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利用者:1993oct5/sandbox3

第二メルボルン
(前名:イスズ)
品種 サラブレッド系種(濠洋)[1][2]
性別 [1]
毛色 鹿毛[1]
生誕 1902年[2]
死没 1918年[1]
不明[1]
不明[1]
生国 オーストラリアの旗 オーストラリア[1]
馬主
  • コットン氏[3]
  • →アレキサンダー氏[3]
  • →スナイプ氏[4]
  • →木村政次郎[5]
競走成績
生涯成績 46戦30勝[6][7]
勝ち鞍
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第二メルボルン(だいにメルボルン、1902年[注 1][2] - 1918年[1])は日本競走馬繁殖牝馬。デビュー当初の競走馬名イスズ(イスヾ[注 2])で、馬主が変わった際に第二メルボルンに改名された。血統は不詳[1]、馬名はメルボルン二世とも[注 3][2]

主な勝鞍に1907年春の帝室御賞典(根岸)、同年秋及び1908年春の横浜ダービー[8]ミラと共に、明治時代に活躍した代表的な豪州産馬であった[3]

引退後は北海道で繁殖牝馬として繋養され、1918年秋の優勝内国産馬連合競走(目黒)優勝馬であるプリンセスブレイアモーアらを出した。

生涯

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1902年[2]オーストラリアで産まれ[1]1906年秋に日本レース・クラブが同地で買い付けた牝馬40頭のうちの1頭として、日本に輸入された[13]

同年秋、横浜の根岸競馬場でコットン氏(佐久間福太郎の仮定名称[注 4])の所有馬としてイスズの名でデビュー[3]。根岸を全勝とした後、東京の池上競馬場に転戦した[3]。池上では初日(11月24日)に実施された濠洲新馬戦に出走するが、他の競走馬33頭が出馬の権利を放棄したため、イスズの単走となった[3][15]。イスズは鞍上に神馬騎手を乗せ、1マイルを2分16秒6で回走した[15][16]。4日目(12月2日)に行われた濠洲優勝新馬戦でもキヌガサらを破り[17]、池上での競走を無敗で終えた[18]

第二メルボルンに改名

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1907年、馬主がアレキサンダー氏に変わり、イスズも第二メルボルンと改名された[3]。佐久間から馬主が変わった経緯には逸話があり、ある時の宴席で平沼八太郎からイスズを売ってほしいと持ちかけられた佐久間は、冗談で「一万円なら売ってもいい」と平沼に伝えた。当時の豪州産馬の値段を考えればかなりの高額であったが、平沼は言い値で即決し、驚いた佐久間は今更自分の発言を取り消せず、イスズを売り渡したという[19]。そして、第二メルボルンというのも、平沼が以前所有したメルボルンにあやかった名とされている[4]

なお、朝比奈(1909)では、相手を平沼延治郎(延次郎)として同様のエピソードが語られており、その後、佐久間は後悔してイスズを取り戻すために詫びを入れたが、平沼は頑として首を縦に振らず、結局、佐久間が二千円だけ分乗して共同所有にしたという[20]

帝室御賞典、横浜ダービーに勝利

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改名後、第二メルボルンは根岸の春季競馬に出走する。初日(5月3日)の競走ではゴールドスターの2着に敗れ、初の敗戦を喫した[注 5][18][21]が、翌日に行われた帝室御賞典(9頭立て)では、カウンテスらを退けて御賞典拝受の栄誉を受けた[22]

10月26日に根岸で行われた横浜ダービーでは、出馬投票の段階で他馬がことごとく棄権したため、前年の池上と同様、第二メルボルンただ1頭が出走した[12]。『競馬世界』第1号では、第二メルボルンの単走を、次のように伝えている[12]

騎手神馬悠然として腰を卸し、先あ文句は抜にして、此馬の駆振を見て下せえ、と言はん斗り、得意の色満面に溢れて、馬場を一順する、観客は只もう拍手する飛んでもない御景物だ。

—『競馬世界』第1号、36頁

一方、東京日日新聞は「第三競馬[注 6]は名馬メルボルン一頭のみ出場して競馬を見ること能はざりしは入場者をして大いに失望せしめたり」と報じた[24]

1907年末以後

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11月24日、京浜の川崎競馬場で行われたハンデキャップ戦に出走[25]。スタートの後、第二メルボルンは左右の馬に包囲され、二度躓いて倒れそうになるなど苦戦を強いられた[26]。決勝点間近になって、神馬は先頭のペネロピーを追うため一鞭入れたが、遂に同馬を交わせず二着に敗れた[26]。競走前の人気は第二メルボルンに集中しており、ペネロピーの勝利は「大々番狂せ」といわれた[25]。神馬にとって、この敗戦は「非常な失敗」であり、『商工世界太平洋』第7巻第5号で悔しさを口にしている[26]

ペ子ロピーに勝を占められた時の口惜しさは中々[注 7]お話しにはなりません宿に帰つてからも茫然として何事も手に附かない臥床に這入つても眠る事が出来ません

—署名なし〔神馬惣策〕,『商工世界太平洋』第7巻第5号、74頁

ペネロピーに敗れた後、一時その動静が途絶えるも、1908年2月発行の『競馬世界』第4号で「気力旺盛」との消息が伝えられた[27]。そして、同年5月、そのペネロピーとのマッチレース[注 8]となった横浜ダービーでは、決勝直前で同馬を抜き去って優勝を飾っている[28]。この頃から、レデーヴヲーユーや、ペガサスに敗れるなど、負けが込むようになった[4]

1910年の横浜、東京には登録すらなかったが、1911年秋、東京のブック(登録馬名簿)上で久々に第二メルボルンの名が登場する[5]。その際には馬主が木村政次郎に変わっていた[5]。同年11月に発行された『日本之産馬』第1巻第8号で、老齢ながら、英気が旺盛であると紹介されてはいるが[29]早坂(1975)によれば、同年の出走は確認できないという[5]

引退後

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引退後、北海道荻伏の大塚助吉牧場で繁殖牝馬として繋養され、1918年に死去した[1]。繋養の間、1918年秋の優勝内国産馬連合競走(目黒)の優勝馬であるプリンセスブレイアモーア[6]や、イボアとの仔であるオーミギシ(第四メルボルン二世)[注 9][1][2]などの産駒を送り出した。

馬主

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第二メルボルンの馬主は、イスズ時代のコットン氏[3]から始まり、アレキサンダー氏[3]、スナイプ氏[4]、そして木村政次郎[5]と数度の変遷がある。コットン氏は佐久間福太郎の仮定名称[3]で、スナイプ氏は平沼八太郎の仮定名称とされているが、前述のとおり佐久間と平沼の間には宴席での逸話が残されていることから、早坂は、「アレキサンダー氏とスナイプ氏は同一人物だった(または一時的に名義を借りた)」のかと疑問を述べている[24]

アレキサンダー氏は帝室御賞典優勝時の馬主である[30]が、その正体について、早坂(1989)は不明[24]とし、馬事文化財団(2016)は平沼八太郎と延治郎の共有名としている[31]。なお、両者のうち、延治郎は競走前に急死している[注 10][31]。宮内庁式部職所蔵の資料では、御賞典は八太郎に下賜されたとする[11]

その他、第二メルボルンの所有者に関しては、1907年10月発行の『写真画報』第2巻第12編で、ビー、アイ氏が「耶馬渓で死んだ平沼延治郎氏の持馬だつたが、今は日比谷平右衛門氏が持つて居る」と述べている[34]

成績

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生涯成績は46戦30勝[6][7]。1着のうち10回はレコードでの勝利であった[7]。早坂(1975)では35戦29勝[1]、かつ、デビューから1907年までの成績に漏れがなければ、中央競馬シユンエイ(20連勝)を凌ぐ22連勝を記録していたとするが[5]、同著(1989)では前者の成績とし、2着9回、3着3回、着外4回で、1907年中には14連勝したとする[7]。なお、22連勝については、1907年5月の根岸初日でゴールドスターの2着[21]、同じく4日目の優勝戦でチハヤの3着に敗れている[35]ため、正しい記録ではない。馬事文化財団によると、16敗の中には八百長と思わしきものもあるという[6]

主な勝鞍

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競走名 競走日 競馬場 距離 頭数 騎手 斤量 タイム 2着馬 出典
帝室御賞典 1907.05.03 根岸 1マイル 9 神馬惣策 137斤 1:48.57100 カウンテス [22]
横浜ダービー 1907.10.26 根岸 1マイル12 1 神馬惣策 146斤 2:57.75100 (単走競走) [12][23]
横浜ダービー 1908.05.09 根岸 1マイル12 2 神馬惣策 152斤 2:47.77100 ペネロピー [28]

評価

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1899年に輸入された[6]ミラと共に、明治時代に活躍した代表的な豪州産馬で[3]、当時の競馬で圧倒的な強さを誇った[36]

1907年に発行された「馬鑑」という競走馬の見立番付では、東の正横綱に据えられ[注 11][36]、前述のビー、アイ氏も「目下の處日本競馬会に於て、濠洲産と内国産とを東西に分け、その両横綱はと云はゞ、濠洲産ではメルボルン二世、内国産ではハナゾノ[注 12]である事は、何人も否む事の出来ぬ處である」と評し、時価一万三千円は下らないとしている[34]。また、『牧畜雑誌』第262号では、ハナゾノと共に池上における優勝名馬として紹介されており、「原頭風に嘶けば疾風立ろに起りて鹿毛の一塊飛ぶが如き観を呈するもの当さに之れこの馬の謂ならんか」と評されている[38]

1908年からの馬券禁止時代[39]は第二メルボルンの評価にも影響を与えた。早坂は同馬について「〔前略〕馬券禁止時代と共に人々から忘れ去れた明治の名馬といえよう」と記している[1]。また、初代馬主の佐久間は馬券廃止後の第二メルボルンの価値について、次のように述べている[20]

〔前略〕所が其後各所の競馬にメルボルンが屡々しばしば一着を占め、其結果五万円で是非譲れと云うものが沢山現はれた、然るに馬券廃止後の今日では売りたくても最早や三千円位にしか売れない、斯くて一代の駿骨を槽櫪そうれきの間に老いしめて居る。 — 佐久間福太郎、『財界名士失敗談』上巻、252頁

注釈・出典

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注釈

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  1. ^ 関口(2014)は1903年産とする[9]
  2. ^ 五十鈴と漢字表記されることもある[10]
  3. ^ その他、第二メルボーン[11]、メルボーン二世[12]の表記もある。
  4. ^ 馬主が名乗った仮称のこと。初期の競馬では仮定名称の使用が一般的であったため、本名の確認が困難な場合も多い[14]
  5. ^ 1907年12月発行の『競馬世界』第2号で、シー、エフ、ティー(又はG,E,T,)氏は「〔前略〕此春の根岸で、初日と四日目に敗け、秋季の川崎二日目に敗けたのと、負星と云つたら、是丈しか無いんぢやないか」と語っている[18]
  6. ^ 複数の雑誌記事で、横浜ダービーの開催は二日目の第二競馬となっている[12][23]
  7. ^ 原文は縦書きで〻(二の字点)を使用。
  8. ^ 二頭立て競走の意[28]
  9. ^ 早坂(1975)では“オーニギシ”となっている[1]
  10. ^ 投機に失敗した後、耶馬渓に身を投げた。1907年4月5日死去[32][33]
  11. ^ 西の正横綱はヒタチ(帝室御賞典(根岸、1906年春)、横浜ダービー(1906年秋、1907年春)勝ち馬)であった[8][36]
  12. ^ 帝室御賞典(池上、1907年春)勝ち馬[37]

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 早坂まさお「明治の名馬」『日本の名馬・名勝負物語』中央競馬ピーアール・センター、1980年、11頁。 
  2. ^ a b c d e f 「第四メルボルン二世(競馬名オーミギシ)」『馬匹血統登録書』 第4巻、帝国競馬協会、1929年、141頁。 
  3. ^ a b c d e f g h i j k 早坂まさお「明治の名馬」『日本の名馬・名勝負物語』中央競馬ピーアール・センター、1980年、8頁。 
  4. ^ a b c d 早坂まさお「明治の名馬」『日本の名馬・名勝負物語』中央競馬ピーアール・センター、1980年、9頁。 
  5. ^ a b c d e f 早坂まさお「明治の名馬」『日本の名馬・名勝負物語』中央競馬ピーアール・センター、1980年、10頁。 
  6. ^ a b c d e 「第二章 根岸競馬で活躍した人馬の紹介」『ハイカラケイバを初めて候:根岸競馬場開設150周年記念』馬事文化財団、2016年、56頁。 
  7. ^ a b c d 早坂昇治『文明開化うま物語:根岸競馬と居留外国人』有隣堂、1989年、168頁。 
  8. ^ a b c d 日高嘉継「馬券発売黙許時代(明治38年12月~明治41年10月)の競馬資料の紹介」『馬の博物館研究紀要』第10号、馬事文化財団・馬の博物館、1997年、39頁。 
  9. ^ 関口隆 (2014年). “馬の科学 Vol.51 No.3”. 装蹄歴史案内. 競走馬総合研究所. 2024年10月17日閲覧。
  10. ^ 「横濱根岸の秋季大競馬(四日目)」『読売新聞』1906年11月11日付朝刊、3頁。
  11. ^ a b 日本競馬会録 自明治三十五年至明治四十一年”. 書陵部所蔵資料目録・画像公開システム. 宮内庁 宮内公文書館. p. 138/296. 2024年10月19日閲覧。
  12. ^ a b c d e 「秋季根岸競馬會」『競馬世界』第1号、競馬世界社、1907年、36頁。doi:10.11501/1537786 
  13. ^ 堀田至広『競馬及競馬法史』帝国競馬協会、1936年、51頁。 
  14. ^ 早坂昇治『文明開化うま物語:根岸競馬と居留外国人』有隣堂、1989年、162頁。 
  15. ^ a b 「競馬番組編成竝成績一覽表/東京競馬會」『東京競馬会及東京競馬倶楽部史』 第3巻、東京競馬倶楽部、1939年、2頁。 
  16. ^ 「東京競馬會第一囘競馬槪况」『牧畜雑誌』 第254号、牧畜雑誌社、1907年、43頁。doi:10.11501/11209852 
  17. ^ 「東京競馬會第一囘競馬槪况」『牧畜雑誌』 第254号、牧畜雑誌社、1907年、48頁。doi:10.11501/11209852 
  18. ^ a b c シー、エフ、ティー(又はG,E,T,)「某名氏の名馬談」『競馬世界』第2号、競馬世界社、1907年、37頁。doi:10.11501/1537787 
  19. ^ 早坂まさお「明治の名馬」『日本の名馬・名勝負物語』中央競馬ピーアール・センター、1980年、8-9頁。 
  20. ^ a b 朝比奈知泉(碌堂) 編「佐久間福太郎氏」『財界名士失敗談』 上巻、毎夕新聞社、1909年、252頁。 
  21. ^ a b XYZ「昨年秋季競馬の成績/横濱根岸の春季競馬」『牧畜雑誌』 第259号、牧畜雑誌社、1907年、章3頁。doi:10.11501/11209857 
  22. ^ a b XYZ「昨年秋季競馬の成績/横濱根岸の春季競馬」『牧畜雑誌』 第259号、牧畜雑誌社、1907年、章7頁。doi:10.11501/11209857 
  23. ^ a b 「横濱根岸の秋季競馬」『牧畜雑誌』第264号、牧畜雑誌社、1907年、章4頁。doi:10.11501/11209862 
  24. ^ a b c 早坂昇治『文明開化うま物語:根岸競馬と居留外国人』有隣堂、1989年、167頁。 
  25. ^ a b 「京濱競馬俱樂部秋季競馬景况」『牧畜雑誌』第266号、牧畜雑誌社、1907年、付録4頁。doi:10.11501/11209864 
  26. ^ a b c 「競馬の騎手語つて曰く」『商工世界太平洋』第7巻第5号、博文館、1908年、74頁。 
  27. ^ 「良馬の消息」『競馬世界』第4号、競馬世界社、1908年、40頁。doi:10.11501/1537789 
  28. ^ a b c 「日本レース倶樂部春期競馬」『馬匹世界』第7号、帝国馬匹研究会、1908年、62頁。doi:10.11501/1552770 
  29. ^ 「東京競馬の前景氣」『日本之産馬』第1巻第8号、産馬同好會、1911年、76頁。doi:10.11501/11209069 
  30. ^ 「帝室御賞典競走勝馬表」『日本競馬史』 第4巻、日本中央競馬会、1969年、403頁。 
  31. ^ a b 「資料解説」『ハイカラケイバを初めて候:根岸競馬場開設150周年記念』馬事文化財団、2016年、114頁。 
  32. ^ 「平沼専蔵」『財界物故傑物伝』 下巻、実業之世界社、1936年、291頁。 
  33. ^ 大植四郎 編「平沼延治郎」『明治過去帳:物故人名辞典』東京美術、1971年、1026頁。doi:10.11501/12188819 
  34. ^ a b ビー、アイ氏「競馬面白記」『写真画報』 第2巻第12編、博文館、1907年、68頁。 
  35. ^ XYZ「昨年秋季競馬の成績/横濱根岸の春季競馬」『牧畜雑誌』 第259号、牧畜雑誌社、1907年、章11頁。doi:10.11501/11209857 
  36. ^ a b c 日高嘉継「馬券発売黙許時代 全国へ波及した明治の競馬ブーム」『浮世絵明治の競馬』小学館、1998年、84頁。 
  37. ^ TT生「東京春季競馬會記事」『牧畜雑誌』第260号、牧畜雑誌社、1907年、章9頁。doi:10.11501/11209858 
  38. ^ 「池上に於ける優勝名馬(口繪解說)」『牧畜雑誌』 第262号、牧畜雑誌社、1907年、65頁。doi:10.11501/11209860 
  39. ^ 「馬券禁止時代の競馬概況」『日本競馬史』 第2巻、日本中央競馬会、1967年、10頁。 

参考文献

[編集]
  • 朝比奈知泉(碌堂)編『財界名士失敗談』上巻、毎夕新聞社、1909年、doi:10.11501/777919
  • 『馬匹血統登録書』第4巻、帝国競馬協会、1929年、doi:10.11501/1050741
  • 堀田至広『競馬及競馬法史』帝国競馬協会、1936年、doi:10.11501/1228629
  • 『財界物故傑物伝』下巻、実業之世界社、1936年、doi:10.11501/1228946
  • 『東京競馬会及東京競馬倶楽部史』第3巻、東京競馬倶楽部、1939年、doi:10.11501/1217056
  • 『日本競馬史』日本中央競馬会
  • 日清紡績株式会社編『日清紡績六十年史』経済往来社、1969年、doi:10.11501/11952919
  • 早坂まさお「明治の名馬」(中央競馬ピーアール・センター編『日本の名馬・名勝負物語』〈1980年、doi:10.11501/12441232〉所収。初出は『優駿』1975年11月号)
  • 早坂昇治[著者 1]『文明開化うま物語:根岸競馬と居留外国人』有隣堂、1989年、全国書誌番号:89019245
  1. ^ 早坂まさおと同一人物(馬事文化財団・馬の博物館(1997)39頁)

雑誌

[編集]
  • 『競馬世界』競馬世界社、第1号(1907年)、第2号(同)、第4号(1908年)
  • 『写真画報』博文館、第2巻第12編(1907年)
  • 『牧畜雑誌』牧畜雑誌社、第254号(1907年、以下同)、第259号、第260号、第262号、第264号、第266号
  • 『商工世界太平洋』博文館、第7巻第5号(1908年)
  • 『馬匹世界[雑誌 1]』帝国馬匹研究会、第7号(1908年)
  1. ^ 競馬世界から改題。号数も引き継がれている(『馬匹世界』第6号、2頁)。
  • 『日本之産馬』産馬同好會、第1巻第8号(1911年)
  • 『馬の博物館研究紀要』馬事文化財団・馬の博物館、第10号(1997年)、doi:10.11501/4425112
  • 『馬の科学』競走馬総合研究所、Vol.51 No.3(2014年)


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