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利用者:Sadmadjane/sandbox gen

ウィンドラッシュ世代 (:Windrush generation)は、1948年から1971年[1](または1973年[2])にかけて、カリブ諸国からイギリスに移民として到来した人々を指す呼称[1]。その名前は、1948年にジャマイカトリニダード・トバゴなどからの移民を乗せてきたエンパイア・ウィンドラッシュ号英語版に由来する[1][3]

エンパイア・ウィンドラッシュ号

やりたい[編集]

  • rmgstory使って追記、パテニュースの発言もっと詳しく、youtubeリンク載せたい

Pathe Reporter Meets (1948) - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=QDH4IBeZF-M 外部リンクとかでもいいかも

windrush queerで検索すると出てくるのでそれも使いたい

  • Racial Discrimination in England. Based on the PEP Report 入手できないか?

地理的分布[編集]

これイギリスのアフリカン・カリビアンの記事でやるべきか?

西インド系の住民は、ロンドンにおいては、とりわけランベス区ブレント区ワンズワース区ハーリンゲイ区などに多く居住している[4]。これは、後述するように、これらの地区が衰退しつつある旧郊外地区であることによっている[5]

前史[編集]

西インド諸島支配

1948年のウィンドラッシュ号来航以前にも、イギリスへの西インド諸島からの移民は存在していた。

ウィンドラッシュ世代の到来は、イギリスにおける黒人移民の増大を意味した。本節では、この出来事の前触れとなる、ウィンドラッシュ世代以前のイギリスにおける黒人の存在、及びウィンドラッシュ世代のイギリスへの移住の原因となった「プッシュ(=押し出し)要因」と「プル(=引く)要因」イギリスによるカリブ海支配について説明する。

ウィンドラッシュ世代以前の在英黒人[編集]

WW2以前のイギリスの黒人のことちょろっと書く

しかし、イギリスがはじめて大規模な「黒人」の流入を経験したのは、第二次世界大戦における黒人米兵のイギリス駐留であった。田園地帯を含む広範な地域での

また、第一次世界大戦時には、ジャマイカから 1914年、第一次世界大戦が開戦した。マーカス・ガーベイなどの活動家が、戦争に志願して国王に忠誠を示せば、自分たちにも対等に扱われる権利があることを示すことができると主張し、それに賛同した数千人のカリブ人が従軍を志願した[6]。 当初、大臣のホレイショ・キッチナーをはじめとして、戦争省は西インド諸島からの志願兵の募集に反対していた[6][7]が、国王ジョージ5世の介入や人手不足も相まって[6]1915年、戦争省は志願兵の受け入れに同意し、西インド諸島からの志願兵を集めたイギリス西インド連隊英語版が編成された[6][7]。西インド連隊は各地の戦線で活躍したが、しばしば同僚の兵士や軍当局からの人種差別にも遭遇した。1918年には、イギリス軍において一律に行われていた昇給が、西インド連隊に対しては行われなかった。これは、彼らが「土民 (natives)」として分類されていたことが原因だった[7]。最終的に、兵士や各島の行政からの抗議によって昇給は行われたが、こうした様々な差別への不満は蓄積していた。1918年12月には、イタリアターラントで、復員命令が降りるまで労働力として使役させられたことに不満を抱いた第9大隊の兵士たちが、将校に対し反乱を起こした[7]

第二次世界大戦時には、約7000人の西インド諸島民がイギリス空軍に勤務し、また多数の西インド諸島民がイギリスの軍需工場で働いた。そしてその中には、戦後もイギリスにとどまった者も多かった[8]。しかし、終戦に伴うイギリス兵の帰還、および1947年マージーサイドの工業地帯を経済危機が襲った関係で、労働力が過剰となった[9]。結果、雇用者の多くが西インド系住民の雇用の継続を拒否し、イギリスに定住したのは全体の3分の1にとどまった[9][10]

西インド系住民が、1911年時点で9189人、1921年時点で9054人、1931年時点で8595人だったものが、1951年時点で15301人、1961年には172877人となり、1977年には518000人に達した[11]

参考文献

イギリスのカリブ海支配[編集]

クリストファー・コロンブスによるアメリカ「発見」以降、ヨーロッパ諸国によるカリブ海諸島の征服と植民地建設が開始された。先手を打ったのはスペインだったが、エルナン・コルテスのメキシコ征服以降、スペインはカリブ海地域から大陸部に主眼を移した。これにより、スペインにとってカリブ海地域は通信・輸送上の通路として認識されるようになり、主要な港に要塞を作るのみで、島嶼部への積極的な植民活動は行わなくなった[12]。その結果、イギリス・オランダフランスによるカリブ海進出が容易になり[12]、カリブ海の覇権はオランダに移った[13]

イギリスは、当初、ギアナ小アンティル諸島、現在のベリーズに相当する中央アメリカ地峡の一部など、スペインの支配外で白人年季奉公人によるタバコ栽培や酪農に専念していたが、17世紀半ば、オリバー・クロムウェル重商主義政策を強化、オランダの覇権への挑戦姿勢を見せる。[13]クロムウェルは、英蘭戦争の勝利によりオランダの影響力を削ぎ、さらに当時スペインが支配していたジャマイカを攻撃、1655年に占領した。以降、イギリスは、ヘンリー・モーガンなどの海賊を用いつつ、カリブ海地域に覇を唱えた[13]

このようにして獲得されたカリブ海植民地において、当初、主要な産業は生活必需品の交易やタバコ栽培に限られていたが、カリブ海地域がサトウキビ栽培に適していたこと、アフリカ大陸から奴隷が持ち込まれたことで、カリブ海地域は経済的重要性を増すことになる[14]。17世紀後半、プランテーションによる砂糖生産が始まり、18世紀にはさらに拡大した。ジャマイカは、18世紀カリブ海におけるイギリス植民地最大の砂糖産地だった[15]。こうしたプランテーションに使役されるためにアフリカ大陸からカリブ海地域に「輸出」されたアフリカ人奴隷の総数は、350万人から400万人ほどであったとされる[16]

しかし、19世紀に入り、奴隷解放の風潮に押され、イギリスでは、1807年奴隷貿易廃止法英語版が成立、1833年奴隷廃止法が通過、1838年に有償による全奴隷の解放が達成された[17]。こうして奴隷が解放されると、ジャマイカやトバゴ島などでは、解放奴隷はプランテーションを離れ、砂糖の生産量は低落の一途を辿った[15]ほか、農園主の側も、中国インド、アフリカなどから年季奉公人を雇うなどした[17]。だが、元奴隷による定住の成功を好ましく思わなかった農園主たちは、労働市場の支配権を握ろうと様々な試みを行った。ジャマイカでは、農園主と植民地総督府が手を組んで地価を吊り上げ、元奴隷による土地購入を妨げた。そして、元奴隷は、そうした決定に異議を唱える手段を持たなかった[18]エリック・ウィリアムズは、1930年に、トリニダードの成人全員が栄養不良に陥っていると当局が認めたことを記している[19]。モイン男爵ウォルター・ギネス上院議員が議長を務めた王立委員会は、1938年から1939年にかけて、カリブ海のイギリス植民地の現状を調査し、1939年末に報告書 (Moyne Report)を提出したが、その内容の惨さゆえにイギリス政府は第二次世界大戦終結まで発表を差し控えるべきと判断し、1945年6月に報告書英語版が公開された[19]。報告書によれば、英領西インド諸島の労賃は最低賃金の1日1シリングを若干上回る程度で、教育状況も設備・人員ともに不足しており[19]、さらに住民はマラリア寄生虫病結核といった慢性的な疾病に悩まされていた[20]。そしてそれから10年が経過した1948年になっても、状況は改善されなかった。このような状況から抜け出したいという住民の願いが、1948年以降のイギリスへの定住を準備することになる[21]

参考文献

  • 志柿光浩「カリブ海地域」『改訂新版 ラテンアメリカ研究への招待』2005年、新評論
  • ピーター・フライヤー「大英帝国の黒人」日野壽憲訳、2007年、本の泉社←ちょっと訳がひどくないか

歴史[編集]

訪れ[編集]

アフリカン・カリビアンの方がいいかな storyを参照して色々書き換える必要 イギリス空軍に参加していた多くのカリブ系住民がいたことの記述

第二次世界大戦後、多くのアフリカ系カリブ人英語版北アメリカおよびヨーロッパ、とりわけアメリカ合衆国カナダ、イギリス、フランスオランダに移住した。第二次大戦による労働力の喪失を補うために、イギリス政府は、かつての大英帝国およびコモンウェルスからの大規模な移民を奨励しはじめた[22]1948年イギリス国籍法英語版によって、大英帝国とその植民地に住む全ての人々にイギリス市民権およびイギリスへの入国権と定住権が付与された。多くの西インド諸島住民が、「母国」としばしば称されるイギリスでのより良い暮らしへの期待に心を寄せていた。

1948年6月22日、エンパイア・ウィンドラッシュ号英語版が、802人[注釈 1]の移民を乗せて、ロンドンにほど近いティルベリー港英語版に到着した[26][27] 。ウィンドラッシュ号は軍隊輸送船であり、休暇中の軍人を迎えに行くため大西洋を渡ってオーストラリアからイングランドまで向かう道すがらで、ジャマイカのキングストンに入渠した[28]。このころ、ジャマイカのある新聞に、イギリスで働きたい人向けの安価な移動手段を提供する旨の広告が載った。イギリスに戻ってイギリス空軍に再入隊するために乗船した多くの元軍人がいた一方で、イングランドが実際はどのようなところなのか見るために乗船を選んだ人もいた[28]。彼らのうち、宿泊する場所の用意のなかった236人は、イングランドに到着すると、ブリクストンコールドハーバーレーン英語版から約3キロ離れたところに位置する、ロンドン南西部にあるクラッパムサウス英語版地下防空壕英語版に一時的に収容された[29][28]。ウィンドラッシュ号の乗客には、イギリスに数年と留まらずカリブへと戻っていった者も多かったが、大多数はイギリスに永住する道を選んだ[28]。1948年6月22日のウィンドラッシュ号の乗客の到来は、現代イギリス史における重要なランドマークとなり、西インド諸島出身者がウィンドラッシュ号のタラップを一列に進むイメージは、現代イギリスが多文化社会として歩む道のりのはじまりを象徴するようになった[28]

カリプソ歌手のロード・キッチナー英語版もまた、エンパイア・ウィンドラッシュ号に乗ってイギリスに降り立った一人だった[30]。彼がパテ・ニュースに求められてカメラの前で歌った「London is the Place for Me英語版」は、当時の移民たちの希望を生き生きと表している。

ロンドンは私のための場所、ロンドン、この愛しい都市……

フランスにだって、アメリカにだって、インドにだって、アジアにだって、オーストラリアにだって行くことはできる、でもロンドンに戻ってこなくちゃいけない…… 母国を知ることができて嬉しいんだ、昔はいろんな国に行ったけれど、でもここが私があなたに知っておいてもらいたい場所…… ロンドンに住むなら、きっと快適だろう、だってイギリスの人々は皆とても社交的だから。ここにも、あそこにも連れて行ってくれる、そしてあなたを億万長者のような気持ちにしてくれる…… 夜、することがないとき、シャフツベリー・アベニューを歩くといい。笑って、語り合って、心地よい風を感じられる、そしてロンドンの美しい景色に見惚れることだろう……[31]

—ロード・キッチナー(London is the Place for Meより)

だが、この期待は裏切られることになる。

エンパイア・ウィンドラッシュ号の到着後、同1948年10月にオルビタ号(the Orbita)、翌1949年7月にジョージック号が移民を載せて到着した。しかし、1951年まではイギリスへの移民は少なく、イギリスへの移民が増大するのはアメリカがマッカラン法を制定したことが契機となる[23]

また、密航を試みた者もおり、1946年から1960年にかけて1376人がイギリスに密航した。うち、226人は上陸不許可となった[32]

1961年までの西インド諸島からイギリスへの移民を

イギリスは、第二次世界大戦後の経済復興によって完全雇用の時代になった。これによって、従来のイギリス人労働者はより労働条件の良い職に転じ、様々な分野で労働力不足が発生した。このような不足を補う形で、西インド諸島からの移民が雇用された。とりわけ、交通・運輸産業と医療産業において顕著で、イギリス国鉄ロンドン交通局国民保健サービス(NHS)はバルバドスとジャマイカで現地採用をおこなった[33]。ロンドン交通局は、大手雇用者として初めて西インド諸島で積極的に黒人労働者の雇用を開始した事業者で、1956年からバルバドスでの現地採用を開始し、1965年までに4000人近くのバルバドス人を雇用した[25][33]。ロンドン交通局は、移住のハードルを低くするため、給料からの後払いを条件に、船賃の立て替えも行った[25]。また、西インド諸島の行政の側が移住を支援する例もあった。失業の増大と人口の増加に悩まされていたバルバドス政庁は、船賃と当面の生活費(約83ポンド)を無利子で貸与し、移住を奨励した。結果として、1955年から1965年までの11年間で21000名がバルバドスから他国に移住した(そのうち約半分がイギリスを移住先に選んだ)[10]。さらに、雇用者が各地の行政と連携して雇用する例も見られた。イギリス国鉄は、バルバドス政庁と協定を結び、1958年から1961年までに1599名を採用した[34]。NHSも同様に、536名の看護学生をバルバドスから雇用した[34]。そのほか、ホテル・レストラン協会も西インド諸島からの移民を歓迎した[10]。このような動きを受けて、私費でイギリスへ移住する動きも西インド諸島各島に広まった[34]

このようにして雇用された移民たちは、多くが非熟練労働者として、比較的低い階層で働くこととなった。例えば、イギリス国鉄やロンドン交通局は、かつては人気の職業だったが、賃金の低下に伴ってイギリス人からの人気は低迷し、人手不足となっていた。こうした労働力の穴にあてがわれた移民たちは、運搬人、車庫の職員、線路作業員など、比較的低い階層で働いた[10]。有色人種の労働者は、経営者やイギリス人の労働者からは、劣っていて、熟練しておらず、間に合わせで雇われた、ノロマで取り扱いに注意を要する人材と見なされており、景気が悪くなれば犠牲になってもらう存在として認識されていた[10]

また、有色人種の移民には就業できない職種も存在した。ランベス区では、完全雇用期でさえ、有色人種の労働者を一定数雇っていたのは4社のみで、多くの雇用者は有色人種を雇いたがらなかった[10]

シンクタンク政治経済計画英語版 (Political and Economic Planning, PEP)がイギリス連邦移民全国委員会 (National Committee for Commonwealth Immigrants)と人種関係局英語版の依頼で作成した調査報告書によれば、[35]

私は、イングランドに向かってジャマイカを離れたとき、イギリス人を尊敬していた。私たちがジャマイカでイギリス人を尊敬をもって遇したように、イギリス人は私たちを尊敬をもって遇してくれることを期待していた。しかし私たち西インド諸島系黒人はイギリス人によって下等の人間とみなされていることを私は知った。私の子が街でイギリス人の子と共に遊ぶため出ていくと。イギリス人の両親は彼らの子を連れ戻すことを私は知った。[35]

我々は訓練のため、才能あるいは能力、そしてスマートな外見を要求する。また、長年の経験から、我々は有色人種の応募者には、明瞭さと、それから他のスタッフに不快感を与えない程度には魅力的な容姿を要求する。つまり、毛や髪がもじゃもじゃであってはいけないし、色が黒すぎてもいけないし、ネグロイド的見た目でありすぎてもいけない、ということだ。[36]

オフィスにおいては、インド人がより適している。彼らは私たちよりも少しダークであるが、私たちと同じようにみえるし、しばしばダークなヨーロッパ人のように見える。しかし、黒人は全く違う[35]

差別と迫害[編集]

西インド諸島からの移民の到来は、イギリス政府の予期したものではなく、そしてまたイギリス政府は彼らを歓迎しなかった。労働・徴兵担当大臣英語版であったジョージ・アイザックス英語版は、議会で、彼らを真似て移民を試みようとする人々への援助を用意することはないと述べた。1948年6月、11人の労働党員が、クレメント・アトリー首相に対し、移民の過剰への不平を送った。同月、植民地大臣アーサー・クリーチ・ジョーンズ英語版は、内閣の覚書に、ジャマイカ政府が合法的に出国を阻止できないこと、イギリス政府もまた合法的には入国を阻止できないことを記している。しかしながら、彼は、イギリス政府はこの移民に反対していること、植民地省とジャマイカ政府は移民を阻止するため可能な限りの手段を取ることを述べている[37]

1950年6月、「イギリス植民地から本国への有色人種の移民を食い止めるために採用しうる方法」を見つけるとの付託条項英語版付きで、内閣委員会が設置された。1951年2月、委員会は、規制は必要ないとの報告書を提出した[38]。そこには、戦後イギリスは多くの仕事があり、また国鉄国民保健サービス、公共交通機関といった諸産業が、ほぼ独占的にジャマイカやバルバドスからの移民を雇用していたという事情がある[39]。アフロ・カリビアンの人々は、継続して行われたイギリス政府による移民キャンペーンに突き動かされてイギリスに渡航したが、到着した先では、白人社会による偏見と不寛容と人種差別とに耐え忍ばなければならなかった[27]。この経験は、長きにわたり、アフロ・カリビアンの人々とより広いコミュニティとの関係を特徴づけるものだった[40]

初期のアフリカン・カリビアンの移民たちは、人種を理由に民間の雇用や住宅への入居を拒否された。労働組合がアフリカン・カリビアンの労働者に手を貸さないこともしばしばで、パブ、クラブ、ダンスホール、教会などの中には、黒人の入場を禁止しているところもあった[27]。また、戦時中の爆撃によって住居が不足しており、そのことが既存の白人コミュニティとの衝突を引き起こした。衝突は1950年代に入っても続き、それどころか悪化し、ロンドン、バーミンガムノッティンガムなどの都市で暴動が発生した[22]1958年、ロンドンのノッティング・ヒルで発生した、白人の若者による襲撃により、白人コミュニティとアフロ・カリビアン住民との関係が悪化した。翌1959年、アフロ・カリビアンコミュニティによるポジティヴな応答として、ウェスト・インディアン・ガゼット英語版の編集者であるクラウディア・ジョーンズが企画した屋内カーニヴァルイベントがセント・パンクラスタウンホールで開催された。これが、後に毎年開催されることになるノッティング・ヒル・カーニヴァル英語版の前身である[41]。人種差別や不寛容の中には、オズワルド・モズレー連合運動英語版帝国忠誠同盟英語版白人防衛同盟英語版国民労働党英語版などのファシスト運動や反移民運動に焚き付けられたものもあった。この種のプロパガンダに影響され、テディ・ボーイズの集団が時として黒人を襲撃することがあった[27]。歴史家のウィンストン・ジェームズは、このように人種差別に耐えてきた経験が、所属していた階級やどの島の出であるかがバラバラだったにも関わらず、移民たちに広く「カリブ系」というアイデンティティを自認させるに至った大きな要因であっただろう、と論じている[42]

社会地理学者のセリ・ピーチ英語版は、西インド諸島出身のイギリス在住者は、1951年段階では15,000人だったが、1961年には172,000人にまで増えたと概算している[43]

就労における差別[編集]

黒人移民には、白人が嫌がるような仕事、典型的にはクリーニング業や夜間の仕事が与えられ、しばしばそれは彼ら彼女らの技能に即しないものだった。1950年代末、ロンドンにおいては、西インド系の男性の半数以上が、自身の技能や経験以下のレベルの仕事に従事させられていた[44]。やがて、黒人が白人の仕事を奪っていると主張する[45]白人労働者と地元の労働組合が、黒人とアジア人の雇用数を制限するよう要求するようになった。とりわけ白人のバス運転手が強力にこのような主張を行った[44]。このような要求に押され、国有の公益企業も含め、雇用者たちは「有色人種」の労働者を雇いたがらなくなり、非熟練労働であっても「植民地人」の雇用を拒絶するようになった[44]。結果として、黒人やアジア人の失業率は相対的に高い数字となり、ノッティンガム職業安定所の1958年の報告では、ノッティンガムの失業率が1%を切っていたのに対し、同地の「有色人種」の失業率は15.4%に達した[45]。さらに、1956年スエズ危機によって原油価格が高騰し、イギリス全体が不景気に侵されて白人の失業率が上昇すると、人種間の関係はさらに緊張した状況になった[46]

住宅における差別[編集]

西インド諸島からの移民は、住宅問題において熾烈な差別に直面した。労働市場においては、有色人種がより劣悪な環境の職種に着いたため白人と有色人種が競合することは直接にはなかったが[47]、住宅市場では競合することになった[47]。西インド諸島からの移民は、民間賃貸でも公営住宅でも、都心の寂れた地区にある古くて質の悪い住宅に入居するほかなかった[47]。イギリスにおいて、住居を調達する手段は、

  1. 民間で家主から賃借りする。
  2. 持ち家を購入する。
  3. 地方自治体から公営住宅を賃借りする。

の3つである。このうち、民間の賃貸より公営住宅が一般に好まれる。これは、公営住宅の方が質がよく、家賃も安いからである[48]。これに加えて、西インド諸島系の移民においては、白人の家主によって人種差別を受ける恐れがあったほか、移民に貸し出される家具付きの賃貸は家賃が高く、質も悪いため、民間の賃貸は好まれなかった[48]。他方、質の良い持ち家を購入することも、白人住民の偏見や不動産業者・建築業者の人種差別ゆえにほぼ不可能であった[48]。したがって、公営住宅への入居を検討する移民は多かった。また、地方自治体の側にも、1949年住宅法英語版の規定により、住宅難に苦しむ住民に公営住宅を公正に割り当てる義務があった[48]。しかし、地方自治体は、移民を効率的に公営住宅から排除した。1969年のカリングワース報告(Cullingworth Report)は、地方自治体には住宅割り当てにあたって人種差別的な効果を持つ政策や慣例が存在したことを示している[49]

例えば、各自治体は、公営住宅の待機リストへの登録にあたり、資格を設けた。多くの自治体は、申し込みまでにその自治体に一定期間居住していることを要求した(在住規定)。とりわけロンドンの多くの地区では、5年以上のロンドン在住、最後の1年間の当該地区在住が要求され、このような在住規定は、それ自体が移民に不利に働いた[50]。また、在住規定の期間に人種差別を設けている自治体も存在した。ベッドフォードでは、元々の住民は1年以内に住宅を提供され、そのほかのイギリス生まれの人々は待機リストの登録までに1年の在住を要求されたが、移民は全て待機リストの登録までに4年以上の在住を要求された[50]。また、待機リストの登録以降の「待ち時間」によって優先順位を変更する規定を設けた自治体もあり、これは比較的最近にイギリスにやってきた移民に不利に働いた[51]。こうした、在住規定や待ち時間制といった、一定期間ある地区に止まることを要求する規定は、職を求めて転々とする移民に不利に働き、人種差別として機能した[52]。なお、このような規定に対しては、イギリス政府の中からもたびたび批判が上がっている[53]

また、地方自治体は、公営住宅には「ふさわしい家族」を居住させるべきだ、との考えを持っており、「ふさわしい家族」には良質な住宅を、「問題のある」家族には質の悪い住宅を提供するか、そもそも住宅自体提供しないようにしていた[54]。「問題のある」家族とみなされたのは、大家族や、単身者、非イギリス国籍者[注釈 2]、未婚の母[注釈 3]などであり、移民に不利に働いた[54]

さらに、待機リストに加えられた家庭には自治体の職員が訪問調査を行うのだが、職員の差別感情や、社会的・文化的背景への無理解によって、移民は不利な状況に置かれた[55]

それに加えて、移民の側に十分に情報が行き届かず、居住資格がないと誤解していた者、自治体職員から「移民は不利な立場に置かれる」と告げられた者もあった[48]

以上のような事情と、当初、移民受け入れに十分な住宅準備がなされていなかったことも相まって[56]、西インド諸島からの移民たちは、やむなく家具付きの民間賃貸住宅に居住した[47][56]。しかし、彼らの大部分は収入が低かったため、一戸の住宅に複数家族で居住することを余儀なくされた[56]。1965年のホランド報告は、以下のように記している。

  1. 有色人種移民の困難の基本的性質は、十分な資産を持たずにロンドンにやってきた新参者と質的には同じである:すなわち、地方自治体の公営住宅の待機リストが超満員状態か、あるいはすでに閉鎖されていること、住居割り当てに際して非常に低い優先権しか与えられないこと。
  2. 有色人種の移民において、こうした困難は、彼らに利用可能な賃貸住宅の建設に明らかに二の足を踏んでいる世間の風潮によって、強化されている。
  3. 有色人種の移民たちは、彼らの経験のなさと彼らの先鋭的なニーズによって、不適切な住宅を高値で買わされ、高利の抵当付き住宅ローンに契約させられている。こうした問題において、彼らは、十分に信頼できる専門家からの支援とアドヴァイスを受けておらず、しばしば彼らは臆面もなく搾取されてきた。
  4. これら要因が組み合わさったことによる直接的な結果は、過密状態、複数家庭で占有するために劣悪に整備された大きな家を不満足な形で利用する状況、高い賃料を支払うこと、である。
  5. 有色人種の移民にはロンドンの各種業態で大きな需要があるけれども、同時に彼らは住宅の確保において最も大きな困難に直面している集団でもある。[57]

過密の状況は深刻で、「ベッドごとの賃貸」という状況に陥っている地区もあった[56]。また、有色人種の移民の中でも、西インド諸島からの移民は、住宅の過密度においても、水洗便所などの基本的設備の専用率においても、とりわけ劣悪な状況に置かれていた[58]。しばらくして、西インド諸島系住民のイギリス在住が長くなり、公営住宅の入居在住規定を満たすようになった頃、公営団地の中でも評判の悪い住宅から白人が引っ越すようになった。そうした住宅には白人が住みたがらなかったため、空室ができ、西インド諸島系住民はこぞってそうした公営団地に引っ越した[59][47]

政治による移民抑制[編集]

地域の問題として捉えられていた。しかし、

人種暴動により、NCWからの移民流入は政治問題として認識されるようになり、選挙の争点となった[60]

1962年、イギリスは1962年コモンウェルス移民法英語版を制定し、移民の入国を制限した[22]。この法は、コモンウェルスからの移民流入を管理する権限をイギリス政府に付与するものであり、イギリスに定住を望む連邦臣民は労働省が発行する雇用証明書を取得することを要求された。なお、証明書の発行数は政府が決定し、およそ週に400枚ほどだった[34]。ただし、家族に合流する妻と16歳以下の子供は入国を許可された[34]

さらに、1965年の白書「英連邦からの移住」は、移民をさらに抑制しようとするものだった。この白書にある、特定の仕事を持たない人々への雇用証明書の発行停止、被扶養家族に対する適格性審査の厳格化といった記述は、1966年8月の「出入国管理官への通達」によって具体化された[61]。これにより、雇用証明書を所有する西インド諸島系住民は激減し[61]、以降の西インド諸島からの入国はすでにイギリスに定住している家族に合流するために入国を試みる被扶養家族がメインとなったが、1969年5月には被扶養家族にも入国証明書が要求されるようになった[61]

そして1972年までに、就労ビザを持っている者か、親か祖父母がイギリスで出生した者以外は入国できないようになった。5年以上イギリスに継続して定住していたコモンウェルス市民英語版に対しては在留が認められた[60]一方、これにより、カリブ系の移民の新規流入は大幅に抑制されることになった[62]


また、1952年にアメリカがマッカラン・ウォルター法を制定し、カリブ地域からの移民を年間100人までに制限したため、1952年から1956年にかけて、イギリスへの移民が急増した[60]

移民の締め出しと国内統合の同一視 miyaiuchi

en:Commonwealth_of_Nations#New_Commonwealth

20世紀末までにカリブ海からの移民は50万人を超えた。これは、カリブ海ではジャマイカとトリニダードに次ぐ人口規模であり、ガイアナ出身の作家デイヴィッド・ダビディーン英語版はこの事態を評して「今日のイギリスは3番目に大きな西インド諸島の島だ」と皮肉げに綴っている[63]

ノッティンガム人種暴動[編集]

利用者:Sadmadjane/sandbox nottingham

ノッティング・ヒル人種暴動[編集]

ジャマイカ系の夫を持つ白人女性のマイブリット・モリソン英語版が、「黒人のカキタレ(Black man's trollop)」などの罵倒を浴びせられながら白人の集団に暴行された事件を皮切りに、白人の暴徒がノッティングヒルの西インド諸島系住民を襲撃、一部の黒人もこれに応戦した。これがいわゆるノッティングヒル人種暴動である。

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ブリストル・バス・ボイコット[編集]

利用者:Sadmadjane/sandbox boycott

敵対的環境政策[編集]

現在[編集]

ウィンドラッシュ・デイ[編集]

利用者:Sadmadjane/sandbox day

ウィンドラッシュ・スキャンダル[編集]

また、このような国外退去の強制は、とりわけLGBTQ+の人々にとって致命的であることも指摘されている[64]。すなわち、西インド諸島には反LGBTQ法が存在しており、身に危険が及ぶ恐れがある。とりわけジャマイカは「地球上で最もホモフォビックな地」とされ、イギリス植民地期に制定制定された法に由来する「著しく猥褻な行為英語版法」は同性愛行為を禁止し、長期にわたる実刑を課している[64]

こうした対応にはクィアへの差別が内在していると指摘する者もある。すなわち、同性愛者はパートナーと未婚状態である公算が高く、パートナーの入国に支障をきたすのである[64]

代表的人物[編集]


文化・文学[編集]

ウィンドラッシュ世代の到来は、イギリス文化に様々な面で大きな影響をもたらした。

言語[編集]

1980年代に発生し現在に至るまで使用されている[65]多文化的ロンドン英語英語版 (Multicultural London English, MLE)と呼ばれる英語の社会方言の成立には、ウィンドラッシュ世代の到来が影響している。ジャフェイカン (Jafaican)とも呼ばれる[65][66]この方言は、イーストエンド方言とジャマイカ・クレオール語パトワ)の接触により生じており[66][65]、西インド諸島の言葉やコックニーヒップホップ[67]、そのほかパンジャーブ語ベンガル語など、ロンドンへの移民によって持ち込まれた多くの言語[65]が混ざり合って形成されている。現在、MLEはコックニーを凌いで、イーストエンドの若い世代の主流の方言となっている[66][67]

MLEは、グライムUKドリル英語版といった音楽の人気に伴い、その断片が国際的に伝播しつつある[68]

食文化[編集]

音楽[編集]

当時のイギリスには、黒人が利用できるクラブはほとんどなかった。そのため、自宅の地下室や廃墟でシビーンが開かれ、ブルース・ダンス英語版が踊られた[24]

スカカリプソといった音楽は、1950年代後半ごろまで、地域住民からは騒音と捉えられ、問題を引き起こした[69]

デスモンド・デッカー1968年の楽曲「Israelites」が、レゲエとしては初めてイギリスのシングルチャートで9位を獲得した[24]

他にもcomplexには重要なこと色々書いてるけど今はだるいのでいいや

グライムMCのWiley英語版は、2020年のウィンドラッシュ・デイに、アルバム「Boasty Gang」を発表した。Wileyによれば、このアルバムは「ウィンドラッシュ・ミュージック」なのだという[70]

文学[編集]

サム・セルヴォン英語版

論文資料[編集]

  • Wardle, Huon, and Laura Obermuller. "The Windrush Generation." Anthropology Today, vol. 34, no. 4, 2018, pp. 3-4.
  • Wardle, Huon, and Laura Obermuller. "“Windrush Generation” and “Hostile Environment”." Migration and Society : Advances in Research, vol. 2, no. 1, 2019, pp. 81-89.
  • Fabrizio, Alex. "V. S. Naipaul and George Lamming at the BBC: Reconsidering the Windrush Generation's Political Art." Ariel, vol. 52, no. 1, 2021, pp. 153-179.
  • Taylor, Charlotte. "Representing the Windrush Generation: Metaphor in Discourses then and Now." Critical Discourse Studies, vol. 17, no. 1, 2020, pp. 1-21. ウィンドラッシュ世代の名前が最近出てきたことも載ってる
  • Peplow, Simon. "'in 1997 Nobody had Heard of Windrush': The Rise of the 'Windrush Narrative' in British Newspapers." Immigrants & Minorities, vol. 37, no. 3, 2019, pp. 211-237. ウィンドラッシュの言説色々載ってる 期限とかオリンピックとか
  • Tomlin, Carol. "Sermon Texts in Contexts: Why and how the Preaching of the Second-Generation African Caribbean Pentecostals Diverged from their Windrush Forebears." Liturgy (Washington), vol. 36, no. 2, 2021, pp. 36-44. ウィンドラッシュと宗教(ペンテコステ派)
  • Reddie, Anthony G. "Racial Justice for the Windrush Generation in Great Britain." The Ecumenical Review, vol. 72, no. 1, 2020, pp. 73-86. ウィンドラッシュと宗教とか黒人進学とか攻撃とか


The Middle Passage as Existential Crucifixion

ウィンドラッシュ・スキャンダル英語版

  • 参考:ウィンドラッシュ世代(英語版)へのリンク元[2]

Wikipedia:翻訳のガイドライン

ウィンドラッシュ・デイ英語版



ガーディアンのウィンドラッシュ CNNのウィンドラッシュ

注釈[編集]

  1. ^ 492人とする記述もある[23][24] ほか、「492人のジャマイカ人」とするものもある[25]
  2. ^ イギリス連邦臣民やイギリス植民地臣民も、1948年イギリス国籍法の規定に従って理論上は公営住宅入居の有資格者であるとされているため、西インド諸島系住民には国籍規定は適用されない[54]
  3. ^ 西インド諸島の社会では未婚の母は社会的に認められており、男性パートナーの援助なしに子育てを行う例が多く、イギリスに移民する未婚の母も多かった[54]

出典[編集]

  1. ^ a b c “Windrush generation: Who are they and why are they facing problems?”. BBC news. (2021年11月24日). https://www.bbc.com/news/uk-43782241 2022年1月12日閲覧。 
  2. ^ コリン・ジョイス (2019年11月22日). “イギリスに汚点を残した「ウィンドラッシュ」問題”. ニューズウィーク日本版. https://www.newsweekjapan.jp/joyce/2019/11/post-175.php 2022年1月12日閲覧。 
  3. ^ “英内相、カリブ海移民「ウィンドラッシュ世代」に謝罪 英国育ちでも強制退去の危険”. BBC news japan. (2018年4月17日). https://www.bbc.com/japanese/43792424 2022年1月12日閲覧。 
  4. ^ 富岡次郎 1988, p. 53.
  5. ^ 富岡次郎 1988, pp. 54–55.
  6. ^ a b c d Steven Johns (2013年8月7日). “The British West Indies Regiment mutiny, 1918”. libcom.org. 2022年2月11日閲覧。
  7. ^ a b c d The Story Of The British West Indies Regiment In The First World War”. iwm.org.uk. Imperial War Museum. 2022年2月11日閲覧。
  8. ^ 富岡次郎 1988, pp. 21–22.
  9. ^ a b 富岡次郎 1988, p. 222.
  10. ^ a b c d e f 富岡次郎 1988, pp. 266–270.
  11. ^ 富岡次郎 1988, p. 22.
  12. ^ a b 志柿光浩 2005, p. 232.
  13. ^ a b c 志柿光浩 2005, p. 233.
  14. ^ 志柿光浩 2005, p. 234.
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  16. ^ 志柿光浩 2005, p. 236.
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  26. ^ Lucy Rodgers & Maryam Ahmed (2019年6月21日). “Windrush: Who exactly was on board?”. BBC news. https://www.bbc.com/news/uk-43808007 2022年1月13日閲覧。 
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  68. ^ “Grime and UK drill are exporting multicultural London English”. The Economist. (2021年1月30日). https://www.economist.com/britain/2021/01/30/grime-and-uk-drill-are-exporting-multicultural-london-english 2022年2月8日閲覧。 
  69. ^ 巻口勇次 2007.
  70. ^ “Wiley Surprise-Drops Another New Album 'Boasty Gang'”. hypebeast. (2020年1月22日). https://hypebeast.com/2020/6/wiley-boasty-gang-surprise-album-release 2022年1月28日閲覧。 

参考文献[編集]

外部リンク[編集]