送のラジオ放送の予備免許が、全国の16局に対して、一斉に交付された。その内の1局である。
- ^ a b 『TBS50年史』各種資料(P54の記述・資料編掲載の年表・DVD-ROM『ハイブリッド検索編』ラジオ番組データベース収録『大相撲春場所実況』データカード)を参照。
- ^ 『東京放送のあゆみ』P500、『TBS50年史』(P54の記述・DVD-ROM『ハイブリッド検索編』ラジオ番組データベース収録『大相撲春場所実況』データカード内記述)を参照。
- ^ 日経BP社ITpro 2013年8月29日付「CBCがメガソーラー事業に参入、出力1645kWの太陽光発電所の運転開始」
- ^ 2015年1月1日付中日新聞朝刊2部10面「年頭所感」より。
- ^ CBCラジオ、FM放送も始まる|I AM FM, CBC RADIO.
- ^ 岩波ジュニア新書『テレビは変わる』岡本黎明著による。