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正祖
李氏朝鮮
第22代国王
璿源系譜紀略
王朝 李氏朝鮮
在位期間 1776年 - 1800年
都城 漢城府
亨運
弘斎
諡号 恭宣[1]敬天明道洪徳顕謨文成武烈聖仁荘孝大王
廟号 正祖
生年 1752年10月28日
没年 1800年8月18日
荘祖
献敬王后
陵墓 健陵
元号 乾隆
嘉慶
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正祖朝鮮語: 정조、1752年10月28日乾隆17年9月22日) - 1800年8月18日嘉慶5年6月28日)は李氏朝鮮第22代国王(在位:1776年4月17日 - 1800年8月18日)。諱は「李祘」。字は「亨運」。号は「弘斎」。は「恭宣[1]敬天明道洪徳顕謨文成武烈聖仁荘孝大王」。王陵は健陵

壬午士禍による荘祖の死後、真宗の王統に入籍し王世孫に冊封された。1775年から1776年間は英祖に依り代理聴政を行う。 即位後の1776年から1780年間は洪国栄による勢道政治が行われ、追放後の1780年から1800年間は親政を行う。

親政には老論を牽制する為に、蕩平策を用いて少論南人の登用、特に丁若鏞蔡済恭安鼎福等を側近とした。一方で老論からは、金鍾秀沈煥之等を側近とした。他にも兪拓基の門下生を重用している。奎章閣を建立して、超越的な統治者として君臨し、師として臣下を養成、再教育した。また壮勇営を創設して、老論の軍権を牽制する事で、政治改革を断行したが、を患ってから僅か1ヶ月足らずで薨去した。享年は48歳。[註 1]

大韓帝国時代の1908年に「正祖宣皇帝」を追尊される。

生涯[編集]

講学内容(喪失した部分あり)
書籍 期間
孝経 1755年3月3日1756年11月6日
小学抄略 1755年3月3日1756年11月6日
童蒙先習 1756年11月6日1758年5月10日
小学 1758年5月13日1760年8月4日 
大学 1760年8月6日1760年10月7日
1769年3月13日1769年4月22日
史略 1761年7月28日1764年1月22日
孟子 1761年12月3日1763年11月5日
1769年4月18日1770年1月10日
中庸 1763年12月11日1764年4月14日
1770年2月1日1770年3月18日
書伝 1764年5月14日1765年9月24日
1770年3月23日1770年7月31日
資治通鑑綱目 1764年12月26日
聖学輯要 1769年2月8日1769年9月24日
朱子封事 1769年9月24日1769年10月2日
朱書節要 1769年10月5日
易学啓蒙 1776年3月2日
英祖

降誕[編集]

1752年10月28日午前1時頃、昌慶宮景春殿にて荘祖献敬王后の第二子として降誕した。英祖は非常に歓喜して、同日に正祖を元孫と為した。[2]降誕日に王世孫に冊立しなかったのは、同年4月17日懿昭世子が卒去しており喪服期間の3年間だった為、政局が不安定な為に王世孫に冊立できなかった。幼少期から英邁で四書三経を修めて、素行が優れていると評価された。この事から英祖は正祖を溺愛した。[3]1755年3月10日英祖は4歳の正祖の賢明、容姿、美声を天が福を授けたと絶賛して、正祖が「身体髮膚受之父母不敢」を唱えた時には、英祖は非常に歓喜した。[4]1759年3月10日懿昭世子の喪服期間が終了したため王世孫に冊立され、[5]6月昌慶宮明政殿にて王世孫に冊封された。[6]1761年4月14日成均館に入学した。[7]1761年4月22日慶熙宮景賢堂にて冠礼を行った。[8]1762年2月25日於義宮[註 2]にて孝懿王后と婚礼を上げた。[9]

2歳の頃から学問に勉め、世孫師傅[註 3]金鍾秀安鼎福がいた。金鍾秀老論に属したが、党論に従わず荘祖と正祖を崇敬して、荘祖の死後でも正祖を擁護した事により、即位後も正祖に重用された。安鼎福南人に属しており、実学者と性理学者を兼ねて、性理学者としての学派は嶺南学派南冥学派であり、性理学の大家である。他に荘祖の師傅である趙載浩金尚魯兪拓基等も正祖を擁護した。


幼少期[編集]

父の荘祖1749年から代理聴政を行うが、英祖から日々の厳格な指導と叱責に対して、当時14歳の荘祖は次第に政治を放擲し始めた。勉学を怠り、側近に武官を侍らせては悪行を重ねて、荘祖は評判を貶めた。一連の悪行によって英祖は極度な指導と叱責を行い、更に度重なる譲位宣言によって、荘祖は次第に精神的な重圧を受けて恐怖症神経症強迫症を患い、景嬪朴氏を殺害するなど悪行が続いた。政治では老論と激しく対立し始めて、宮殿では女官を貪って享楽的な生活を送り、宮殿外でも尼僧などを強姦し、英祖の許可無しに平壌を遊覧するなど悪行を繰り返した。1762年洪敬禧が買収した羅景彦の上疏により、[10]荘祖は廃位され米櫃で餓死する壬午士禍が起こる。[11]壬午士禍には老論の他、不快と怨恨を抱いていた貞純王后和緩翁主淑儀文氏が意気投合して陥れたとされており、正祖はこれ等に憎悪と怨恨を抱いた。正祖は壬午士禍の発端は、荘祖の政治的見解と素行が原因である事を教訓として、政治不介入と善行を守り、皆有窩なる書庫を設けて読書や勉学に専念して、老論の謀略を避けた。1764年3月23日真宗の王統に入籍した。[12]罪人である荘祖の王統を継承すると王位継承が困難になるので、真宗の王統に入籍して継承させる事で、王位継承問題を解消する事ができる。

正祖は英祖の監視下で、厳格な勉強内容をこなした。1日3回は慶熙宮尊賢閣にて講義が行われ、武術にも励んだ。一度老論は講義にて侍講官に庶子の内容を講義させようとした。これは英祖が庶子である事を嫌忌していた事と、勉強内容の詳細報告を受けていたからである。察知した洪国栄は庶子の内容の部分に白紙を貼り付けて、内容が変更された事例がある。


代理聴政期[編集]

1775年12月英祖より代理聴政の王命を受けた。[13]これを洪麟漢鄭厚謙は激しく妨害した。特に洪麟漢は三不必知説を説いて、[14][註 4]一度は代理聴政の王命を書記する承旨を邪魔した形跡がある。[15]同時に監軍の指揮権を正祖に譲渡した事も激論に至る。しかし洪国栄老論を激しく弾劾して立ち回る事で代理聴政が成立した。代理聴政では英祖の承認を経て慎重に執政して、核心的政策に自分から触れなかった。日省録に拠ると、老論は御前でも腰を屈めず、履物を引き摺り音を立てて、横柄な素振りで構えていた。正祖は日々に恐怖と不安が積もると記す。絶えず脅迫を受けて、至る所に目と耳があり、一日中に渡り監視された。特に武官の具善復なる者を正祖は、荘祖を米櫃に監禁する事を英祖に進言した者であり、会う度に自分を露骨に脅し最も凶悪な存在であると回顧する。

1776年4月22日午前6時頃に慶熙宮集慶堂にて英祖は薨去した。[16]喪礼は5日間であるが、緊急事態に備えて洪国栄が正祖を警備した。代理聴政期に老論では、正祖を支持する時派、否定する僻派が形成され、後に南人少論の臣下等も時派と僻派の何れかに属した。

即位[編集]

4月27日成服して、[註 5]正午に慶熙宮崇政門にて朝鮮国王に即位した。[17]同日に献敬王后の身位を恵嬪から恵慶宮に陞爵した。[18]綸音[註 6]を頒布して、内容を自分は荘祖の息子であると明記した。これは即位前の「罪人之子不為君王」[註 7]の流言飛語に対応したものとされる。僻派荘祖追尊が提起されると批判して、正祖は追尊を容認しない事を宣言する。[19]慶尚道安東府の儒生李道顕李応元荘祖追尊を上疏した際には、李道顕李応元を死刑、出身地の安東府安東県に降格して僻派の懐疑心を解した。[20]5月6日英祖の遺書に則り、孝章世子を真宗と為して、その妃の賢嬪を孝純王后と為して共に追尊した。[21]5月7日荘祖に「荘献」の尊号を加えて、荘献世子と呼んだ。[22]8月18日洪麟漢鄭厚謙賜死にして、その罪状を洪国栄を排斥する謀略を図った事とした。[23]更に和緩翁主を廃位して京畿道喬桐府に流刑として、その他70余名を処罰して、明義録にて罪状を明示した。閑中録には洪国栄の計略であると記されている。

僻派は正祖を狙って、慶熙宮には3度も刺客が侵入した。1777年8月31日未明には正祖の寝所である尊賢閣に侵入された。[24]9月7日昌徳宮に遷宮した。これは尊賢閣が露出した場所にあり危険だと判断したからである。[25]9月12日未明に尊賢閣の侵入を試みた田興文を捕縛して、正祖が親鞠した。供述では洪相範洪啓能が刺客を用意して、恩全君を推戴する謀略が暴露された。[26]洪国栄に事件処理を委任させ、洪相範死刑洪啓能獄死恩全君賜死した。洪国栄は即位直後の正祖を大きく補佐したが、それに伴い様々な要職を兼任して勢道政治を展開していく。

勢道政治[編集]

正祖の厚い信任を受けた洪国栄1776年8月17日承政院都承旨となり、[27]1777年12月14日宿衛所を設置させて、宿衛所大将を兼任した。[28]宿衛所承政院の権限で、中央官庁と地方官庁の公文書と上疏を検閲して人事と軍事を司る事により政治権力を独占して、大臣や地方長官を服従させた。勢道宰相と呼ばれて、老論から大厚謙[註 8]と揶揄された。1778年貞純王后が正祖の側室を任命させよと命令した際に、洪国栄は側室の選抜式の際には圧力を働かせて、これに朴在源貞純王后の命令を無視したと上疏したが洪国栄は激怒して朴在源を脅迫して、無理に妹を元嬪洪氏と為した。[29][30]1779年6月20日元嬪洪氏は入宮から僅か1年余りで卒去した。三都監[註 9]を設置させて、墓には仁明園を建造した。[31][註 10]これは王后の葬式と同格であり、仁明園の守園官完豊君が就いた。洪国栄完豊君を「私の甥」と公言した。[註 11]11月4日辞表を正祖に提出して、[32]11月6日全官職を辞職して、奉朝賀に引退した。[33][註 12]辞表を提出した原因は未だに確証が無く、正祖が極度の専横を鑑みて引退させた説と、孝懿王后の毒殺計画が露見して引退した説が有力である。前者の説は正宗大王行状と閑中録に記されており、後者の説は稗史とされている。引退直後は漢城府に居住していたが、1780年3月31日金鍾秀洪国栄の罪悪を連ねた上疏を上奏した。[34]正祖は即時に洪国栄漢城府から追放する王命を発した。[35]正祖は洪国栄の追放を後悔したとされ、洪国栄は初め江原道横城県に移り、後に江原道江陵府に移住して鬱火病を患い、激しい怨恨を抱きながら1781年4月28日死亡した。同日に正祖は洪国栄の専横は権力を付与した自分の重罪だと語った。[36]

素行を概要すると、宿衛所で平床寝台に裸足で足を伸ばして執務した。正祖の生活する大殿から宿衛所は塀一つの区間であるのに、私邸にいる感覚で下僕を大声で呼んで、ある時には医女と針子を呼んで性的行為をした。また大臣が来て軽く跪いても、平床寝台から降りずに下品な口調で大臣を叱責して悪口を言うなどした。洪国栄の政治権力の専横は勢道政治と呼ばれ、国王の側近が政治を専横する危険性を明示した。[32]

親政[編集]

正祖は親政と共に国家の威厳を高める目的で、李朝の歴代国王の治績を収めた国朝宝鑑を、記述が無い12代分の宝鑑を1768巻で補完、歴代王朝の王陵を修理して祭祀、温祚王墓を崇烈殿に改称、高麗四太師廟に賜額した。奎章閣では大規模な著述事業を行い、治世間に150以上の新分野を開拓した。1784年皇極編を著作して、朋党を解散させ君子に政治を輔弼させる論を提唱した。


奎章閣[編集]

奎章閣1776年に設置され、

嶺南学派の抗訴[編集]

1788年8月から李麟佐の乱の無実を示す為に約1万5千人が決起して上疏に署名したが、承政院の検閲により上奏されなかったため、11月正祖が嶺南学派の本拠である陶山書院の訪問の際に大殿別監を通じて上奏された。1792年6月16日に上奏された上疏には、約1万人の嶺南学派士大夫が署名した。内容は荘祖の無罪を宣言する事で、王権を強化して、改革を行うべきであると記された。この上疏の署名数は異常な数であった。[37]6月25日再び約1万3千人の嶺南学派士大夫が署名した上疏が上奏され、署名者代表の李㙖には参奉の官職が与えられ正祖に拝謁したが喉が詰まり無言のまま終えた。[38]だが上奏された背景には弘文館の官吏を買収するなどしたからである。これは国王に上奏する為には、特定の官職に在る官吏しかできなかったのである。このような過激な行動が取れるのは老論の影響力が低下した事も見られる。

華城[編集]

1789年荘祖の陵墓の永佑園を顕隆園と改称して、水原都護府に行宮を設けた。顕隆園には頻繁に行幸しており、両親への孝行として正祖は華城を建設する計画と運用する構想を立てた。蔡済恭が建設指揮を執り、設計は主に丁若鏞が立てた。1794年2月頃に着工して、1796年10月10日は竣工した。[39]建設期間には10年と見積もったが、奎章閣出身の実学者丁若鏞等の活躍で、建設資材を規格化して運送を速くして、挙重機が開発されて、石垣は花崗岩からレンガとなり、石垣の性能が向上した。華城は軍事機能と商業機能を保有した実用的な城郭であり、漢城府から華城に経済利権を移管するようにして、漢城府の経済利権を独占する老論に打撃を与えた。構想には1804年正祖と献敬王后華城に移住して荘祖に孝行を尽くすとして、純祖に譲位する部分もあったが、1800年の過労死で無に帰した。

過労死[編集]

垂簾聴政[編集]

垂簾聴政[編集]

政策[編集]

施行政策[編集]

正祖は1777年から、農業、人材、軍事、経済の四大分野の改革を始めた。特に農業は専門家の意見で改善して普及に努めた。主に測雨器占風竿を普及させ、税政改革も図った。不当処罰の問題には、承旨義禁府刑曹に遣わして、法律を遵守しない不当処罰を調査して死刑囚の決獄案は10回確認を済ませて処理して、審理録に記録した。調査結果を元に欽恤典則を制定して不当処罰を改善した。 1778年撃錚[註 13]を両班のみから、全階級が撃錚を行えるようにして、それを移動や行幸の際に受け付けた。日省録と正祖実録に載る撃錚の件数は5000件を越える。正祖は洪国栄を重用して、弊害を解消させて、宮殿の護衛に用いた。金鍾秀は外戚を排斥する為に、沈煥之宋能相宋徳相宋煥箕金鍾厚を側近とする事を薦めた。

施行政策[編集]

1783年字恤典則を施行して孤児救済に努め、宮差徵税法を廃止した。1785年大典通編を施行した。大典通編経国大典などを参考にした法典であり規定が大幅に改正された。また正祖専属の壮勇営を創設して、僻派の権力を弱体化させた。海防対策では統禦営の管轄を喬桐府に移管して、江華道営と共に兵力を強化させた。また辛亥通共により、禁乱廛権[註 14]を廃止して、誰でも商売活動が可能になり、老論の資金源を断った。

蕩平策[編集]

キリスト教の蔓延[編集]

社会問題と化したキリスト教に対しては、性理学だけがカトリックの蔓延を防ぐ方法である原則を定め、柔軟に対処した。1791年11月キリスト教徒の尹持忠権尚然は父母の葬式をカトリック式にして、位牌を燃焼した珍山事件が発端で、キリスト教弾圧の世論が増発した事を見て正祖は遂に尹持忠権尚然を死刑にした。1795年清国人宣教師周文謨朝鮮に密入国して宣教活動を行ったことが発覚する事件が発生して死刑となった。この後、宣教を受けた黄嗣永朝鮮への軍事介入を勧める帛書を持って清国に逃亡して大問題になり、晩年にはキリスト教弾圧の公論を展開する僻派の影響力が増したりした。

政策[編集]

正祖の理想[編集]

自ら寝室を蕩蕩平平室[註 15]と改名して、英祖蕩平策を継承する事を宣言した。また礼訟以降の政治権力は臣下が独占しており、天下同礼[註 16]の標語の元に国王と臣下の儀礼は同一視され、国王は政治権力を喪失した。これに金鍾秀は、国王が政治面においても絶対的存在になるべきと進言した。正祖は「万川明月主人翁自序」[註 17]と詠んだ。正祖は臣下の政治権力を解消して、民衆の意見で政治を行う事を理想とした。

1776年11月5日昌徳宮秘苑に奎章閣を建立した。[40]建立の名目は国立図書館であるが、実質は正祖に同調する人材を呼応させ、老論が独占する政治権力を解消して、王権強化を図ろうとした。奎章閣では、右文之治[註 18]と作成之化[註 19]奎章閣の二大名分として掲げて、文化政治を標榜して、正祖を補佐する政治機構とした。特に優秀な文官を選んで、抄啓文臣と称して、毎月試験を行い賞罰を下す、抄啓文臣制を実施して、疎外された嶺南学派や侮蔑された平安道にも科挙を受けさせた。また正祖は空理空論の儒学に対して、利用厚生の実学を重用して、世宗成宗の代に並ぶ文学の盛況をよんだ。


宗室[編集]

正祖の親類・近親・祖先の詳細

奎章閣
蔡済恭
尊属
続柄 備考
祖父 英祖 第21代朝鮮国王
祖母 貞聖王后 英祖の初妃。
祖母 貞純王后 英祖の継妃。純祖期垂簾聴政を行う。
祖母 映嬪李氏 荘祖の実母。
祖母 靖嬪李氏 真宗の実母。
義父 真宗
義母 孝純王后 趙文命の娘。
荘祖 壬午士禍で薨去。
献敬王后 洪鳳漢の娘。
后妃・子女
続柄 備考
正室 孝懿王后 金時黙の娘。
  王子 純祖 第23代朝鮮国王綏嬪朴氏より降誕。第二子。
側室 宜嬪成氏 成胤祐の娘。
  王子 文孝世子 第一子。
王女 早卒 第二女。
側室 綏嬪朴氏 朴準源の娘。純祖の実母。大妃の待遇を受ける。
  王女 淑善翁主 第三女。
側室 元嬪洪氏 洪楽春の娘。洪国栄の妹。
側室 和嬪尹氏 尹昌胤の娘。
  王女 早卒 第一女。

宗室[編集]

兵学通



後に三司[註 20]の弾劾で流刑を受けた。







正祖が登場する作品[編集]

映画
テレビドラマ

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b 清の諡号を隠した朝鮮後期の国王たち 朝鮮日報 2007/09/16
  2. ^ 『英祖実録』巻第77 28年(1752年壬申/乾隆17年) 旧暦9月22日(己卯)2項目
  3. ^ 『英祖実録』巻第88 32年(1756年丙子/乾隆21年) 旧暦6月2日(戊戌)3項目
  4. ^ 『英祖実録』巻第83 31年(1755年乙亥/乾隆20年) 旧暦1月28日(壬寅)4項目
  5. ^ 『英祖実録』巻第93 35年(1759年己卯/乾隆24年) 旧暦2月12日(癸亥)1項目
  6. ^ 『英祖実録』巻第93 35年(1759年己卯/乾隆24年) 旧暦閏6月22日(庚子)2項目
  7. ^ 『英祖実録』巻第97 37年(1761年辛巳/乾隆26年) 旧暦3月10日(己酉)2項目
  8. ^ 『英祖実録』巻第97 37年(1761年辛巳/乾隆26年) 旧暦3月18日(丁巳)1項目
  9. ^ 『英祖実録』巻第99 38年(1762年壬午/乾隆27年) 旧暦2月2日(丙寅)1項目
  10. ^ 『英祖実録』巻第99 38年(1762年壬午/乾隆27年) 旧暦5月22日(乙卯)2項
  11. ^ 『英祖実録』巻第99 38年(1762年壬午/乾隆27年) 旧暦閏5月13日(乙亥)2項
  12. ^ 『英祖実録』巻第103 40年(1764年甲申/乾隆29年) 旧暦2月21日(癸卯)1項
  13. ^ 『英祖実録』巻第126 51年(1775年乙未/乾隆40年) 旧暦12月7日(庚戌)9項目
  14. ^ 『英祖実録』巻第125 51年(1775年乙未/乾隆40年) 旧暦11月20日(癸巳)1項目
  15. ^ 『英祖実録』巻第125 51年(1775年乙未/乾隆40年) 旧暦11月30日(癸卯)1項目
  16. ^ 『英祖実録』巻第127 52年(1776年丙申/乾隆41年) 旧暦3月5日(丙子)1項目
  17. ^ 『正祖実録』巻第1 即位年(1776年丙申/乾隆41年) 旧暦3月10日(辛巳)1項目
  18. ^ 『正祖実録』巻第1 即位年(1776年丙申/乾隆41年) 旧暦3月10日(辛巳)2項目
  19. ^ 『正祖実録』巻第1 即位年(1776年丙申/乾隆41年) 旧暦3月10日(辛巳)4項目
  20. ^ 『正祖実録』巻第2 即位年(1776年丙申/乾隆41年) 旧暦8月19日(戊午)3項目
  21. ^ 『正祖実録』巻第1 即位年(1776年丙申/乾隆41年) 旧暦3月19日(庚寅)1項目
  22. ^ 『正祖実録』巻第1 即位年(1776年丙申/乾隆41年) 旧暦3月20日(辛卯)1項目
  23. ^ 『正祖実録』巻第1 即位年(1776年丙申/乾隆41年) 旧暦7月5日(甲戌)4項目
  24. ^ 『正祖実録』巻第4 1年(1777年丁酉/乾隆42年) 旧暦7月29日(壬辰)1項目
  25. ^ 『正祖実録』巻第4 1年(1777年丁酉/乾隆42年) 旧暦8月6日(己亥)1項目
  26. ^ 『正祖実録』巻第4 1年(1777年丁酉/乾隆42年) 旧暦8月11日(甲辰)1項目
  27. ^ 『正祖実録』巻第1 即位年(1776年丙申/乾隆41年) 旧暦7月6日(乙亥)6項目
  28. ^ 『正祖実録』巻第4 1年(1777年丁酉/乾隆42年) 旧暦11月15日(丁丑)2項目
  29. ^ 『正祖実録』巻第5 2年(1778年戊戌/乾隆43年) 旧暦6月21日(己酉)1項目
  30. ^ 『正祖実録』巻第5 2年(1778年戊戌/乾隆43年) 旧暦6月27日(乙卯)1項目
  31. ^ 『正祖実録』巻第7 3年(1779年己亥/乾隆44年) 旧暦5月7日(庚寅)1項目
  32. ^ a b 『正祖実録』巻第8 3年(1779年己亥/乾隆44年) 旧暦9月26日(丁未)1項目
  33. ^ 『正祖実録』巻第8 3年(1779年己亥/乾隆44年) 旧暦9月28日(己酉)1項目
  34. ^ 『正祖実録』『正祖実録』巻第9 4年(1780年庚子/乾隆45年) 旧暦2月26日(乙亥)1項目
  35. ^ 『正祖実録』『正祖実録』巻第9 4年(1780年庚子/乾隆45年) 旧暦2月26日(乙亥)2項目
  36. ^ 『正祖実録』『正祖実録』巻第11 5年(1781年辛丑/乾隆46年) 旧暦4月5日(戊申)3項目
  37. ^ 『正祖実録』巻第34 16年(1792年壬子/乾隆57年) 旧暦閏4月27日(乙未)4項目
  38. ^ 『正祖実録』巻第35 16年(1792年壬子/乾隆57年) 旧暦5月7日(甲辰)1項目
  39. ^ 『正祖実録』巻第45 20年(1796年丙辰/順治1年) 旧暦9月10日(壬子)3項目
  40. ^ 『正祖実録』巻第2 即位年(1776年丙申/乾隆41年) 旧暦9月25日(癸巳)4項目

注釈[編集]

  1. ^ 満年齢での数値。数え年では49歳になる。
  2. ^ 孝宗の潜邸
  3. ^ 世孫講書院の官職。官位は従一品。
  4. ^ 正祖は老論少論を知る必要は無く、吏曹判書と兵曹判書の権利を知る必要は無い。朝廷の事は最も知る必要は無い。
  5. ^ 衰服を整えること
  6. ^ 国王が臣民に聖謨を教え諭して勧める文書
  7. ^ 罪人の子は国王に為れ無い
  8. ^ 鄭厚謙がかつて権勢を誇った事から
  9. ^ 殯殿都監国葬都監山陵都監の総称。
  10. ^ 仁明園は元嬪洪氏の身位の等級より格上であり、失脚後は仁明園の等級を墓に降等された。
  11. ^ 「完豊」の名称は洪国栄が名付けた。完山李氏(全州李氏の別称、王室の本貫)の頭文字から、豊山洪氏(洪国栄の本貫)の頭文字から取った。
  12. ^ 洪国栄は従二品に相当する待遇
  13. ^ 国王の移動や行幸の際に、銅鑼や太鼓を叩いて要望を直訴する行為
  14. ^ 独占商業特権
  15. ^ 書経洪範篇「毋偏毋党、王道蕩蕩、毋党毋偏、王道平平」より
  16. ^ 国王と臣下が同一の礼を受ける事。礼訟で主張されたのが起源。
  17. ^ 国王を月と例え、臣民を川と例え、臣下を雲に例える。月が川を照らし、多くの川が受けた光で月を明るく照らす。意訳すると国王と民衆の間に臣下が遮らない政治を強調した。
  18. ^ 文治政治を行い、礼儀、法律、教育面の整備拡充を通じて社会秩序の安定を維持しようとする事
  19. ^ 人材を育成して国家を発展させる事
  20. ^ 司憲府司諫院弘文館の総称。朝廷の公論を司り、時には国家を牽制する事があった。