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土方久元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
土方楠左衞門から転送)
土方 久元
ひじかた ひさもと
宮内官供奉服に勲一等旭日大綬章を着用した土方
明治32年(1899年))
生年月日 1833年11月23日
天保4年10月12日
出生地 日本土佐国土佐郡秦泉寺村[1]
没年月日 (1918-11-04) 1918年11月4日(84歳没)
前職 武士土佐藩士
称号 正二位
勲一等旭日桐花大綬章
伯爵
親族 土方久用(父)
土方久功(甥)
土方与志(孫)

日本における郵船商船規則の旗 第2代 宮内大臣
在任期間 1887年9月6日 - 1898年2月9日

内閣 第1次伊藤内閣
在任期間 1887年7月26日 - 1887年9月17日
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土方 久元(ひじかた ひさもと、1833年11月23日天保4年10月12日〉 - 1918年大正7年〉11月4日)は、日本政治家[2]栄典正二位勲一等伯爵幼名大一郎通称楠左衛門秦山

生涯

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志士としての活躍

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天保4年(1833年)、土佐藩郷士・土方久用(200石)の長男として生まれる。安政4年(1857年)、江戸へ遊学して儒者・大橋訥庵の門に学び、尊王攘夷思想に傾倒する。

また窪田清音の高弟である兵学者・若山勿堂から山鹿流軍学を学ぶ[3][4][5][6]。 帰国後、武市瑞山らが結成した土佐勤王党に参加。文久3年(1863年)以後は藩命により京都へ上り、尊攘派の牙城であった長州藩はじめ諸藩の勤王の志士と交流する。やがて過激派公家三条実美の知遇を得、徴士学習院出仕を命ぜられたが、同年の八月十八日の政変により、長州藩と三条らは失脚し京から追放される。久元は「七卿落ち」に従い、三条や澤宣嘉らと共に長州へ下った。

幕府による第一次長州征討の際には、三条らと共に九州福岡藩)へ渡海し、大宰府に逃れる。同じ土佐浪士の中岡慎太郎田中光顕坂本龍馬らとも連係し、薩長同盟の仲介に尽力。馬関における木戸孝允西郷隆盛の会談を周旋する(ただし、連絡の行き違いにより未遂に終わる)。

七卿落ちから明治元年(1868年)にいたるまでの土方の活動は、自らの日記『回天実記』によって詳しく記されている。

維新後

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宮内官大礼服に勲一等旭日桐花大綬章を着用した晩年の土方

明治維新成った後は新政府に仕え、明治元年には東京府判事、ついで鎮将府弁事に任命される。その後、宮内少輔内務大輔太政官内閣書記官長侍補宮中顧問官元老院議官などを歴任。宮中職の履歴が多く、元田永孚佐々木高行吉井友実らと共に皇権伸張(天皇親政)を主唱し、宮中保守派と目せられた。天皇親政運動は実現せず明治14年(1881年)に終息するが、明治17年(1884年)には子爵に叙爵。

明治18年(1885年)の内閣制度発足に際しては第1次伊藤内閣農商務大臣として入閣。ついで明治20年(1887年)9月、宮内大臣に転じ、以後11年に渡って職務にあたる。明治21年(1888年)には大日本帝国憲法審議のために設けられた枢密院で憲法草案を議する枢密顧問官に任命され、中正派(天皇親政派)として立憲君主制確立のため君権を制限しようとする伊藤博文らと論争した。憲法制定後は、明治22年(1889年)の嘉仁親王(後の大正天皇)立太子礼、翌明治23年(1890年)の帝国議会発足、明治27年(1894年)からの日清戦争などに際し、明治天皇を支える宮内大臣として取り仕切った。明治28年(1895年伯爵に陞爵。明治31年(1898年)に宮内大臣を辞し田中光顕に譲った。

晩年は帝室制度調査局副総裁(後に総裁)、皇典講究所長などを経た後、教育関連の仕事に従事。聖徳講話などを行い国民の教化に尽力し、國學院大學長、東京女学館長などを務めた。また、明治天皇が崩御し大正の世となると、臨時帝室編修局総裁の職に就き『明治天皇紀』の編纂に尽力した。

大正7年(1918年)、肺炎のため薨去[7]享年84。墓所は染井墓地(現:染井霊園)。日記『回天実記』(新版<幕末維新史料叢書7>新人物往来社 昭和44年(1969年))が遺されている。

家族

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  • 父親の土方久用(1809-1890)は山内一豊の家臣[8]
  • 妹玉子は伯爵東久世通禧二男通敏の妻だったが、子供の家庭教師に雇った大学生(出歯亀事件で活躍し警視庁警視に昇進した新宿署森田警部の子)と不倫して離婚、借金が発覚し元夫から訴えられた[9]
  • 長男の土方久明(1862-1898)は軍人。土方家の小間使い・矢野と十代で子を生したが、矢野が死去。ドイツ陸軍士官学校を経てドイツ陸軍の中尉になったが、日本陸軍からの要請で28歳で帰国。陸軍大尉となり再婚もしたが、長男が生まれた3か月後に36歳で拳銃自殺。遺族によると、来日した外国皇太子の閲兵式に同僚の嘘により平服で出向いたところ他隊は皆礼服であり、平服の久明の隊は入場を止められ、その夜自殺したという[10]。後妻の愛子は子爵加藤泰秋の娘で、母方伯父に公爵西園寺公望
    • 久明の長女・綾子(1882-1959)は前妻との子。母親の矢野は酒問屋・田中文七郎の娘で行儀見習いを兼ねて土方家の下働きに入り、18歳の久明との間に綾子を儲けたが、出産後死去[11]。綾子は17歳で田中銀之助に嫁ぐも夫には愛妾と子供まであり、綾子も松本幸四郎 (7代目)と浮名を流して26歳で離婚。土方家に戻ったが勘当され、矢野定幸の養女となり大石茂美と再婚[12][13]
    • 久明の長男・久敬(別名与志)は後妻との子。爵位を継いだが、演出家の道へ進み新劇運動に熱中した末に社会主義にも傾倒、昭和9年(1934年)に爵位を取り上げられた。妻の梅子は子爵三島彌太郎二女で、子爵三島通庸、侯爵四条隆謌の孫。
  • 養女の春子(1856-1908、売薬商・中井好馬の娘[14])は京都祇園の元舞妓で侯爵四条隆謌の後妻。華族に嫁ぐに際し身分の調整のため久元の養女となった。隆謌は妻子があったが離縁して再婚し、長男四条隆愛と長女加根子を儲け、加根子は三島彌太郎の妻となり、その娘梅子が久元の孫土方与志の妻となった[15]
  • 甥(弟の子[16])の土方久功彫刻家民俗学者となっている。

邸宅

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  • 生家は高知県高知市北秦泉寺692にある[17]
  • 小石川区林町(現・文京区千石2丁目)に洋館と和館のある邸宅があった。久元が宮内大臣時代に建てた地下1階地上2階の西洋館は日本最初の洋館と言われ、地下の倉庫は演劇をしていた孫与志の関係で模型舞台研究所に改装され、演劇関係者の隠れた社交の場でもあった[18][19]。跡地には明治26年の天皇の土方邸訪問を記念した「明治天皇行幸記念碑 旧土方久元邸」の碑が建てられている。

栄典

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位階
爵位
勲章等
外国勲章佩用允許

著作

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単著

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  • 『欧米游草』1888年。全国書誌番号:53014001 
  • 『回天実記』 上下巻、東京通信社、1900年5月。 NCID BA34370241全国書誌番号:40013696 全国書誌番号:42030524 
  • 安原清輔・佐伯常麿 編『天皇及偉人を祀れる神社』帝国書院、1912年11月。 NCID BN0991655X全国書誌番号:43017381 
  • 『明治天皇聖徳録』実業之日本社、1913年2月。 NCID BN11998364全国書誌番号:43018395 
  • 『明治のみかど』田村虎蔵・益山鎌吾作曲、天香堂、1913年6月。 NCID BA76299777全国書誌番号:42004354 
  • 『秦山遺稿』 上下巻、股野琢閲、片岡哲輯、佐藤寛・喜多貞校、土方久敬、1919年11月。 NCID BN1591111X全国書誌番号:43041951 
  • 齋藤伸郎 編『土方久元日記 明治十四年』私家版書籍、2017年7月。ISBN 9784909255006全国書誌番号:22936356 

共著

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出典

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  1. ^ 土方久元とは - コトバンク
  2. ^ ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「土方久元」
  3. ^ 『山鹿素行兵法学の史的研究』十一章
  4. ^ 平尾道雄 著『青年の風雪』34頁 高知新聞社、1981
  5. ^ 『土佐の偉人と名勝』33頁
  6. ^ 『泰山遺稿2巻上巻』泰山土方伯略傳
  7. ^ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』(吉川弘文館、2010年)251頁
  8. ^ 土方久元『人事興信録』初版 [明治36(1903)年4月]
  9. ^ 『明治・大正・昭和華族事件錄』千田稔 2005 p105
  10. ^ 『土方梅子自伝』p24
  11. ^ 『土方梅子自伝』p21
  12. ^ 『土方伯』菴原铆次郎、 木村知治 · 1913年、p16
  13. ^ 『土方与志 ある先駆者の生涯』尾崎宏次、 茨木憲 1961, p17
  14. ^ 中井一馬『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
  15. ^ 『土方梅子自伝』p34
  16. ^ 土方家・本田家系図清水久夫、国立民族学博物館調査報告89、2010-02-26
  17. ^ 土方久元邸跡幕末維新史跡観光
  18. ^ 【小石川①035】小石川林町江戸町巡り
  19. ^ 『土方梅子自伝』p51-54
  20. ^ 『官報』第678号「賞勲叙任」1885年10月2日。
  21. ^ 『官報』第994号「叙任」1886年10月21日。
  22. ^ 『官報』第3988号「叙任及辞令」1896年10月12日。
  23. ^ 『官報』第1877号「叙任及辞令」1918年11月5日。
  24. ^ 『官報』第316号「叙任及辞令」1884年7月18日。
  25. ^ 『官報』第3684号「叙任及辞令」1895年10月8日。
  26. ^ 『官報』第1299号「叙任及辞令」1887年10月26日。
  27. ^ 『官報』第1928号「叙任及辞令」1889年11月30日。
  28. ^ 『官報』第1971号「彙報」1890年1月27日。
  29. ^ 『官報』第6012号「叙任及辞令」1903年7月17日。
  30. ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
  31. ^ a b c d 『官報』第993号「叙任及辞令」1886年10月20日。
  32. ^ 『官報』第2355号「叙任及辞令」1891年5月9日。
  33. ^ 『官報』第2378号「叙任及辞令」1891年6月5日。
  34. ^ 『官報』第2726号「叙任及辞令」1892年7月29日。
  35. ^ 『官報』第3691号「叙任及辞令」1895年10月16日。

参考文献

[編集]

関連項目

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外部リンク

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公職
先代
(新設)
日本の旗 臨時帝室編修局総裁
1916年 - 1918年
臨時編修局総裁
1914年 - 1916年
次代
田中光顕
先代
(新設)
日本の旗 帝室制度調査局副総裁
1899年 - 1903年
次代
伊東巳代治
先代
伊藤博文
総裁
日本の旗 帝室制度調査局総裁心得
1900年 - 1903年
次代
伊藤博文
総裁
先代
伊藤博文
日本の旗 宮内大臣
第2代:1887年9月16日 - 1898年2月9日
次代
田中光顕
先代
谷干城
日本の旗 農商務大臣
第2代:1887年7月26日 - 9月17日
次代
黒田清隆
先代
細川潤次郎
日本の旗 中央衛生会
日本の旗 日本薬局方編纂総裁

1884年 - 1885年
次代
芳川顕正
先代
井上馨
日本の旗 太政官文書局監督
1885年
次代
田中光顕
先代
前島密(→欠員)
日本の旗 内務大輔
1881年 - 1884年
次代
(欠員→)芳川顕正
先代
杉孫七郎(→欠員)
日本の旗 宮内少輔
1878年 - 1881年
次代
山岡鉄太郎
その他の役職
先代
吉村寅太郎
東京女学館
1899年 - 1918年
次代
神田乃武
先代
佐野常民
日本美術協会会頭
1903年 - 1918年
次代
金子堅太郎
先代
長与専斎
山田顕義
大日本私立衛生会会頭
1903年 - 1916年
1893年 - 1901年
次代
北里柴三郎
長与専斎
先代
(新設)
能楽会会頭
1896年 - 1903年
次代
蜂須賀茂韶
日本の爵位
先代
陞爵
伯爵
土方(久元)家初代
1895年 - 1918年
次代
土方久敬
先代
叙爵
子爵
土方(久元)家初代
1884年 - 1895年
次代
陞爵
学職
先代
鍋島直大
國學院大學学長
1918年
次代
芳賀矢一