呂号第六十八潜水艦
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(呂68から転送)
艦歴 | |
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計画 | 大正12年度艦艇補充計画 |
起工 | 1924年2月6日 |
進水 | 1925年2月23日 |
就役 | 1925年10月29日 |
除籍 | 1945年11月30日 |
その後 | 1946年4月30日 若狭湾で海没処分 |
性能諸元 | |
排水量 | 基準:988トン 常備:1,060.3トン 水中:1,301トン |
全長 | 76.20m |
全幅 | 7.38m |
吃水 | 3.96m |
機関 | ヴィッカース式ディーゼル2基2軸 水上:2,400馬力 水中:1,600馬力 |
速力 | 水上:15.7kt 水中:8.6kt |
航続距離 | 水上:10ktで5,500海里 水中:4ktで80海里[1] |
燃料 | 重油 |
乗員 | 48名 |
兵装 | 40口径8cm単装砲1門 53cm魚雷発射管 艦首6門 魚雷12本 |
備考 | 安全潜航深度:60m |
呂号第六十八潜水艦(ろごうだいろくじゅうはちせんすいかん)は、日本海軍の潜水艦。呂六十型潜水艦(L4型)の9番艦。
艦歴
[編集]- 1924年(大正13年)2月6日 - 三菱神戸造船所で起工。
- 1925年(大正14年)2月23日 - 進水。
- 1928年(昭和3年)12月10日 - 予備艦となる[2]。
- 1933年(昭和8年)9月1日 - 予備艦となる[2]。
- 1937年(昭和12年)7月1日 - 予備艦となる[2]。
- 1938年(昭和13年)6月1日 - 艦型名を呂六十型に改正[3]。
- 1941年(昭和16年)12月4日 - 第7潜水戦隊第33潜水隊所属として、クェゼリンを出航。ハウランド島方面へ航行[4]。
- 1942年(昭和17年)1月15日 - ラバウル攻略戦に加わりセント・ジョージ岬南方に配備[4]。
- 1945年(昭和20年)5月5日 - 第51戦隊に編入[4]。
- 1946年(昭和21年)4月30日 - 若狭湾の冠島沖にて海没処分[2]。近くで沈められた伊号第百二十一潜水艦、呂号第五百潜水艦とともに船体の所在は2018年の調査で確認されている[6]。
歴代艦長
[編集]※『艦長たちの軍艦史』467-468頁による。
艤装員長
[編集]- 中邑元司 大尉:1925年7月1日 - 1925年10月29日
艦長
[編集]- 中邑元司 大尉:1925年10月29日 - 1926年12月1日
- 高木武雄 少佐:1926年12月1日 - 1927年12月1日
- 鍋島俊策 少佐:1927年12月1日 - 1928年12月10日
- 溝畠定一 大尉:1928年12月10日[7] - 1929年11月1日[8]
- 林一雄 大尉:1929年11月1日[8] - 1931年12月1日
- 藤本伝 大尉:1931年12月1日 - 1933年9月1日[9]
- (兼)大橋龍男 中佐:1933年9月1日 - 1933年12月1日
- 藤本伝 少佐:1933年12月1日 - 1934年6月1日
- 小泉騏一 少佐:1934年6月1日 - 1935年11月15日
- 七字恒雄 少佐:1935年11月15日 - 1936年6月20日
- 江見哲四郎 少佐:1936年6月20日 - 1936年12月1日
- 入江達 少佐:1936年12月1日 - 1937年3月20日[10]
- 田上明次 少佐:1937年3月20日 - 1937年7月1日[11]
- (兼)稲葉通宗 大尉:1937年7月1日[11] - 1937年7月31日[12]
- 伊豆寿市 少佐:1937年7月31日[12] - 1937年12月1日[13]
- 戸上一郎 少佐:1937年12月1日 - 1938年7月30日[14]
- 広川隆 少佐:1938年7月30日 - 1939年11月1日[15]
- (兼)市川旦 少佐:1939年11月1日[15] - 1939年11月20日[16]
- (兼)吉留善之助 少佐:1939年11月20日[17] - 1939年11月25日[18]
- 原田毫衛 少佐:1939年11月25日 - 1940年3月20日[19]
- 田岡清 少佐:1940年3月20日 - 1940年10月15日[20]
- 田中万喜夫 少佐:1940年10月15日 - 1941年7月31日[21]
- 井筒紋四郎 少佐:1941年7月31日 -
- 真鍋正輝 大尉:1942年5月23日 -
- 館上陸太 大尉:1943年3月16日 -
- 鈴木正吉 大尉:1943年8月1日 -
- 菅昌徹昭 大尉:1944年1月20日 -
- 上杉一秋 大尉:1944年3月20日 -
- 山中修明 大尉:1944年10月14日 -
- 鮫島修 大尉:1945年6月1日 -
脚注
[編集]- ^ 『艦長たちの軍艦史』による。
- ^ a b c d e f 『艦長たちの軍艦史』467-468頁。
- ^ 昭和13年6月1日付、内令第421号。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『日本海軍の潜水艦 - その系譜と戦歴全記録』151頁。
- ^ 『日本海軍史』第7巻、372頁。
- ^ 「若狭湾の潜水艦3隻 位置と名前全て特定 九工大調査チーム」『産経新聞』朝刊2018年7月4日(社会面)2018年7月11日閲覧。
- ^ 『官報』第587号、昭和3年12月11日。
- ^ a b 『官報』第854号、昭和4年11月2日。
- ^ 『官報』第2003号、昭和8年9月2日。
- ^ 『官報』第3063号、昭和12年3月22日。
- ^ a b 『官報』第3148号、昭和12年7月2日。
- ^ a b 「海軍辞令公報 号外 第15号 昭和12年7月31日付」 アジア歴史資料センター Ref.C13072072100
- ^ 「海軍辞令公報 号外 第99号 昭和12年12月1日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072072700
- ^ 「海軍辞令公報(部内限)号外 第218号 昭和13年7月30日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072074100
- ^ a b 「海軍辞令公報(部内限)第397号 昭和14年11月1日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072076600
- ^ 「海軍辞令公報(部内限)第405号 昭和14年11月20日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072076900
- ^ 「海軍辞令公報(部内限)第405号 昭和14年11月20日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072077000
- ^ 「海軍辞令公報(部内限)第406号 昭和14年11月25日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072077000
- ^ 「海軍辞令公報(部内限)第453号 昭和15年3月20日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072077800
- ^ 「海軍辞令公報(部内限)第545号 昭和15年10月16日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072079200
- ^ 「海軍辞令公報(部内限)第681号 昭和16年7月31日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072081600
参考文献
[編集]- 雑誌「丸」編集部『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集20巻』潜水艦伊号・呂号・波号・特殊潜航艇他、光人社、1998年。
- 勝目純也『日本海軍の潜水艦 - その系譜と戦歴全記録』大日本絵画、2010年。
- 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
- 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。 ISBN 4-7698-1246-9