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利用者:Quark Logo/sandbox2文治派

文治派(ぶんちは)とは、文道で国を治めようとする人々のことであるが、ここでは安土桃山時代における豊臣政権内部における派閥の1つについて説明する。

豊臣政権の文治派は、五奉行石田三成を中心とした文官・官僚の集団であったので、文吏党(ぶんりとう)[1]あるいは吏僚派(りりょうは)[2]奉行派(ぶぎょうは)[3]とも呼ばれた。豊臣秀吉が亡くなると、家臣団は文治派と武断派(武将党、武功派)に分かれて軋轢を深めた[4]。文治派は、豊臣秀頼の後見役でもある五大老前田利家と組んで、他の武断派を抱き込んだ五大老筆頭の徳川家康に対抗したが、利家亡き後に関ヶ原の戦いで敗れ去った。

豊臣政権の文治派[編集]

名称について[編集]

文治派の中心人物の石田三成(杉山丕氏所蔵・長浜城歴史博物館)

文治」とは武力によらず教化・法令などによって世を治める政治のことであり、武力を用いて政治を行おうとする「武断」とは、対立概念をなす言葉である[5]。文治派・武断派は一般的な表現として用いられているが、ここでいう文治派あるいは文吏党とは、豊臣政権内部において秀吉配下の武将のうちでも政務を担った文官(文吏)たち、特に石田三成を中心にする党派(つまり石田派)、あるいは三成も含めた増田長盛長束正家前田玄以ら奉行の勢力(つまり奉行派)をさしていて、これに対して非五奉行を旗幟とする党派が、武断派と呼ばれた[1]。ただし文治派(文吏党)といっても必ずしも文弱の文官のみをさすわけではなく、武断派(武将党)といっても武勇の秀でた武将のみをさすわけではなくて、双方の党派に文武に秀でた武将が名を連ねていたが、中心の人物の特徴を表してこう呼ばれている[6]

文治派の台頭[編集]

豊臣秀吉は、一時は甥の豊臣秀次を二代関白武家関白制)として権力移譲をする方向に傾くが、実権を手放すことを良しとせずに、奉行制をしいて自らの意のままに天下の政務を処理することにした。手足となって働く、富田一白宮部継潤大谷吉継木村重茲[7]ら参与の奉行衆は少なくなかったが、五奉行は特に重用された[8]。前田玄以は京都所司代として皇室・公家・寺社関係と洛中・洛外のことを専ら担当し[9]、長束正家は知行方・兵糧方など豊臣家の財政を専ら担当し、浅野長政(長吉)・石田三成・増田長盛は検地などの一般行政事務を全般を担当することになった[10]慶長3年(1598年)8月18日に秀吉が亡くなると、政権安定を図ってしばらくはそのまま、五奉行による合議制で政務は処理されることになった[11][12]。同年9月3日の十人衆起請文により、重大事項は、五奉行と五大老の十人衆による合議制となるが[13]、五大老は五奉行の顧問に過ぎず一般政務を担当したわけではなかった[14]

五奉行筆頭である浅野長政[15]は、北政所(高台院、寧)を養女とした浅野長勝の婿養子であったので、秀吉とは義理の兄弟にあたる特別な関係にあった[16]。長政は豊臣秀長亡き後は唯一、秀吉に直諫できた人物であったが、これがために勘気を被ることもあり、また東北の取次役としての地位を悪用して、私益に奔って伊達政宗より絶縁状を受ける騒動を起こしたこともあったが[17]、北政所との親しい関係がある限り、彼の立場は安泰であった。しかるに、五奉行の中で出世を争う、石田三成や増田長盛らは秀吉の世継ぎを産んだ側室の淀殿に接近することで、長政に対抗した[17]。秀吉は閨房の秩序に厳格で、正室たる北政所の立場を尊重していたが[18]、次男のお拾(秀頼)が誕生すると狂態といえるほどこれを溺愛し、秀次切腹事件を起こしてその処理を三成に任せる一方で、秀次を弁護した浅野幸長能登国へ配流・その父長政を蟄居とするなど正気の沙汰ではない行動を起こし、諸大名にはお拾に対して忠誠を誓わせるなどしたたため、生母・淀殿の立場は強くなった[19]。秀吉・秀頼の側近でもある文治派の諸将も三成らに倣って淀殿側に立ち、他方で武断派の諸将はもともと北政所に親しい立場あるいはその親族であったので、結果として両派の対立には、豊臣家の閨房における側室党と正室党との確執が絡んでくることになった[20]

前田利家は、秀吉・寧の夫婦とは微賎時代からの友人であり、北政所とも良好な間柄であって、武将党(武断派)の首領であった[21]。秀吉が亡くなる三年前より、利家は石田三成・増田長盛・長束正家の三人の奉行を不快に思っていて、彼らが(利家家臣の)徳山則秀・岡田長右衛門を介して侘びても聞いてやらなかった。利家が秀頼の後見役になった後、奉行衆は利家家臣を介して何とかお目通りの許しを得たので、三成は早速、利家のもとを詣でてお礼を述べに行ったという次第で、利家に睨まれては都合が悪いとして、三成は関係改善のために大変に骨を折った[22]。秀吉の葬儀は、朝鮮出兵か諸将が帰還した後で、慶長4年(1599年)2月29日に方広寺で行われた[23]ともいわれる。しかし徳川家康は、熊野牛王に秀頼をもり立てると誓って秀吉に後事を託されていたにもかかわらず、まもなくして傍若無人に振る舞い始めた[24]

家康は武断派の武将と親しく、彼らの心服を得ていたので、利家と家康の対立は武断派とって打撃となった[26]。武断派の諸将は後述の朝鮮出兵の件で文治派に対して怒り心頭だったが、対して、文治派は利家を擁することで、武断派を抑え、家康に対抗しようとした。


家康は伏見城において政務をとるようになり、五大老は、五奉行の職権を奪って、諮問機関から政務執行の機関となっていった。


文治派の実力[編集]

文治派武将[編集]

文治派と武断派の争いが表面化すると、石田三成派(石田党)と反三成派との戦いという構図となったため、奉行衆だけでなく、三成の近親者や個人的な盟友関係にある大谷吉継、小西行長上杉景勝の家臣の直江兼続安国寺恵瓊らも三成に与する党派として文治派とみなされた。また、淀殿は公には中立を保っていたが、三成と親しいと見なされていたため、秀頼側近の多くも三成派かそのシンパと見なされた。他方で、奉行衆のなかには石田三成とは距離を置く者や北政所の親戚もいたので、反三成派もいた。

※後年の関ヶ原の戦いで東軍に付いたものには「東軍」、中立のものは「中立」と記す。

石田三成の縁故者・友人
(以下陪臣)
  • 直江兼続(三成盟友)
  • 安国寺恵瓊(三成盟友)
奉行・代官・文官

武断派との対立[編集]

対立原因[編集]

豊臣秀吉が統一政権を形成し国内での大規模な戦争が絶えると、のちに文治派と呼ばれる政務を担う諸将の権限は次第に拡大していった。その状況下でなされた朝鮮出兵では、前線での戦闘指揮に携わる諸将が、監察を担う石田三成ら文治派の報告を受けて、秀吉の勘気を蒙る事例が多発した。これにより前線の諸将が三成らに対して怨恨を抱くようになった。更には、前線諸将の内部でも、前線諸将の主流意見と対立する小西行長のような大名への反感も生じた。彼ら、前線諸将の主流派がのちに武断派と呼ばれる。これらの感情は秀吉の在世中には表面化しなかったが、秀吉死後に前線諸将が帰国すると直ちに顕在化した。武断派は徳川家康を擁立して文治派に対抗しようとした。対する文治派は秀吉死後の家康の独断専行に対して危機感を持ち、これを抑制しようとした。こうした二派の対立が、関ヶ原の戦いに至る。

北政所と淀殿[編集]

朝鮮出兵での諍い[編集]

朝鮮出兵での出来事は、少なからず、文治派と武断派の間に反目を生じさせた[28]。まず、共に肥後国を領地とする小西行長と加藤清正の先陣争いは、功名を争わせた秀吉が意図した狙い以上に燃え上がり、両将の過剰なライバル意識は、和平派と主戦派という深刻な路線対立を背景として、個人的な遺恨にまで発展した。

慶長2年(1597年)、石田三成の女婿にあたる福原長堯は、蔚山城の戦い後の追撃に際して、軍目付として諸将が敵を見てひるみ進まないと報告し、蜂須賀家政黒田長政藤堂高虎・加藤清正・早川長政竹中重利を訴えた。結果、早川らの禄を没収して福原に与えられることになった。清正らは誤りであるとして撤回を求めたが、その頃にはすでに秀吉は亡くなっていたので、諸将は怒って福原を必ず殺すと誓ったが、三成は福原を庇い続けたので、文治派と武断派はますます険悪となった[29]

慶長3年12月(﨟月)の日明の和平交渉の後、先に漢城に着いた加藤清正が遅れた小西行長を臆病と嘲ったのに対して、行長は清正は朝鮮王子(の軍)が来る前に俄に陣を焼いて逃げて和議を台無しにしたが自分は島津義弘と明将の人質を持って殿軍を守って退却したのであってどちらが卑怯かと激高し、論争となって毛利輝元らも和議を壊した清正が悪いと言ったが、双方の言い合いは止むことはなく、翌4年(1599年)3月22日、行長は寺沢広高(正成)と連署で清正・黒田長政・鍋島勝茂(信茂)毛利吉成(勝信)らを弾劾し、清正らも行長の行状を訴え出ることで反撥した[30]

それからまもなくして前田利家が亡くなり、武断派の重しがとれた。その翌日である同年閏3月4日、七将[31]といわれる武断派武将が石田三成の邸宅に押しかけるという事件が起こった[32]

両党対立の構造的問題[編集]

関ヶ原役における終末[編集]

島左近・大谷刑部討ち死にの場面。『敵ヶ原大合戦之図』(月岡芳年作)

しかし、その多くが家康方に組した武断派に対し、文治派の中にも家康方と通じた武将が少なからずいた。文治派の代表格と見なされ、関ヶ原の戦いでも西軍として戦った大谷吉継は、三成との友情から西軍に属したが、当初は家康に接近していた。また五奉行のうち増田長盛前田玄以は、三成方に組しながら家康に内通していた。

脚注[編集]

  1. ^ a b 徳富 1935, p. 37.
  2. ^ 小和田2 2014, p. 6.
  3. ^ 小和田 2014, p. 5.
  4. ^ 斎藤 1935, p. 708.
  5. ^ デジタル大辞泉. 文治. コトバンクより2022年9月30日閲覧デジタル大辞泉. 武断. コトバンクより2022年9月30日閲覧
  6. ^ 徳富 1935, pp. 37–38.
  7. ^ 豊臣秀次事件の責任をとらされて斬首された。
  8. ^ 徳富 1935, pp. 38–39.
  9. ^ ただし後年は、石田三成・増田長盛が加わった。
  10. ^ 徳富 1935, p. 39.
  11. ^ ただし、掟などに五奉行全員が連署する形式は文禄4年(1595年)ころからみられるので、実質的な成立はこれ以前だと考えられる。
  12. ^ 日本大百科全書. 五奉行. コトバンクより2022年10月1日閲覧
  13. ^ 徳富 1935, pp. 58–63.
  14. ^ ブリタニカ国際大百科事典. 五大老. コトバンクより2022年10月1日閲覧
  15. ^ 長政の嫡男・浅野幸長は武断派とされる。長政本人も三成と不仲とする説もあるが、三成と共同で多くの仕事をしており、確証には欠ける。関ヶ原の戦いの前年に徳川家康暗殺の嫌疑をかけられて隠居を強いられた。
  16. ^ 徳富 1935, p. 39, 41.
  17. ^ a b 徳富 1935, p. 42.
  18. ^ 徳富 1935, p. 43.
  19. ^ 桑田忠親『淀君』吉川弘文館〈人物叢書 新装版〉、1985年、96-100頁。ISBN 4642050043 
  20. ^ 徳富 1935, p. 38.
  21. ^ 徳富 1935, p. 46.
  22. ^ 徳富 1935, pp. 46–47.
  23. ^ 徳富 1935, p. 58.
  24. ^ 徳富 1935, pp. 55–56.
  25. ^ 徳川の世になると、忠隆は廃嫡され、幸長は弟の長晟を養子として家康の三女と結婚させた。
  26. ^ 利家の娘は(武断派の)細川忠興の嫡男忠隆の妻であり、別の亡くなった娘は浅野幸長と婚約していた[25]
  27. ^ 小和田2 2014, p. 17.
  28. ^ 徳富 1935, pp. 52.
  29. ^ 徳富 1935, pp. 50–51.
  30. ^ 徳富 1935, pp. 48–50.
  31. ^ 史料によって人選が一致しない。
  32. ^ 小和田泰経; 小和田哲男(監修)『関ケ原合戦公式本』学研パブリッシング、2014年、26-27頁。ISBN 9784054060364 

参考文献[編集]