村田五郎
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日本の官僚 村田 五郎 | |
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生年月日 | 1899年4月11日 |
出生地 | 日本・愛知県 |
没年月日 | 1982年3月24日(82歳没) |
出身校 | 東京帝国大学 |
称号 | 正四位 |
配偶者 | 豊子 |
在任期間 | 1941年10月20日 - 1943年3月31日 |
情報局次長 | |
在任期間 | 1943年4月22日 - 1944年7月 |
村田 五郎(むらた ごろう、1899年(明治32年)4月11日 - 1982年(昭和57年)3月24日)は、日本の内務官僚。官選群馬県知事、情報局次長。
経歴
[編集]愛知県出身。実業家・村田義教の長男として生まれる。台北中学、第八高等学校を経て、1923年3月、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。1922年11月、高等試験行政科試験に合格。1923年5月、内務省に入り富山県警部として警察部警務課に配属された。
以後、富山県氷見郡長、東京府内務部農林課長、同学務部社会課長、同知事官房主事兼秘書兼文書課長、東京府工業組合監督官、大分県書記官・警察部長、警視庁衛生部長、同庁官房主事、厚生省体力局体育課長、内務秘書官・警保局外事課長、福岡県総務部長、内務省地方局振興課長、兼平沼騏一郎国務大臣付秘書官、内務事務官・警保局保安課長などを歴任。
1941年10月、群馬県知事に就任。1943年4月、情報局次長に転じ、1944年7月まで在任し退官。
戦後、1946年9月から1951年10月まで公職追放となった。1966年7月に自民党の政治資金団体・国民政治協会会長に就任。
1979年2月24日、国際勝共連合と自民党の国防関係国会議員が中心となり、「スパイ防止法制定促進国民会議」が設立された[1][2][3][4]。呼びかけ人は木内信胤、朝比奈宗源、宇野精一、郷司浩平、宝井馬琴、三輪知雄の6人[1]。サンケイ会館で設立発起人総会が開かれ、村田は発起人に名を連ねた[注 1]。
栄典
[編集]親族
[編集]伝記・文献
[編集]- 村田光義『海鳴り - 内務官僚村田五郎と昭和の群像』上・下巻、芦書房、2011年。
- 内政史研究会『内政史研究資料 第139 - 145集』村田五郎氏談話速記録、1981 - 1983年。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c 茶本繁正「ファシズムの尖兵・勝共連合」 『社会主義』1979年7月号、社会主義協会、68-73頁。
- ^ “当団体について”. 「スパイ防止法」制定促進サイト. スパイ防止法制定促進国民会議. 2023年2月17日閲覧。
- ^ “専修大学社会科学研究所月報 No.273” (1986年4月20日). 2022年11月14日閲覧。
- ^ 深草徹. “今、再び特定秘密保護法を考える”. 2022年11月14日閲覧。
- ^ 『官報』第5299号「叙任及辞令」1944年9月11日。
- ^ 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』下巻、霞会館、1996年、69頁。人事興信所編『人事興信録』第14版 下、1943年、ム29頁。
- ^ 川村さくら (2022年10月7日). “遠い存在 「少佐」追いかけ”. 朝日新聞デジタル. 朝日新聞社. 2022年10月28日閲覧。
参考文献
[編集]- 歴代知事編纂会編『新編日本の歴代知事』歴代知事編纂会、1991年。
- 秦郁彦編『日本近現代人物履歴事典』東京大学出版会、2002年。
- 秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。