塩川和則
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塩川 和則(しおかわ かずのり 1950年[要出典] - )は、元・TBSプロデューサー。プレミアムエンターテイメント代表取締役会長CEO[1]。
来歴・人物
[編集]慶應義塾大学商学部卒業。1973年、株式会社東京放送(TBS)入社。同期はTBSテレビ執行役員の八木康夫。
入社後、テレビ制作局制作部に所属。居作昌果プロデューサーの部下になる。当時の人気番組「8時だよ!全員集合」、「クイズダービー」を担当。居作から番組制作の手ほどきを受けつつ、師と仰ぎADとして勉強を積む。
その後、その経験が番組制作に大いに生かされヒット番組を続出させた。当時、TBSの視聴率も2位まで復活させ「バラエティの神様」とも呼ばれた。
若手の育成にも積極的で、難波一弘、園田憲、阿部龍二郎、那須田淳、合田隆信をはじめ多数のプロデューサー、演出家等を育てたと言われている。
制作一部長・テレビ編成局次長・TBSエンタテインメント取締役・メディア推進局副理事を歴任。
TBS退職後、2006年まで株式会社アミューズの執行役員を務める。その後、株式会社プレミアムエンターテイメントを設立。
2017年より人工知能開発専門会社の株式会社9DWのシニアスーパーバイザーを務めていた。
政治家の塩川正十郎とは親戚にあたる。また馬主としても知られている。
略歴
[編集]- 1976年、8時だョ!全員集合を演出家としてデビュー。(1985年9月終了まで色々な番組を兼務)
- 同年日本レコード大賞も演出。{日本レコード大賞は1990年まで演出、プロデューサーと担当}
- 1976年~1978年、「ピンキーパンチ大逆転」「せんみつ・湯原ドット30」「ゆく年くる年」「さよならキャンディーズ(後楽園)」「ピンクレディースペシャル」他多数。
- 1979年、「東京音楽祭」演出。「'80年未来をこの手に!」12月31日放送のスペシャル番組を手掛ける。その後、東京放送ニューヨーク支局にて勤務。世界で初めて、ヒューストンNASAとケープケネディのスペースシャトルから、アメリカのプロダクションと共同で、衛星生中継。担当プロデューサー。衛星中継の先鞭となる。
- 1980年、植村直己と南極大陸のアルゼンチンの基地に滞在。植村と「行く年。来る年」を日本初の録画中継を成功させる。
- 1983年、サラエボオリンピックのためロンドンへ。黒岩彰、北沢欣浩のドキュメンタリーの番組で北沢の銀メダルの瞬間を200日かけて追い続ける。「さよなら!ピンクレディー」「自由の女神200年」他、多数の番組プロデューサーとして作品を出した。
- 1984年、ドラマ「うちの子にかぎって…」「胸さわぐ苺たち」「勝手にしやがれ殺人事件」演出。「翔んでる警視」プロデューサー。
- 1984年~ 事業局兼務 イベント多数。
- 1985年、「新伍のお待ちどおさま」プロデューサー。昼の生放送を開拓。
- 1985年~1989年「怪傑黄金時間帯」「いきなりクライマックス」「所、さんまの赤丸急上昇」「4月だョ!全員集合」「10月だョ!全員集合」「ギミア・ぶれいく」 総合プロデューサー。「ドミノ倒し」「埋蔵金」「笑ゥせぇるすまん」等の多数のヒット企画を出した。
- 1991年、テレビ営業局ネット営業部副部長
- 1992年、テレビ編成局編成部副部長「チューボーですよ!」「クイズ悪魔のささやき」「どうぶつ奇想天外!」「スポーツマンNo.1決定戦」「筋肉番付」等の多数の番組企画立案。この時期にTBSを視聴率2位まで復活させた。
- 2003年、東京国税局より9千数百万円の申告漏れを指摘され、TBSを諭旨解雇された[2][3]。
手がけた番組
[編集]バラエティ
[編集]演出
[編集]- 8時だョ!全員集合(後にプロデューサー)
- 4月だョ(10月だョ)!全員集合(後にプロデューサー)
- ザ・ベストテン
プロデューサー
[編集]制作
[編集]総指揮
[編集]他
ドラマ
[編集]映画
[編集]- 「未来日記」(エグゼクティブプロデューサー)