南部光臣
南部 光臣(なんぶ みつおみ、1865年3月22日(元治2年2月25日[1])- 1931年(昭和6年)7月3日[1])は、明治から昭和初期の内務官僚、政治家、華族。官選群馬県知事、貴族院男爵議員、宮中顧問官。旧名・烏丸千佳之二[2]。
経歴
[編集]山城国京都烏丸通中立売(現京都市上京区)出身[2]。公家・烏丸光徳の三男として生まれ、男爵・南部甕男の養子となり[1]、1893年(明治26年)5月23日に南部に改姓の届出を行った[3]。
1892年(明治25年)7月、帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業[2][4]。同年12月、内務省に入省し内務省試補・土木局勤務となる[5]。
1893年11月、香川県参事官に就任。以後、第四回内国勧業博覧会事務委員、兼内務省第二課長、内務書記官・土木局勤務、土木局長事務取扱、同局治水課長などを歴任し、1903年(明治36年)1月、内務省土木局長に就任。1904年(明治37年)6月、休職となり、1906年(明治39年)6月、休職満期で退官した[2]。
1907年(明治40年)11月、群馬県知事に登用された。勢多農林学校の設立など、教育の振興などに尽力[4][6]。1908年(明治41年)8月24日、知事を休職となる[2]。
1910年(明治43年)8月、宮内省御用掛・帝室林野管理局勤務となる。以後、同局主事、同局長官事務取扱、同局長官、大礼使参与官、梨本宮宮務監督、宮内参事官、同省大臣官房調査課長事務取扱などを歴任[2]。
1923年(大正12年)4月、宮中顧問官に就任。同年8月、養父が死去し、同年10月20日、男爵を襲爵[2]。1925年(大正14年)5月2日、補欠選挙で貴族院男爵議員に選出され[7]、公正会に所属し死去するまで在任した[8][9]。
栄典
[編集]親族
[編集]- 妻 南部幸子(さきこ、養父の長女)[1]
脚注
[編集]- ^ a b c d 『平成新修旧華族家系大成』下巻、297頁。
- ^ a b c d e f g 「故宮中顧問官男爵南部光臣勲章加授ノ件」
- ^ 『官報』第2970号、明治26年5月26日。
- ^ a b 『新編日本の歴代知事』289頁。
- ^ 『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』155頁。
- ^ 『群馬県人名大事典』396頁。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、32頁。
- ^ 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』80-81頁。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、39頁。
- ^ 『官報』第3199号「叙任及辞令」1894年3月1日。
- ^ 『官報』第8185号「叙任及辞令」1910年10月1日。
参考文献
[編集]- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 『群馬県人名大事典』上毛新聞社、1982年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 歴代知事編纂会編『新編日本の歴代知事』歴代知事編纂会、1991年。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成 下巻』霞会館、1996年。
- 秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。
- 内閣「故宮中顧問官男爵南部光臣勲章加授ノ件」昭和6年。国立公文書館 請求番号:本館-2A-018-00・勲00702100
公職 | ||
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先代 (新設) |
梨本宮附別当 1930年 - 1931年 |
次代 (欠員→)三雲敬一郎 |
先代 有松英義 |
帝室林野管理局長官 1914年 - 1920年 |
次代 山崎四男六 長官事務取扱 |
先代 佐々木陽太郎 長官 |
帝室林野管理局長官事務取扱 1912年 |
次代 有松英義 長官 |
日本の爵位 | ||
先代 南部甕男 |
男爵 南部(甕男)家第2代 1923年 - 1931年 |
次代 南部健夫 |