原口忠次郎
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原口 忠次郎 はらぐち ちゅうじろう | |
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原口忠次郎先生像 | |
生年月日 | 1889年11月12日 |
出生地 | 佐賀県小城郡芦刈町 |
没年月日 | 1976年3月22日(86歳没) |
死没地 |
神戸市立中央病院 (兵庫県神戸市中央区) |
出身校 | 京都帝国大学 |
当選回数 | 4 |
在任期間 | 1949年 - 1969年 |
原口 忠次郎(はらぐち ちゅうじろう、1889年11月12日 - 1976年3月22日)は、日本の土木技術者、官僚、政治家。神戸市長(第12代)。参議院議員(1期)。工学博士。
来歴
[編集]金沢の旧制第四高等学校を経て、1916年(大正5年)京都帝国大学工科大学土木工学科を卒業後、内務省に入省、東京土木出張所、新京国道建設所長、神戸・中国・四国などの土木出張所長を歴任した。
1945年(昭和20年)神戸市の局長、1946年(昭和21年)復興本部長、神戸市助役を務め、1947年(昭和22年)の神戸市長選挙に落選後、第1回参議院議員通常選挙兵庫県選挙区に日本社会党公認で当選。1949年(昭和24年)神戸市長に当選し、1969年(昭和44年)まで5期20年務めた。
「技術屋市長」として、山を削った土で海面を埋め立ててポートアイランドなどを整備し、山を削った跡をニュータウンなどとして開発する事業(いわゆる「山、海へ行く」と呼ばれた事業。鶴甲、渦森台、住吉川も参照)を行ったほか、六甲山トンネルを含む六甲有料道路、神戸ポートタワー、神戸高速鉄道、さんちか(地下街)などの事業の実施、明石海峡大橋の実現に向けた調査などに行政手腕をふるった。
1976年3月22日、脳梗塞のため神戸市立中央病院にて死去。86歳。当時の宮崎辰雄市長を葬儀委員長にした市民葬が行われた[1]。死没日をもって従四位から従三位に叙される[2]。
没後にポートアイランド中公園に銅像が建立され[3]、明石海峡大橋が竣工した後、舞子公園に原口の偉業を記念したモニュメント「夢レンズ」[注 1]が建立された[5]。
栄典
[編集]- 1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[6]
- 1964年 - 藍綬褒章(港湾関係の委員や団体役員として港湾施設整備拡充に寄与したことによる)[7][8]
- 1965年 - 勲二等瑞宝章(勲三等からの昇叙)[7][9]
- 1969年 - 神戸市名誉市民(第1号)[10]
- 1974年 - 勲一等瑞宝章
- 1976年 - 従三位
著作
[編集]- 米田正文共著『土と杭の工学』岩波書店、1931年。
- 米田正文共著『新土と杭の工学』岩波書店、1951年。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ 訃報欄『朝日新聞』1976年(昭和51年)3月28日朝刊、13版、23面
- ^ 『官報』第14770号15-16頁 昭和51年4月2日号
- ^ “ポートアイランド中公園にある『原口忠次郎先生像』【神戸フォト】”. 神戸ジャーナル. 株式会社ジャーニージーン (2016年2月2日). 2024年5月11日閲覧。
- ^ “最近思うこと” (PDF). 支部だより. 土木学会 関西支部 (2004年4月). 2024年5月11日閲覧。
- ^ “夢レンズ 明石海峡大橋生みの親の顕彰碑”. 舞子公園のみどころ. 公益財団法人 兵庫県園芸・公園協会 舞子公園管理事務所. 2024年5月11日閲覧。
- ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
- ^ a b 「原口 忠次郎」 。コトバンクより2023年2月10日閲覧。
- ^ 『官報』第11371号19-21頁 昭和39年11月6日号
- ^ 『官報』第11513号14頁 昭和40年4月30日号
- ^ “神戸市名誉市民”. 神戸市. 2022年8月1日閲覧。
参考文献
[編集]- 原忠明『激動期 六人の神戸市長』原忠明、1988年。
公職 | ||
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先代 小寺謙吉 |
神戸市長 第12代(民選第2代) : 1949年 - 1969年 |
次代 宮崎辰雄 |
その他の役職 | ||
先代 金刺不二太郎 |
全国市長会会長 第7代 : 1956年 - 1957年 |
次代 高田富與 |