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本項では、エジプトの歴史(エジプトのれきし、History of Egypt、تاريخ مصر)を解説する。エジプトという歴史地理的空間を定義するのはほとんど降水がない砂漠地帯を貫流するナイル川である。元々は草原が広がっていたナイル川周辺の地域が気候変動によって乾燥するに従い、人々はナイル川流域に集まっていった。歴史時代のエジプトの人口はその大半がナイル川両岸の極狭い範囲に集中しており[1]、周囲のオアシスに僅かな人口があった[2]。ナイル川流域は川が分岐して扇状に広がるナイルデルタ地帯である北部の下エジプトと、川の両岸数キロ程度の範囲の可住地が線状に続く上エジプトに分けられる[3]。上エジプト南端部のエレファンティネ島(アスワーン)南にあるナイル川の第1急湍より上流ではナイル川流域の地質が急激に変わり、エジプトとは異なるヌビアと呼ばれる地方を形成していた。しかしヌビアもまたエジプトの住民の歴史的な活動の舞台でもある。
地誌
[編集]エジプトはアフリカ大陸の北東端にある。土地のほとんどは広大なサハラ砂漠の一部を成す砂漠地帯であり、その中をナイル川が南から北へ向かって流れている。ナイル川は赤道に近いヴィクトリア湖の周辺から生じる白ナイル川とエチオピア高原に水源を持つ青ナイル川が、スーダンのハルトゥームで合流することによって形成され[6]、世界最長の川として知られる。ハルトゥームからエレファンティネ島(アスワーン)に至る地域で、岩盤層の変化によって谷幅の狭い6つの急湍(急流)が形成されており、エレファンティネ以北では谷幅が平均20キロメートルまで広がり、砂漠地帯と崖で区切られるようになる[7]。このような地勢はエレファンティネからカイロ周辺まで続き、カイロより北ではナイル川が分流して扇状に広がるデルタ地帯が広がっている[3]。古来より、急流によって水運が妨げられるエレファンティネ島南の第1急湍の存在によって、ここがエジプトの南の境とされており[7]、ここより南はヌビアと呼ばれていた。さらにカイロ以南の河谷地帯が上エジプト、カイロ以北のナイル・デルタ地帯が下エジプトと呼ばれ[7]、その自然環境の相違によって異なる生活文化が育まれた。
かつてのナイル川は夏に雨季を迎えるエチオピア高原の雨水で増水した青ナイル川や支流のアトパラ川の影響を受けて、毎年6月の夏至の頃から緩やかに増水し、9月から10月にかけて最高水位を迎えた[8]。渇水時と氾濫時の水位差は7メートルを超え、氾濫の後には上流から運ばれてくる養分に富んだ土が地表を覆った[8][9]。このナイル川の運ぶ「黒い土」の土地と、砂漠地帯の「赤い土」の土地の対比は極めて明快であり、古代エジプト時代にはエジプト人たちは自らの国を「ケメト(黒い土地)」と呼び、周辺の砂漠地帯を「デシェレト(赤い土地)」と呼んだ[8]。このナイル川の特性は冬作物であるムギ類の生態に非常に良く適合しており、毎年の洪水の後に播種を行い、収穫が終わった後に畑を放置しておけば再びナイル川の氾濫によって地力が回復した[10]。このことはエジプトの農業の基本的な姿を規定した。ナイル川の氾濫は非常に規則的ではあったが、毎年の水位は異なっていた。水に覆われる面積の大小がそのまま農地面積の大小に繋がり、またナイル川の増水サイクルが生活のサイクルを決定していたため、ナイル川の水位の管理や増水時期の把握は古代エジプト時代から20世紀に至るまで、政府機構の最も重要な関心事であった[11]。古代エジプトのナイル川沿いの神殿にはナイロメーターと呼ばれるナイル川の水位を計測する階段状の計測施設が設けられ、これはローマ時代やイスラーム以降を通じて使用された[12][注釈 2]。また、増水時期を把握するための努力から一年を365日とする太陽暦が考案され、これは後にローマの執政官ユリウス・カエサルが導入するユリウス暦の原型となった[13]。エジプトの農業は無論、ただ自然に任せるものではなく、ナイル川の水を有効に利用するために、ベイスン灌漑(貯留式灌漑)と呼ばれる農法が発達した[14][10]。これは増水期に水路によって畑に水を導入し、水門を閉じて2か月弱放置した後、減水したナイル川に一気に排水することで肥えた土を畑に蓄えると共に塩分を除去して塩害を防止するものであった[10]。
このような農業は19世紀まで大きく変化することなく継続したが、技術の発達とともにナイル川の人間による管理が目指された。19世紀以降、西欧の技術導入によって、ナイル川流域の運河網の整備やダムの建設が進められた。運河は渇水時のナイル川から水を導入して夏作物(綿・サトウキビなど)の生産を行うためのもので、夏運河と呼ばれた[15][16]。また、ダムとそれに付随する水門の建設によってナイル川の水位を人工的に制御することが目指され、19世紀半ばにはデルタ・バラージュが、1902年にはアスワーン・ダムが建設された[17]。これらを通じてエジプトでは一年を通じて収穫が得られるようになっていった。そして1960年代にアスワーン・ハイ・ダムが建設されたことによって、ナイル川の水位は完全に人間の制御下に置かれることになった[18]。今日ではかつてのようにナイル川が氾濫することはもはや無い[18]。これは農業生産を飛躍的に増大させたが、旧来ナイル川によって解決されていた地力の低下や塩害の発生といった問題が生じ、肥料の大量投下が必要になるなどの問題ももたらしている[19]。
概略
[編集]先史・古代エジプト文明
[編集]ナイル川流域では前50000年から前30000年頃には、現生人類がナイル河畔や周辺の湖沼沿いで原始的な狩猟採集生活を送っていたと考えられている[20][21](石器時代[注釈 3])。前12000年頃からアフリカ北東部では第4湿潤期が始まり、水量の増したナイル川の水産資源に支えられて定住的生活が始まった[23]。前5000年頃までには農耕・牧畜が始まり[24][注釈 4]、前5千年紀から前4千年紀には古代エジプト文明の萌芽となる様々な文化が誕生していた。特に上エジプトから登場したナカダ文化がエジプト古代王朝の土台となる[33][34][35]。前4千年紀末には全エジプト(上下エジプト)を統一する王朝(エジプト第1王朝)が成立し、以降前30年のローマ帝国による征服まで、およそ30に分類される古代エジプト王朝が神格化された王を中心として国家を営んだ。古代エジプトの王は一般的にファラオと呼ばれる。古代エジプト王朝は大きく古王国(前27世紀―前22世紀)、中王国(前21世紀-前18世紀)、新王国(前16世紀-前11世紀)に分類される[注釈 5]。エジプト文明の象徴的建造物であるギザの大ピラミッドがクフ王によって建造されたのは古王国の時代であり[43]、黄金のマスクで知られるツタンカーメン(トゥトゥアンクアメン)王墓は新王国時代の遺構である[44]。
新王国が崩壊した後、エジプトではリビュア人[45][46][47][48]やヌビア人[49]など周辺諸国からの流入者による王朝が複数建てられた[45][46][47][48]。エジプトは前732年にはヌビア人らに征服され[49]、さらにメソポタミアで勢力を拡張するアッシリアが前671年から前667年にかけてヌビア人を放逐してエジプトはアッシリアの支配下に入った[50]。アッシリアの滅亡後エジプトは自立し、前6世紀前半にはリュディア、新バビロニア、メディアなどと並ぶオリエントの強国として君臨したが、これらの国々は新たに登場したハカーマニシュ朝(アケメネス朝)によって次々と征服され、エジプトも前525年にはハカーマニシュ朝の王カンブージャ2世(カンビュセス2世)によって征服された[51][52][53][54]。
グレコ・ローマン期
[編集]前4世紀半ば、ギリシア世界で急速に力をつけたマケドニア王国の王アレクサンドロス3世(大王、在位:前336年-前323年)がハカーマニシュ朝に対する遠征を開始し[55]、前332年にエジプトを無血占領して[56][57]ナイルデルタ西端の地点に新都市アレクサンドリアの建設を命じた[58]。アレクサンドロス3世はハカーマニシュ朝を完全にした後、間もなくバビロンで歿した(前323年)[59]。以降、ギリシア人・マケドニア人たちは東地中海世界で大きな存在感を発揮し、各地にマケドニア系の王朝が建設された。この時代をヘレニズム時代と呼ぶ。
前305年、アレクサンドロス3世の帝国を分割した後継者(ディアドコイ)の一人、プトレマイオス1世がプトレマイオス朝を建て、その首都となったアレクサンドリアは東地中海における学問の中心として栄えた[60]。プトレマイオス朝は他のヘレニズム諸国(セレウコス朝、アンティゴノス朝等)と覇を争ったが、前2世紀末までには地中海で大きな勢力を持ち始めていたローマの強い影響を受けるようになった[61]。やがて、プトレマイオス朝の王たちはローマの政争に関与するとともに、その地位をローマからの支持に依存するようになり、実質的にその従属国となっていった[62][63][61]。
プトレマイオス朝の実質的な最後の王となったクレオパトラ7世(在位:前51年-前30年)は、ローマの有力者ユリウス・カエサルに接近し、彼が暗殺された後にはマルクス・アントニウスと結んで執政官(コンスル)オクタウィアヌス(アウグストゥス)と争ったが、前31年のアクティウムの海戦で敗れ[64][65][66]、翌前30年には自殺に追い込まれた[67][68][66]。これによってエジプトはローマ帝国に組み込まれた。以降1000年近くにわたり、エジプトはより大きな帝国の一部としてその歴史を歩んだ。
ローマ領となったエジプトは皇帝属州アエギュプトゥスとして、穀物を中心とした富を供給し[69][70]、ローマ人のパンとサーカスを支えた。エジプトの交易活動も多いに活発化し、アレクサンドリアはローマ帝国の南方貿易の中心となった[71]。
ローマ時代のエジプトにおける重要な出来事の1つがキリスト教の普及である。1世紀にパレスチナで誕生したキリスト教はエジプトにも伝播し、2世紀末までには根を下ろした[72][73][74]。伝説では使徒ペトロの伝道に同行した福音書記者マルコに起源を持ち、マルコが初代アレクサンドリア主教となったという[72]。エジプトのキリスト教は現在でもコプト正教会と呼ばれ存続している。エジプトのキリスト教会は初期の教義論争や教会間の権力闘争において中心的な役割を果たした[75][76]。
その後、ローマ帝国は恒常的に複数の皇帝に分割されるようになり[77]、395年の最後のローマ帝国の分割の後[78]、エジプトは東ローマ帝国の管轄下に入った。現在では東ローマ帝国は一般にビザンツ帝国と呼ばれる。この間、エジプトではキリスト教が浸透し、社会の中核を占めるようになっていた。非キリスト教的な信仰への迫害も徐々に強まり、550年にはエジプト最後の「多神教」の拠点であったフィラエ島のイシス神殿が閉鎖され[79]、古代エジプト文明時代の古い神々は忘れ去られた。
イスラーム帝国
[編集]エジプトは618年にホスロー2世治世下のサーサーン朝によって征服された[80][81]。ビザンツ帝国はその後エジプトの奪回に成功したが、間もなく新興宗教イスラームを奉じるアラブ人の共同体(ウンマ)によって646年までにエジプトが完全に征服され、以後完全にビザンツ帝国から離れてイスラーム圏に入った[82][83][84][83]。正統カリフ(ハリーファ)時代、ウマイヤ朝、アッバース朝といった歴代のムスリム共同体によって重要な属州としてエジプトの支配は受け継がれた[85]。
エジプトの征服時、エジプトの住民(そのほとんどがキリスト教徒であった。以下、コプト人)らに対し、寛大な条件での徴税が約束され、彼らはズィンミー(庇護民)としてその庇護下に置かれることとなった。しかし、中央政府を支配するカリフの関心が主にエジプトの歳入にあったため時代とともに徴税強化・増税が押し進められていった[86][85]。行政言語がアラビア語に改められ、また徴税官吏がムスリムのみに認められるようになるなど、ムスリムの社会的優位は明らかであり[87]、ウマイヤ朝末期にはコプト社会に対するムスリム側の統制は本格化していった[88]。そして、相当数のアラブ人がエジプトに移住し定着したが、原住地との部族的紐帯を維持していたこれらのアラブ人たちの存在は中央政府の政争とエジプトを結び付けた[85]。このような状況を背景に、ウマイヤ朝末期からアッバース朝期にかけて、主に徴税に不満を持つ現地のエジプト人(コプト人)やアラブ人部族が反体制派として頻繁に蜂起した[85][89]。
カリフ、ハールーン・アッ=ラシード(在位:786年-809年)の治世後に発生した内乱の頃から、イスラーム圏ではアッバース朝のの中央政府の求心力が低下すると共に、マムルーク(白人奴隷兵士[注釈 6])またはグラームなどと呼ばれる奴隷兵士が台頭していった[注釈 7]。
イスラームの多極化とエジプト
[編集]このような潮流の中、エジプトでも868年にマムルークの子弟であったアフマド・ブン・トゥールーン(イブン・トゥールーン)によってトゥールーン朝が成立し、久方ぶりにエジプトに拠点を置く独立勢力が誕生した[90][91]。トゥールーン朝の成立はエジプトに大きな経済的繁栄をもたらすことになる。長期にわたり、徴税のみを主たる興味の対象とする短任期の総督たち(カリフ時代のエジプト総督の平均在職期間は2年強に過ぎない[92])によって厳しい徴税に晒され、生産物を「中央」に奪われていたエジプトは、イブン・トゥールーンによる自立と、彼のシリア・パレスチナへの勢力拡大によって逆に小帝国の中央となった[93]>。
その後エジプトの支配権はイスマーイール派の指導者ウバイドゥッラー(アブドゥッラー)がチュニジアに建てたファーティマ朝の手に渡ったが、ファーティマ朝は現在のカイロ(アル=カーヒラ)に拠点を遷し事実上エジプトの王朝としての歴史を歩んだ[94][95][96]。ファーティマ朝はさらに東西へと勢力を広げ、第5代カリフのアブー=マンスール・ニザール・アル=アズィーズの時代には金曜礼拝のフトゥバ(説教)において彼の名前を唱える地域は大西洋岸からモロッコとシリア、ヒジャーズ(アラビア半島西南部)、さらに一度だけとはいえ北部イラクのモースルにまで広がり、名目上はこの全域にファーティマ朝の支配が及んだ[97][98]。エジプトの征服に際してはシーア派の礼拝形式の導入を行うなどはしたものの、寛容な方針であたり、スンナ派住民の強制的な改宗などは行われなかった[99]。カリフ・ハーキム(在位:996年-1021年)の時代に行われた過酷な弾圧こそ有名であるものの[100][101]、キリスト教徒やユダヤ教徒はイスラーム期に入って以来かつてなかった程の寛容さを享受し、ファーティマ朝時代は非ムスリムの黄金時代であったともされる[100][102][103]
12世紀に入ると、エジプトは西欧諸国による十字軍の攻撃目標の1つとなった。1167年に十字軍国家の1つエルサレム王国が弱体化したファーティマ朝に襲い掛かり[104]、ファーティマ朝は北部イラクとシリアで十字軍と戦っていたザンギー朝に救援を求めた[104]。ザンギー朝からエジプトに派遣されたアイユーブ家のシールクーフと甥のサラーフッディーン(サラディン)がエジプトの実権を握り、間もなくサラーフッディーンが新たにアイユーブ朝(1171年-1250年)を建設した。シリアをも支配下に置いたサラーフッディーンはアッバース朝のカリフから「シリア・イエメン・エジプトのスルターン」であることを承認された[105][106]。
マムルーク朝
[編集]アイユーブ朝では13世紀半ばに十字軍との戦いで活躍したバイバルスらマムルークが政権を握り、アイユーブ朝のスルターンサーリフの妻であったシャジャル・アッ=ドゥッルを擁立してマムルーク朝を成立させた[107][108]。しかし、女性スルターンには広範な反発が巻き起こったためシャジャル・ア=ドゥッルはバフリー・マムルーク軍団[注釈 8]の総司令官(アター・ベグ)イッズッディーン・アイバクと結婚して彼に譲位した[111]。初期のマムルーク朝はこの軍団の名前からバフリー・マムルーク朝とも呼ばれる。
マムルーク朝はフレグ率いるモンゴル軍がシリアに侵入した際、1260年9月にアイン・ジャールートの戦いで勝利を納め、イスラームの防衛者であることを内外に強く印象付けることに成功した[112][113]。また、ファーティマ朝期から継続していたバグダードからの知識人や商人の流入により、マムルーク朝時代にはエジプトがアラブ世界の政治・文化をリードする中心地としての地位を確立していくこととなる。モンゴルに追われたアッバース朝のカリフもマムルーク朝に逃げ込みその庇護を受けた。これはイスラーム世界におけるバグダードからの重心の移動を象徴する出来事であった[114]。
マムルーク朝は血統原理による世襲ではなく、スルターン所有のマムルーク軍人の中から次代のスルターンを選抜するという特異な王位継承制度を発展させていった[115]。たとえスルターンの子供であってもマムルークとして購入され軍人養成所を出たという経歴を持たないものはマムルーク軍団に入ることができず、スルターン位を継承することもできなかった[115]。このためスルターンの子弟は自由身分出身者やマムルーク子弟からなる格下のハルカ騎士団に所属するか、軍人以外の道を選ばなければならなかった[115]。
14世紀半ばに入ると黒死病(ペスト)の記録的な流行がエジプトを襲い[116][117]、1347年の最初の流行以降、マムルーク朝の滅亡に至るまで、平均して8-9年に1度の割合でペストの流行が断続的に続き、総人口の4分の1から3分の1が失われたとされる[116][118]。激しい人口減は兵力の減衰、税収の低下という形でマムルーク朝の支配体制を揺さぶり、政情が不安定化した[119]。
やがて、争いの中でブルジー・マムルーク軍団が優勢となり、その長バルクーク(在位:1382年-1389年、1390年-1399年)がスルターンに推戴された[119]。これによりカラーウーンの子孫たちによるスルターン位の継承も終わり、以降の時代はブルジー・マムルーク朝と呼ばれる[119]。また、このブルジー・マムルーク軍団の主要構成員がチェルケス人奴隷であったことから、チェルケス朝とも呼ばれる[119]。エジプトの政治・社会的な変動に対応するべく、支配機構が変化し、また交易品(香辛料、砂糖、織物等)の専売制などが敷かれたが[120][121]、やがてアナトリアから新たに有力勢力として台頭したオスマン帝国がシリア、さらにエジプトに勢力を拡大し、1517年にはマムルーク朝はオスマン帝国に滅ぼされた[122]。
オスマン帝国の支配
[編集]オスマン帝国の首都イスタンブルから派遣される総督がエジプトを支配したが、マムルークや有力軍人など在地の権力は強力であり、またエジプト自体も本国に対して高い政治的自立性を維持している期間が長かった。初期にはマムルーク等の反乱が相次いだが[123]、スレイマン1世(壮麗王)によって派遣された大宰相パルガル・イブラヒム・パシャが1525年に規定したカーヌーン・ナーメ(Qānūn Nāmeh、地方行政法令集)により、諮問会議(ディーワーン)およびオスマン帝国軍と現地軍から支援を受けたパシャの称号を持つ総督(ワーリー)によってエジプトが統治されることが定められ、安定した[124][125][126][127]。
オスマン帝国によるエジプトの征服は、現地におけるマムルークたちの権力を失わせることはなかった。エジプトの行政機構はイスタンブル(コンスタンティノープル)から派遣された官吏によって率いられていたが、官・軍いずれにおいてもマムルークたちから供給された人員が入り込んだ[124]。ブルジー・マムルーク朝をリードしたチェルケス人のマムルークは、引き続きオスマン帝国が編成する現地エジプト軍の主要構成員の1つであり、軍人として高い地位を確保していた[124]。
16世紀末になるとオスマン帝国の財政難やインフレーションの影響を受けて駐留軍への俸給に問題が生じ、不満を強めた兵士たちによる示威行動や騒乱が頻発するようになった[126]。1604年にはエジプト総督が蜂起した兵士たちによって殺害される事態となり[126][128]、1607年6月に新総督となったクルクラン・メフメト・パシャは状況を調査した上で、総督殺害に関与した者たちをカイロから追放し、その報酬を没収した[128]。1609年1月さらなる反乱が発生し、反逆者たちは自分たちの中からスルターンの選出を行うことまでした[129]。メフメト・パシャは同年中にこの反乱軍を撃破し首謀者たちを処刑、または追放した[129][126]。この出来事は17世紀の年代記作家イブン・アビー・スルールによって「オスマン帝国による第2のエジプト征服」と呼ばれている[130]。
オスマン帝国の支配は再建されたが、17世紀に入ると、ベイと呼ばれる有力軍人たちがエジプト政治における発言権を増大させていった[126]。ベイの地位に就く軍人にはアナトリアやバルカン半島出身の自由身分の軍人や、チェルケス系マムルークらがおり、彼らはマムルーク軍人を中心としたフィカーリーヤと非マムルーク系軍人を中核としたカースィミーヤという2大派閥を形成していった[131]。この両派閥の対立は17世紀のエジプト政界の中核をなした。この派閥抗争への関与の中で、18世紀にはエジプトに駐留するオスマン帝国の歩兵軍であるイェニチェリ内の党派である党派カーズダグリーヤがエジプト政界における主導権を握った[132]。イェニチェリ軍団内の派閥から発達したカーズダグリーヤはアナトリア系の自由身分兵士を中核としていたが、政権獲得以降にはその人員構成はチェルケス系マムルークを中心とするものに置き換わっていき、このチェルケス系のマムルーク・ベイたちがエジプトの支配者となった[132]。
オスマン帝国が斜陽に入り、一方で西欧諸国が勢力を強めると、オスマン帝国のエジプト支配にも動揺が走った。18世紀後半、グルジア系のアリー・ベイ・アル=カービル(以下、アリー・ベイ)がエジプトの支配権を握り、露土戦争(1768年-1774年)に苦しむオスマン帝国の弱みを突いてエジプトの独立を図った[133][134]。この企ては失敗したが、1798年にはフランスで権力を握ったナポレオン・ボナパルトがエジプトに侵入した[135]。フランスによるエジプト支配は成らなかったが、フランス軍撤退後の政治的混乱の中でオスマン帝国の軍人であったムハンマド・アリーが1805年にエジプトの支配権を掌握し、事実上の独立勢力を作り上げた[136]。
近代エジプトとイギリス
[編集]ムハンマド・アリーはオスマン帝国との数度の戦争によってその領土を蚕食し新たな帝国の形成を目指したが、これを国益上の障害と見たイギリスの軍事介入によって1840年にエジプト以外の全征服地を喪失し、代わりにエジプト総督位の世襲権を得た(ムハンマド・アリー朝)。多くの非西欧諸国で試みられたように、ムハンマド・アリー朝下でエジプトの近代化・西欧化が目指され、内政の改革やスエズ運河の建設などの開発政策が実施されたが、スエズ運河建設に伴う対外債務の負荷や、アフマド・オラービーによる「外来の王朝」に対する革命などの対応に追われる中で、名目的にはオスマン帝国の宗主権の下にありながら実質的にイギリスの植民地と化していった。1914年に第一次世界大戦が勃発するとエジプトは公式にイギリスの保護領とされ、オスマン帝国の宗主権から脱した。
イギリスはエジプトを完全に支配下に置いたものとみなしたが、第一次世界大戦後には激しい民族運動が沸き起こり、エジプト独立の父とも言われるサアド・ザグルールらが独立運動を主導した。結局イギリスはムハンマド・アリー朝の継続のもと、1922年にエジプト王国の独立を承認したが、エジプトへの駐兵を継続し、政治上の様々な留保をつけるなど、エジプトの独立は制限付きのものとなった。エジプトは辛抱強く主権の回復に向けて努力を続け、1936年にはスエズ運河地帯以外からのイギリス軍の撤兵にこぎつけ、1937年に国際連盟に加盟した。また、同年には猶予期間を置いての治外法権の撤廃も勝ち取った。
冷戦期のエジプト
[編集]第二次世界大戦を契機にパレスチナにユダヤ人国家イスラエルが成立すると、エジプトはこれを認めず周辺のアラブ諸国と共に第一次中東戦争でパレスチナに侵攻したが敗れた。敗戦によってムハンマド・アリー朝は権威を失い、1952年には軍のクーデター(エジプト革命)によって王が追放され、翌年に公式に王制の終了が宣言された。共和制への移行後、ナーセル(ナセル)が大統領として主導権を握り、1956年には武力危機の末にスエズ運河の国有化(スエズ動乱)を実現した。アラブ民族主義の台頭の下、ナーセルが中核となって1958年にシリア、イエメンと合邦してアラブ連合共和国が成立した。しかしこの連合は上手く行かず、3年で解体した。1967年には第三次中東戦争でのイスラエルに対する敗北によってナーセルの権威は失墜し、1970年にはナーセルが死去した。
ナーセルの跡を継いだサーダート(サダト)は1979年にイスラエルとの和平(キャンプ・デーヴィッド合意)を実現したが、アラブ諸国との関係悪化を招き、さらに対イスラエル強硬派によって暗殺された。次いで成立したムバーラク(ムバラク)政権はエジプトの国際関係を再編し、アラブ諸国における主導権の回復を目指した。特に1990年のイラクによるクウェート侵攻を契機に始まった湾岸戦争ではアメリカ側に立って多国籍軍に参加し、国際的地位を大きく上昇させた。また、アメリカや湾岸諸国から莫大な経済援助を引き出し、これを梃子に経済開発に力を入れ、大きな成果を上げた。
現代
[編集]しかし、2010年にチュニジアで始まった民衆運動は、ソーシャル・メディアなどを通じて瞬く間にアラブ諸国に波及し、エジプトでも大規模な反政府の抗議運動が発生した(アラブの春)。ムバーラク大統領は地位を追われ、その後ソーシャル・メディアなどを駆使して結成された複数の「青年勢力」、そしてムスリム同胞団や「イスラーム集団」、ジハード団などのイスラーム勢力が政治アクターとして存在感を増し、伝統的に大きな権力を持つ軍部なども交えて、新たな体制が模索されている。
エジプトと周辺世界の関わり
[編集]エジプトは世界でも最初期の農耕文明が栄えた地であり、パレスチナやヌビアといった周辺地域と関係を持っていたことが考古史料から知られている。ヌビアからは先王朝時代のエジプトからの搬入品が多数発見されており[137]、エジプトの土器にはパレスチナの土器を模倣したものが見られる[138]。エジプト初期王朝時代にはパレスチナ南部がエジプトから大きな影響を受けていたことがやはり考古史料からわかる[138]。
古代エジプトの歴代王朝は象牙や香油、動物の毛皮、カーネリアン等を求めて古くから遠方の国との交易を志向していた。古王国時代(前3千年紀後半)の第5王朝には紅海航路を通じて遥か南方のプント(恐らくは現在のソマリア地方)との交易が行われており、中断を挟みつつ、エジプトの国力が増した新王国時代(前2千年紀後半)の女王ハトシェプストの時代にもプントへの交易隊が派遣されたことが記録に残されている[139]。また新王国時代には他のオリエントの国々とも緊密な外交関係が築かれていたことが、第18王朝の王アクエンアテンが築いた新首都アマルナで発見された外交文書(アマルナ文書)から知られている[140]。この時代、エジプトでは国情の安定と新たな金鉱の開発とによって金の生産量を急増させており、ある年の生産量は280キロに達した[141]。オリエント諸国はこぞってエジプトに金の提供を求め、その見返りとして様々な物品が取引され、また外交・交渉が行われた[142]。
エジプトは紅海を通じて地中海圏の商業網とインド洋の商業網を結ぶ結節点に位置しており、前1千年紀には北部インドとの交易が盛んに行われるようになっていた[143]。前30年にプトレマイオス朝がローマに征服されると、エジプトのアレクサンドリアはローマ帝国の南方貿易の中心となった[71]。この時代になると紅海・インド洋を通じた遠方との交易についてより具体的な情報が得られるようになる[143]。当時のエジプトでは紅海沿岸のミュオス・ホルモス港からだけでも120の船がインドへ向けて航海し、また東アフリカ地方まで進出して多くの交易品を持ち帰った[71]。当時のエジプト(ローマ)の対外交易に関わる史料として特に著名なものに、『エリュトラー海案内記』がある[144][145]。これはエジプト出身と言われるギリシア人が当時の紅海、アラビア海の航海について記したもので[145]、ここに記された古代インドとの間のエジプト(ローマ)の交易の隆盛はインド側での考古学的証拠によっても証明されている[145]。また、エジプトにおいてもオクシリンコスで発見されたパピルス文書から発見された著者不明の喜劇作品の中にインドで使用されていた(文法的には不完全ながら)カンナダ語の台詞が登場するものが発見されており、エジプトの一部においてインドの言語が理解されていたことが示されている[146]。これらもエジプトとインドとの間の貿易活動の活発化を反映したものであろう[147]。
5世紀以降、ローマ帝国が衰退しその旺盛な需要が消失すると、このインド洋交易は大きな打撃を受けて衰退した[148]。そしてイスラーム勢力の勃興の後、この交易路にはアラブ人らムスリムの商人たちが参入し、以降16世紀まで優位を占めることになる[149]。
主に周辺諸国との交易・文化の伝播等について
宗教
[編集]古代エジプトの宗教
[編集]帝政ローマ期の宗教運動
[編集]ユダヤ教
[編集]キリスト教
[編集]1世紀にパレスチナで誕生したキリスト教はエジプトにも伝播し、2世紀末までには根を下ろした[72][73][74]。エジプトのキリスト教会の中心はアレクサンドリアに置かれ、伝説では使徒ペトロの伝道に同行した福音書記者マルコに起源を持ち、マルコが初代アレクサンドリア主教となったという[72]。エジプトでは、南部を含め広い範囲で早くから民衆の間にもキリスト教が広まり[75]、最終的にエジプトの住民が大半がキリスト教徒となった[150]。しかし、史料不足のため最初期のエジプトのキリスト教徒の状況については詳らかになっていない[75]。
プトレマイオス朝時代から東地中海における文化・学問の中心であったエジプトのアレクサンドリアの教会は、初期キリスト教の知的活動において中心的役割を果たし、アンティオキア、ローマなどと並ぶ有力教会としてキリスト教思想と布教に重要な役割を果たす教父たちを輩出した[75][76]。キリスト教内の権力闘争では多くの場面でエジプトの教会とアレクサンドリア主教が中核的プレイヤーとして活動し[151]、そこでの教説はキリスト教の発展において大きな影響を残した。
世俗を離れ禁欲と修行の生活を送るキリスト教の修道士という生き方の最初期の例は3世紀後半から4世紀にかけてエジプトで現れた[152]。エジプトのコマに生まれ、隠遁と厳しい修行に励んだとされるアントニオスは修道士の始祖とされる[153]。彼に学び、あるいは同じように修行に臨んだ人々はやがて共同生活を始めた。3世紀前半にエジプトのテーベそばで修道士たちとの共同生活を始めたパコミオスは会則や修道院長を持ち、修道士たちを組織化した修道院を作り上げた[154]。
アレクサンドリア教会の司祭アリウス(アレイオス)[155]と主教アレクサンドロスの間の神、そしてキリストの本質を巡る論争はキリスト教会全体を巻き込む激しい論争を引き起こした[155]。アリウス派と反アリウス派の分裂は深刻でありローマ帝国は325年の第1ニカイア公会議を始めとした公会議を通じて解決を図ったが、論争は半世紀以上続いた[155]。アレクサンドリア教会は反アリウス派の議論を主導するアタナシウス(アタナシオス)も輩出した[155]。
395年にローマ帝国が東西に分裂し、コンスタンティノープルが[[ビザンツ帝国(東ローマ帝国)の首都として重要性を増すと、首都の教会であるコンスタンティノープル総主教庁の権威が増大する一方で、エジプト教会とコンスタンティノープル教会の間で神学論争と対立が深刻化した[156][151]。両教会の対立は単なる神学解釈の問題にとどまらず、「ローマ帝国の首都の教会」であるコンスタンティノープル教会と、福音書記者マルコに起源をもつ伝統的教会であるアレクサンドリア教会のどちらが格上であるか、という問題と結びついていた[157]。
アレクサンドリア主教テオフィロス(在任:384年-412年)によって異端とされたエジプト人修道士たちが自分たちの正しさをコンスタンティノープルに訴え出たのを切っ掛けに、最初の本格的な対立が始まり[156]、最終的にコンスタンティノープル主教ヨハネスの罷免と追放に至った[158]。5世紀にはコンスタンティノープル主教ネストリウス(ネストリオス、在任:428年-431年)とアレクサンドリア主教キュリロス(在任:412年-444年)の間で神とキリストの「神性」と「人性」を巡って論争が行われた[158][159][注釈 9]。キュリロスはローマ教皇ケレスティヌス1世とも連携してネストリウスを罷免に追い込んだが、もう一つの有力教会であるアンティオキア教会がネストリウス派であったため、自らコンスタンティノープルに乗り込んで政治工作を続け、435年にはネストリウスの見解を支持する人々(ネストリウス派)を異端と宣言させることに成功した[161][162]。
そして単性説の登場によって3度目の対立が燃え上がった。これはキュリロスの影響を強く受けた修道院長エウテュケスが、キリストの神性と人性は受肉によって完全に合一され、ただ一つの本性たる神性のみになったとする教義を説いたもので、それを巡って再び激しい議論と闘争が行われた[163][164]。この争いは451年のカルケドン公会議において教義の複雑な合成と妥協によって収められたが[165]、一連の議論を通じてコンスタンティノープル教会の特権が確認され、アレクサンドリア教会はローマ・コンスタンティノープルに次ぐ第3の教会に落ちる結果となったため、アレクサンドリア教会にとっては実質的な敗北となった[166][167]。以降のエジプト教会はエジプト外における影響力を大きく減じていった[167]。しかしエジプト内においてはアレクサンドリア主教がなお大きな力を維持しており、アレクサンドリア主教位を巡って親ビザンツ派(カルケドン派)と反ビザンツ派(反カルケドン派)が激しい対立を続けた[167]。カルケドン派はカルケドン信条を受け入れないエジプトのキリスト教徒を異端として「単性論者」と呼ぶようになる[168][注釈 10]。結局、両派の争いは535年頃にそれぞれが別のアレクサンドリア総主教座を設置するという結末を迎え、このうち反ビザンツ派の建てた総主教座が今日も存続しているコプト正教会へと繋がっていく[167]。
コプト教
[編集]エジプトのキリスト教は現在ではコプト正教会と呼ばれる。コプト(Copt)という呼称はギリシア語「アイギュプトス(Aigyptos、エジプト人)」のアラビア語読みである「キィプト(qibt)」に由来し、コプト教会とは広義には「エジプト人教会」のことである[170]。コプト教会という言葉は広義にはカトリックやプロテスタント教会諸派を含むエジプトのキリスト教会全てを指して用いられることもあるが、厳密にはかつてのアレクサンドリア総主教座に起源を持ち6世紀前半にカルケドン派から分離したコプト正教会を指す[170]。
6世紀までの教義論争を経て、カルケドン派とは別個の「アレクサンドリア総主教」を形成したコプト教会であったが、エジプトはビザンツ帝国領であったため、この分派教会は必然的にビザンツ帝国からの政治的圧力と宗教的弾圧に晒され続けることとなった[169]。ビザンツ帝国側はこの分裂を収めるべくコプト教会の懐柔を繰り返し試み、481年のゼノン帝による勅令や553年の第2コンスタンティノポリス公会議(第5全地公会)での妥協的な信条の採用によってコプト教会の取り込みを図ったが、コプト教会側がこれらを受け入れることはなかった[171]。7世紀初頭のサーサーン朝との戦争によってエジプトの安全が脅かされると、ビザンツ皇帝ヘラクレイオスは622年により単性説との信条の折衷を推し進めた単位論(単一エネルゲイア論)を公示し、エジプトへの普及をアレクサンドリア主教キュロスに指示したがこれもコプト教会側からの強い反発を招いた。結局キュロスが厳しい弾圧によって普及を図ったため、コプト教徒の伝承においてはキュロスはキリスト教徒ではないとまでされている[172][173]。
639年から641年にかけてにアラブ人がエジプトを征服しするとコプト教会はビザンツ帝国の支配体制から離脱することとなり、以降ムスリム政権の支配下で歴史を歩むことになった。この段階でエジプトの住民はほとんど全てキリスト教徒(コプト教徒、コプト人)であったが、彼らはいわゆる契約の民(ahl al-dhimma)としてムスリムの「庇護下」に置かれ、人頭税(ジズヤ)と引き換えに自らの信仰を維持することを認められていた。こうした人々はズィンミー(庇護民)と呼ばれる[注釈 11]。
しかし、時代と共に課税が強化され[86][85]、また行政言語のアラビア語化などムスリムに対する社会的地位は低下していった[88][87]。コプト人たちの徴税に対する不満はエジプトに移住したアラブ人部族の中央へ対する不満とともに、ウマイヤ朝期からアッバース朝期にかけて反乱の温床となった[85][89]。徴税拒否を主たる理由とするコプト人たちの抵抗運動は、アッバース朝のカリフ、マアムーン(在位:813年-833年)治世下の830年頃に発生したバシュムール反乱が最大のものとなったが、カリフ・マアムーン自らが率いた軍による苛烈な破壊によって鎮圧された[175]。
10世紀に入りイスラーム教シーア派の一派であるイスマーイール派を奉ずるファーティマ朝がエジプトを支配下(969年 - 1171年)に置くと、ファーティマ朝はスンナ派やユダヤ教徒に宗教的に比較的寛容な方針を持ってあたり、コプト教会もまたその恩恵を受けた[99][100][102][103][注釈 12]。ワズィール(宰相)を始めとした政府高官職にコプト教徒が任命されることも珍しくなく[100]、スンナ派のムスリムよりもむしろユダヤ教徒やコプト教徒の方が優先して官吏として登用されることすらあった[176]。しかし一方で、ファーティマ朝のカリフと教会の距離が接近したことで却って教会へのカリフの教会への介入は強まり、聖職者の権威が低下した[176]。またムスリム人口の増大に伴い、この頃にはコプト教の典礼言語もアラビア語となり、人々が社会的地位向上の手段として積極的にアラビア語を学ぶようになり、コプト教会の伝統や権威は損なわれていった[176]。
12世紀以降、西欧諸国による十字軍との戦いや、アンダルシアでのレコンキスタの進展によってイベリア半島からムスリムが移住してきたことなどを経て、マムルーク朝(1250年 - 1517年)が成立する頃にはコプト教徒を含むズィンミー(庇護民)へのムスリムからの感情は悪化した[177]。マムルーク朝政府は基本的には異教徒からのジズヤ(人頭税)の支払いで満足していたが、世論を無視することはできず、公式に法律的・社会的差別をズィンミーに課すこととした[178]。1312年にはカイロやフスタートのコプト教会が破壊されたのを切っ掛けに各地で教会が破壊され、またカイロの居住区が焼き討ちを受けた[178]。以降、ズィンミーに対する攻撃は落ち着いていったが、マムルーク朝時代の間に、コプト教徒の間における総主教の権威・権力が著しく低下し、またムスリムへの改宗者が継続的に出続けていたこと、重税や各種の圧力、また時には襲撃といった困難にしばしば直面していたことが、14世紀頃に盛んに作成されたアラビア語による聖人伝よって理解される[179]。今日ではエジプトのコプト教徒は人口の1割程度に過ぎないが、こうした現代のコプト人が置かれている社会的状況はマムルーク朝時代に形作られた[180]。
イスラーム教
[編集]言語
[編集]- エジプト語
- ギリシア語
- コプト語
- アラビア語
社会
[編集]エジプトの歴史の中では社会を構成する様々な制度、集団、慣習が成立し、また消えていった。本節ではエジプトの社会を考える上で歴史上重要なものとして扱われる所々の用語について概観する。
マムルーク
[編集]マムルークとは奴隷を意味するアラビア語である[181]。イスラーム法では自由人(フッル / ḥurr)と奴隷(ラキーク / raqīq)は明確に異なる身分を形成しており、奴隷一般を表すラキークのうち、男奴隷はアブド(abd)、グラーム(ghulām)、そしてマムルーク(mamlūk)などと呼ばれた[182]。奴隷を軍人として組織し使役する習慣はイスラームの歴史の最初期から一般的なものであり、イスラーム圏全域で歴史上何らかの形で奴隷軍人の軍隊が運用された[183]。マムルークが運用された時代の一般的な認識として、マムルークとは「白人(テュルク人、スラヴ人、アルメニア人等)」の奴隷軍人であり、「黒人(スーダン人)」の奴隷・奴隷軍人であるスーダーン(またはアブド)とは区別された[184]。イスラーム圏の多くの地域でこうした奴隷軍人は社会・行政上重要な地位を占めるようになっており、エジプトも例外ではなかった。
イスラームの征服後初めてエジプトに独立王朝(トゥールーン朝、868年-905年)を築いたイブン・トゥールーンは24000人のマムルーク騎士と45000人の黒人奴隷兵を所持していたと伝わる[90]。彼は首都フスタートの北側にカターイー(諸地区)と呼ばれる市街地を建設し、マムルークや黒人奴隷をその軍団ごとに住まわせた。これは彼自身がマムルークの子弟であり、少年時代を軍団ごとに区分けされたイラクのサーマッラーで過ごしたことからこれを手本として都市計画を行ったものと考えられる[90]。その後エジプトを征服したファーティマ朝(909年-1171年)は当初はベルベル人を軍事力の中核としていたが、エジプトに移転した後にはトゥールーン朝時代の伝統を引いてテュルク人やダイラム人のマムルークと黒人奴隷兵を軍の中心として拡大した[185]。マムルーク軍団と黒人奴隷軍団はファーティマ朝の政局を巡って競合したが、最終的にサラーフッディーン(サラディン)によるエジプト征服によってマムルーク軍団の優勢が確定した。サラーフッディーンがアイユーブ朝(1169年-1250年)を建設する際、多数の黒人奴隷軍団がファーティマ朝の宮廷で実権を握っていた黒人宦官ムータミン・アル=ヒラーファ(Mu'tamin al-Khilafa)を中心としてサラーフッディーン政権に反対し蜂起した。この反乱は失敗し、サラーフッディーン軍による徹底的な討伐によってエジプトの政局の中心を占めた黒人奴隷軍団はその政治的な地位を喪失し、マムルーク軍団がエジプトの政権の中核を占めるようになっていった[186]。
1250年、マムルーク軍団がファーティマ朝のスルターンを殺害しシャジャル・アッドゥッルを擁立してマムルーク朝を建設した。こうして政権を握ったエジプトのマムルーク軍団の大きな特徴は「高度にシステム化された奴隷の購入/養成制度と、次代の君主を、君主の子息ではなく君主の奴隷から選抜するという、特異な王位継承制度にあった[187]」。マムルークは奴隷商人よって購入されたテュルク人・スラヴ人・モンゴル人・ルーム(ギリシア)人・チェルケス人・アルメニア人の青少年から補充され、大雑把にスルターンによって購入されたマムルークとアミール(将軍)によって購入されたマムルークに分類できる[188]。スルターン所有のマムルーク青少年は軍事学校(ティバーク)で教養教育と軍事訓練を受け、卒業後にはスルターンから卒業と奴隷身分からの解放を示す証書を受領してマムルーク軍団に編入された[189]。「解放」されたにも関わらず彼らは「スルターンのマムルーク(奴隷軍人)」と呼ばれ続け、所有者であるスルターンと強い絆を保つとともに、同期の卒業生とも強い連帯意識を保持し続けた[189]。マムルークたちは所有者を中心とした政治集団を形成し、特にスルターン所有のマムルークは大きな政治力を持っていた。スルターン位の選出も彼らの中から行われるのが慣例となった[115]。スルターンの息子であっても奴隷として購入された経歴の無いものはマムルーク軍団に入ることはできず、彼らは格下のハルカ騎士団に入るか軍人以外のキャリアを選択する必要があった[115]。マムルーク購入を担当する奴隷商人はジャッラーブ(原義は「商品の輸入者」)あるいはナッハース(原義は「家畜を追い立てる者」)と呼ばれ、その多くがハワージャー(ホジャ)の称号を与えられて政府と密接な関係を築き、諸外国の市場で取引を行った[190]。彼らとマムルークの関係は購入と売買のみに留まらず、売却したマムルークが卒業した後も、かつてのパトロンとして、またマムルークへの道筋を案内した恩人として、マムルーク個人に対して影響力を持つことがしばしばあった[191]。
1517年にオスマン帝国がエジプトを征服した後も、マムルークはエジプトにおける支配階級の一角として大きな影響力を保持し続けた[124]。オスマン帝国支配下ではベイと呼ばれる有力軍人が台頭したが、チェルケス系のマムルーク軍人はこのベイを輩出する階層の1つであり、エジプトの政局を左右する強力な派閥の1つ(フィカーリーヤ)の中枢を占めていた[131]。やがてチェルケス系マムルークを中心としたベイたちはエジプトの実質的な支配権を掌握していった[132]。
1798年から始まったフランスによるエジプト遠征と、その後に続いたイギリス・マムルーク勢力・そしてオスマン帝国が派遣したアルバニア人不正規部隊などによる騒乱を経て、アルバニア人部隊の司令官であったムハンマド・アリーがエジプトの事実上の支配者(ムハンマド・アリー朝)となると、マムルーク勢力は大きな打撃を受けた。ムハンマド・アリーは自らの支配を盤石のものとするため、1811年に息子のアフマド・トゥーソンの司令官任命式の名目でマムルークたちをカイロのシタデルに呼び集め殺戮した[192]。さらにマムルーク軍団がヨーロッパ諸国やオスマン帝国に対抗する軍事力足りえないことを認識した彼は、ファッラッヒーンと呼ばれたエジプトの農民たちに対する徴兵制を導入し[193]、ヨーロッパ式の新式軍隊「ニザーム・ジェディード(新制度)」の編成を行った[194][195]。このようなムハンマド・アリーの政策の中で、エジプトの支配階級としてのマムルークは歴史から姿を消していった。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ ナイル川が特定の祭祀場(神殿)を持たないことを言う[4]。
- ^ 最も有名なナイロメーターの1つであるエレファンティネ島のナイロメーターは古代エジプト時代に建造されたものだが、今日残されている目盛りはローマ時代のものであり、1870年代にもムハンマド・アリー朝の副王イスマーイール・パシャによって修復が行われている[12]。
- ^ 石器時代は農耕・牧畜の開始期を大まかな境目として旧石器時代と新石器時代に分類されている。高宮のまとめによれば、旧石器時代と新石器時代は初めてこの概念をヨーロッパ考古学の中で用いたジョン・ラボック(19世紀後半)による定義では打製石器と磨製石器の使用によって分類されていた。その後、石器の製造という技術的側面よりも、生産経済のあり様の方が人類史上重要な区分であるという認識から、現在では農耕・牧畜の開始をもって新石器時代の開始とみなす考え方が主流となってきている[22]。
- ^ 農耕の痕跡を持つエジプトの文化で最も早期と見られるのは上下エジプト結節点そばのファイユーム地方に登場したファイユーム文化(Faiyumian)であり、前5230年-前4230年頃にかけて存続した[25]。ファイユーム地方ではかつてファイユームA文化とファイユームB文化と呼ばれた2つの文化が見つかっていた。20世紀前半には、ファイユーム地方の中心であるカルーン湖の水位が時代とともに低下し続けていたという仮定の下、高地で検出されたファイユームA文化の方が古いと考えられていた。しかしその後、ファイユームB文化の方が終末期旧石器時代に位置付けられるより古い文化であることが判明し、さらにファイユームA文化よりも新しい新たな新石器時代の文化も発見された。このため、かつてのファイユームB文化をカルーン文化(Qrunian)、ファイユームA文化をファイユーム文化(Faiyumian)、もう1つの新しい新石器時代の文化をモエリス文化(Moerian)とする新しい区分が提案された[26]。ただし、ファイユームA文化という名称も今なお使用されている[27]。下エジプト(ナイルデルタ)においては前5000年頃[28]、または前4750年頃[29]にメリムデ文化が登場した。ファイユーム文化とメリムデ文化の終末期に平行する前5千年紀末にはオマリ文化(Omari Culture)が登場している[30]。上エジプトでは終末期旧石器時代に上エジプトで初の土器を伴う文化であるターリフ文化(Tafirian、前5200年頃)が登場しており[31]、新石器時代に入り前5千年紀終わり頃にはバダリ文化(Badarian culture)で最古の農耕・牧畜の痕跡が確認される[32]。
- ^ これらの時代区分の確実な定義、および年代を提示することはほとんど不可能である。現代においてこの問題について各学者個々人の分類が互いに完全に一致することはない。例示した分類はクレイトン[36]やスペンサー[37]、山花[38]、ドドソンおよびヒルトン[39]など、多数の学者が用いているもっとも一般的なものである。だが、それぞれの時代にどの王朝を位置付けるかについてはこれらの学者の間で一致しない。また編年についても時代が遡るほど年代設定の差は大きくなり、例えば古王国時代に先立つ初期王朝時代の開始は前3150年に置くクレイトン[40]やドドソン、ヒルトン[41]から、前3000年におく山花[42]まで多岐にわたる。そしてこれらの学者たち自身が編年について確実性がないことを付記するのが普通である。
- ^ ここでいう「白人」という用語は現代的な意味でのいわゆるヨーロッパ人の人種集団を指す白人という用語とは異なる。この「白人奴隷兵士」の出自は中央アジアのテュルク人(トルコ人)、モンゴル人や東欧のスラヴ人、ギリシア人らが含まれた。
- ^ マムルーク、グラーム、アトラーク、それらと関わるマワーリーなど、イスラーム世界の奴隷軍人に関わる用語の厳密な定義、分類、用語法の問題は極めて複雑であるため、本項では白人奴隷軍人を便宜上全てマムルークと呼称する。この問題に関する詳細な整理・解説は関連する記事及び、佐藤 1991, 清水 2005を参照されたい。
- ^ サーリフが購入した、主にテュルク人(トルコ人)とモンゴル人からなるマムルークの軍団はナイル川のローダ島に兵舎が遷された後、バフリーヤと呼ばれるようになった。これはナイル川を「バフル(海)」と呼んだことから来た名前である[109][110]。
- ^ 当時のキリスト教においては神がいかなる存在であるか、ということが重要な論争点であり、第1回ニカイア公会議以来の議論によって4世紀末までには父(神)と子(キリスト)は同質であり、父・子・聖霊は一つの神格の三つの位格が現れたものであり、その本質において同一であるとする三位一体説が正統教義として確立されつつあった[160]。しかし、神とキリストの同一性が確立された後も、『聖書』に現れるキリストの「神性」と「人性」をどのように理解するかを巡っての論争が継続していた。
- ^ なお、第1コンスタンティノポリス公会議(第二全地公会)においてラオディキアのアポリナリスが主張したキリストにおける神性と人性が単一かつ第3の性に融合したとするものと、ネストリウスとの論争においてキュリロスが主張した神性と人性の「混合することなき融合」とは(少なくとも当人たちの視点においては)異なる主張である。コプト教会はカルケドン派からの「単性論者」の呼称を受け入れてはいない[169]。
- ^ 厳密には、ジズヤ(人頭税)やハラージュ(地租)といった異教徒に対する課税がエジプト征服当初の段階で後世のように体系化されていたわけではない。初期イスラーム時代にはこれらの用語の定義はかなり曖昧で、「頭のハラージュ」や「土地のジズヤ」などの用語も見られ、単なる「貢納」という意味合いでも使用されていた[174]。さらにイスラームの征服後にギリシア語で書かれたエジプトの税務文書では、ジズヤのギリシア語訳としてディモウスタ(δημόστα、国税/現金税)という語が使用されており、このことからジズヤは物品税に対する「現金税」という意味でも使用されていたと見られる。こうした用法はウマイヤ朝期半ばまで継続しており、イスラーム法的なハラージュやジズヤの体形が整備されたのは8世紀以降となる[174]。ここでは簡単のため、こうした税体系の変遷は取り扱わない。
- ^ 当時のキリスト教徒(コプト教徒)はなお人口の40パーセントを占めていたとも言われる[100]。
出典
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- ジャック・フィネガン 著、三笠宮崇仁 訳『考古学から見た古代オリエント史』岩波書店、1983年12月。ISBN 978-4-00-000787-0。
- ジャネット・L・アブー=ルゴド 著、佐藤次高、斯波義信・高山博・三浦徹 訳『ヨーロッパ覇権以前 下 もうひとつの世界システム』岩波書店、2001年11月。ISBN 978-4-00-002394-8。
- ピーター・ガーンジィ 著、松本宣郎、阪本浩 訳『古代ギリシア・ローマの飢饉と食糧供給』白水社、1998年6月。ISBN 978-4-560-02809-4。
- フィリップ・K・ヒッティ 著、岩永博 訳『アラブの歴史(上)』講談社〈講談社学術文庫〉、1982年12月。ISBN 978-4-06-158591-1。
- フィリップ・K・ヒッティ 著、岩永博 訳『アラブの歴史(下)』講談社〈講談社学術文庫〉、1983年1月。ISBN 978-4-06-158592-8。
- ティルカンタル・ロイ 著、水島司 訳『インド経済史』名古屋大学出版会、2019年10月。ISBN 978-4-8158-0964-5。
- フランソワ・シャムー 著、桐村泰次 訳『ヘレニズム文明』諭創社、2011年3月。ISBN 978-4-8460-0840-6。
- T・セーヴェ=セーテルベルク「ヒュクソスのエジプト支配」『西洋古代史論集1』東京大学出版会、1973年2月。ASIN B000J9GVX2。
- A・J・スペンサー『図説 大英博物館古代エジプト史』近藤二郎監訳、小林朋則訳、原書房、2009年6月。ISBN 978-4-562-04289-0。
- ギャリー・J・ショー 著、近藤二郎 訳『ファラオの生活文化図鑑』原書房、2014年2月。ISBN 978-4-562-04971-4。
- イアン・ショー、ポール・ニコルソン 著、内田杉彦 訳『大英博物館 古代エジプト百科事典』原書房、1997年5月。ISBN 978-4-562-02922-8。
- スティーヴン・ワインバーグ 著、赤根洋子 訳『科学の発見』文藝春秋、2016年5月。ISBN 978-4-16-390457-3。
- リチャード・ハーバード・ウィルキンソン 著、内田杉彦 訳『古代エジプト神殿大百科』東洋書林、2002年9月。ISBN 978-4-88721-580-1。
- ロバート・ルイス・ウィルケン 著、大谷哲・小坂俊介・津田拓郎・青柳寛俊 訳『キリスト教一千年史(下)』白水社、2016年9月。ISBN 978-4-560-08458-8。
- ロジャー・オーウェン 著、山尾大・溝渕正季 訳『現代中東の国家・権力・社会』明石書店、2015年2月。ISBN 978-4-7503-4140-8。
- フランク・ウィリアム・ウォールバンク 著、小河陽 訳『ヘレニズム世界』教文館、1988年1月。ISBN 978-4-7642-6606-3。
- パヴァーナ・プルシャリアーティー(Parvaneh Pourshariati) (2017-3). Decline and Fall of the Sasanian Empire: The Sasanian-Parthian Confederacy and the Arab Conquest of Iran. London and New York: I.B. Tauris. ISBN 978-1-78453-747-0(ペーパーバック版。原著:2008年)
- ジェーン・ハサウェイ(Jane Hathaway) (2003-12). “CHAPTER EIGHTEEN: Mamluk "revivals" and Mamluk Nostalgia in Ottoman Egypt”. The Mamluks in Egyptian and Syrian Politics and Society. Leiden: Brill Academic Pub. ISBN 978-90-0413286-3
- ピーター・ホルト(P.M.Holt) (1969-4). Egypt and the Fertile Crescent, 1516–1922: A Political History. Cornell University Press. ISBN 978-0-8014-9079-8
その他の資料
[編集]- 大沼克彦 編『ユーラシア乾燥地域の 農耕民と牧畜民』六一書房、2013年3月。
- 羽生淳子「考古学研究会第62回総会講演 食の多様性と気候変動 : 縄文時代前期・中期の事例から」『考古学研究』第63巻、考古学研究会、2016年9月、NAID 40020976917、2019年7月閲覧。
Web
[編集]- “コトバンク 「アズハル・モスク」”. 2018年5月6日閲覧。
- レイモンド・ウィリアム・ベイカー(Raymond William Baker)、アーサー・エドワード・ゴールドシュミット(Arthur Eduard Goldschmidt)、チャールズ・ゴードン・スミス(Charles Gordon Smith)、デレック・ホープウッド、ピーター・ホルト(P.M.Holt)、ドナルド・P・リトル(Donald P. Little) (2019年7月). “Egypt”. 2019年8月14日閲覧。