中川友次郎
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中川 友次郎(なかがわ ともじろう、1873年(明治6年)4月[1] - 1945年(昭和20年)4月15日[2])は、日本の内務・農商務官僚。群馬県知事(官選第20代)、台湾総督府財務局長、特許局長官。旧姓・井関。
経歴
[編集]現在の石川県金沢市出身[3]。井関好直の弟として生まれ、中川長吉の養子となる[4]。第四高等学校を卒業。1897年、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。同年12月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し県治局属となる[4][5]。
以後、内務省書記官、同参事官、高知県書記官、農商務省参事官、同山林局長、法制局参事官などを歴任[4]。1910年9月、台湾総督府財務局長に就任[6]。
1917年9月、群馬県知事に転任[4]。米騒動を契機に県内の米自給を実現するため、1918年の通常県会に大正用水の工事計画を提案し決定された[3]。1919年6月、製鉄所次長に転任[7]。1922年7月、農商務省特許局長官に転じ[8]、1923年7月25日に依願免本官となり退官した[9]。
その後、前田侯爵家総務、汽車製造会社監査役などを務めた[3]。
官歴
[編集]- 造神宮主事 任官
- 内務書記官 兼任
- 1899年(明治32年)4月13日 - 内務省参事官 任官、叙高等官七等、八級俸下賜、社寺局勤務 任命[10]。
- 1900年(明治33年)3月12日 - 七級俸下賜[11]
- 1901年(明治34年)5月20日 - 六級俸下賜[12]
- 1902年(明治35年)5月22日 - 陞叙 高等官五等[14]、五級俸下賜[15]。
- 高知県書記官 任官
- 1903年(明治36年)12月19日 - (株)土佐農工銀行監理官 任命[16]
- 1904年(明治37年)3月12日 - 高知地方森林会議員 任命[17]
- 1905年(明治38年)8月16日 - 山林局監督官 兼 農商務省参事官 任官、一級俸下賜[18]
- 農商務省山林局長 任官
- 法制局参事官 任官
- 1908年(明治41年)12月9日 - 文官高等試験常任委員 仰付[19]
- 1909年(明治42年)6月18日 - 御用有之台湾へ出張及び御用有之清国へ差遣[20]。
- 1910年(明治43年)9月15日 - 台湾総督府財務局長 任官
- 1911年(明治44年)4月12日 - (株)台湾銀行監理官 任命[24]
- 1917年(大正6年)9月26日 - 台湾総督府財務局長 免官、群馬県知事 任官
- 1919年(大正8年)6月28日 - 群馬県知事 免官
- 特許局長官 任官
栄典・授章・授賞
[編集]- 位階
- 1898年(明治31年)8月 - 従七位
- 1900年(明治33年)5月30日 - 正七位[25]
- 1902年(明治35年)9月20日 - 従六位[26]
- 1904年(明治37年)8月5日 - 正六位[27]
- 1907年(明治40年)2月12日 - 従五位[28]
- 1910年(明治43年)6月11日 - 正五位[29]
- 1915年(大正4年)7月31日 - 従四位[30]
- 1920年(大正9年)8月20日 - 正四位[31]
- 1923年(大正12年)8月10日 - 従三位[32]
- 勲章等
著作
[編集]- 閲、山崎有信編『古社寺保存便覧:古社寺保存法註解,同保存出願手続』最勝閣、1903年。
親族
[編集]- 長男 中川友長 経済学博士
- 三男 中川重雄 理学博士。立教大学理学部教授で原子物理学研究者。1954年に原子力に関する「わが国最 初の教科書」として『教養の科学原子力』(田島英三、 武谷三男と共著)を執筆、立教大への原子炉誘致を推進した[36]。
- 四男 平沼恭四郎 実業家
- 孫 平沼赳夫 衆議院議員
脚注
[編集]- ^ 『人事興信録』第14版 下、ナ28頁。
- ^ 『朝日新聞』(東京本社発行)1945年4月21日朝刊、2面の訃報より。
- ^ a b c 『群馬県人名大事典』374頁。
- ^ a b c d 『新編日本の歴代知事』292頁。
- ^ 『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』177頁。
- ^ 『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』129頁。
- ^ 『官報』第2071号、大正8年6月30日。
- ^ 『官報』第2975号、大正11年7月3日。
- ^ 『官報』第3297号、大正12年7月26日。
- ^ 『官報』第4732号「辞令及辞令」1899年4月14日。
- ^ 『官報』第5007号「辞令」1900年3月14日。
- ^ 『官報』第5362号「叙任及辞令」1901年5月21日。
- ^ 『官報』第5371号「辞令」1901年5月31日。
- ^ 『官報』第5663号「叙任及辞令」1902年5月23日。
- ^ 『官報』第5664号「辞令」1902年5月24日。
- ^ 『官報』第6143号「叙任及辞令」1903年12月22日。
- ^ 『官報』第6208号「叙任及辞令」1904年3月15日。
- ^ 『官報』第6640号「叙任及辞令」1905年8月17日。
- ^ 『官報』第7638号「叙任及辞令」1908年12月10日。
- ^ 『官報』第7794号「叙任及辞令」1909年6月19日。
- ^ 『官報』第8181号「辞令」1910年9月27日。
- ^ 『官報』第8177号「叙任及辞令」1910年9月21日。
- ^ 『官報』第8234号「叙任及辞令」1910年12月1日。
- ^ 『官報』第8339号「叙任及辞令」1911年4月13日。
- ^ 『官報』第5071号「叙任及辞令」1900年5月31日。
- ^ 『官報』第5767号「叙任及辞令」1902年9月22日。
- ^ 『官報』第6331号「叙任及辞令」1904年8月6日。
- ^ 『官報』第7084号「叙任及辞令」1907年2月13日。
- ^ 『官報』第8091号「叙任及辞令」1910年6月13日。
- ^ 『官報』第900号「叙任及辞令」1915年8月2日。
- ^ 『官報』第2417号「叙任及辞令」1920年8月21日。
- ^ 『官報』第3310号「叙任及辞令」1923年8月11日。
- ^ 『官報』第205号・付録「辞令」1913年4月9日。
- ^ 『官報』第846号・付録「叙任及辞令」1915年5月29日。
- ^ 『官報』第2640号「叙任及辞令」1921年5月21日。
- ^ 立教大学原子力研究所の設立とウィリアム・G・ポラード鈴木 勇一郎、立教学院史研究11巻、2014
参考文献
[編集]- 歴代知事編纂会編『新編日本の歴代知事』歴代知事編纂会、1991年。
- 秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。
- 『群馬県人名大事典』上毛新聞社、1982年。
- 人事興信所編『人事興信録』第14版 下、1943年。
公職 | ||
---|---|---|
先代 田中隆三 |
特許局長官 1922年 - 1923年 |
次代 岡本英太郎 |
先代 峡謙斉 局長心得 |
台湾総督府財務局長 1910年 - 1917年 |
次代 末松偕一郎 |