コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

多賀敏行

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
たが としゆき

多賀 敏行
生誕 (1950-09-22) 1950年9月22日(74歳)
日本の旗 三重県
国籍 日本の旗 日本
出身校 一橋大学法学部卒業
ケンブリッジ大学大学院修了
職業 ラトビア駐箚特命全権大使
子供 十輝いりす
テンプレートを表示

多賀 敏行(たが としゆき、1950年9月22日 - )は、日本外交官

外交官経験をいかし、外交論・比較文化論や英語についての著書の執筆も行う。

宮内庁侍従ラトビア公使東京都庁知事本局儀典長ラトビア駐箚特命全権大使などを歴任した。

人物

[編集]
2012年2月9日チュニジア欧州担当長官トゥアミ・アブドル(右)と

三重県松阪市出身。中学から愛知県名古屋市に出て東海中学校・高等学校に進学。1974年に一橋大学法学部を卒業し、外務省に入省。高校・大学及び外務省入省同期に西ヶ廣渉宮内庁宮務主管がいる[1][2]。1977年ケンブリッジ大学大学院修了、LL.M.法学修士[2][3]国連政府代表部一等書記官等を経て、1993年から1996年まで宮内庁侍従を務めた[4]

その後石原慎太郎東京都知事の下で東京都知事本局儀典長を務めたのち、2009年から在チュニジア特命全権大使。2011年のチュニジアジャスミン革命後は、暫定内閣のモハメッド・ガンヌーシ首相と会談し、チュニジア支援国会合への日本政府の参加要請を受けた[5]。退官後は大阪学院大学教授や中京大学客員教授、外務省研修所講師、関西日本ラトビア協会顧問、大阪三重県人会顧問等を務める[6]

外交官としての仕事のかたわら、仕事での経験をいかした比較文化論や英語についての著作を執筆[7]。英語教育については、日本における英文法教育を高く評価している[8]。娘に元宝塚歌劇団星組男役の十輝いりすがいる[9]

略歴

[編集]
2012年1月25日チュニジアアメリカ・アジア担当長官エディ・ベン・アッバス(右)と
2013年1月9日ラトビア首相ヴァルディス・ドンブロウスキス(左)と

著作

[編集]

著書

[編集]
  • 『国際人の英語』丸善(丸善ライブラリー ; 34) , 1991.12.
  • 『文化としての英語』丸善(丸善ライブラリー ; 63) , 1992.10.
  • 『体験英語の楽しみ』丸善(丸善ライブラリー ; 155) , 1995.4.
  • 『ワンランクアップの英文法』筑摩書房(ラクーン英語読本) , 1996.3.
  • 『シャープなリンゴとルーズなトマト』小学館, 1999.7
  • 『「エコノミック・アニマル」は褒め言葉だった』新潮社(新潮新書)2004.9.
  • 『外交官の「うな重方式」英語勉強法』文藝春秋 (文春新書) , 2008.11.
  • 『「アラブの春」とは一体何であったのか 大使のチュニジア革命回顧録』臨川書店,2018.9

論文等

[編集]
  • 「「日本人12歳」説の真意」文藝春秋. 71(9) [1993.09]
  • 「総領事館ほっとライン(第26回)バンクーバー カナダで最も古くから日本と密接な関係」世界週報時事通信社). 86(37) (通号 4214) [2005.10.4]
  • 「若き日本人に伝えたい 「日本人は12歳」、マッカーサー発言の真意は侮蔑にあらず」正論. (通号 419) [2007.2]
  • 「対談 半藤一利の賢者の先見(22)ゲスト 東京都知事本局 儀典長 多賀敏行さん 日米開戦前夜、米国の暗号読解はあまりにも「お粗末」だった」Fole. (61) [2007.10]

同期

[編集]

脚注

[編集]
  1. ^ 「同級生交歓――東海高校(昭和41年入学)【全文公開】」文藝春秋digital 2019/11/15 06:00
  2. ^ a b 「「アラブの春」とは一体何であったのか 大使のチュニジア革命回顧録 」アマゾンジャパン
  3. ^ 多賀 敏行 Taga, Toshiyuki | 教員紹介(国際学研究科)大阪学院大学
  4. ^ 1995/05/05, 日本経済新聞、「正論」,平成17年7月号
  5. ^ 産経新聞2011.2.13 08:44
  6. ^ 「多賀 敏行  Taga, Toshiyuki」大阪学院大学
  7. ^ 1992年11月15日,朝日新聞
  8. ^ 2008年12月07日,朝日新聞
  9. ^ 「ラトビア植樹祭」日本ラトビア協会ニュース2013年号,p20
  10. ^ 「特別職国家公務員の再就職状況の公表について(平成28年4月1日~平成29年3月31日)」外務省