大石弥太郎
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 大分県佐伯市 |
生年月日 | 1943年10月6日 |
没年月日 | 2024年2月22日(80歳没) |
身長 体重 |
178 cm 73 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1962年 |
初出場 | 1962年 |
最終出場 | 1980年 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
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監督・コーチ歴 | |
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この表について
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大石 弥太郎(おおいし やたろう、1943年10月6日 - 2024年2月22日[1])は、大分県佐伯市[2]出身のプロ野球選手(投手)・コーチ・監督、解説者。
経歴
[編集]佐伯鶴城高では2年次の1960年、秋季九州大会県予選2回戦で中津東高を相手に完全試合を達成。決勝に進むが津久見高に完封負け。3年次の1961年の春季九州大会県予選でも決勝に進むが、エース・門岡信行を擁する高田高に完封負け。夏も県予選で敗れ甲子園には届かなかった。打者としても優れた才能を持ち、五番を打って投打の中心をなしていた。
門岡と共に九州高校球界の本格派としてプロからも注目され、東映フライヤーズが積極的に勧誘していたが、卒業後の1962年に阪急ブレーブスへ入団。1年目から一軍に上がり、4月29日の近鉄戦(日生)で初先発登板。5月5日の西鉄戦(西宮)で若生忠男と投げ合い5回を無失点に抑えるなど好投を見せるが、白星には恵まれなかった。
1964年4月19日の近鉄戦(西宮)で三平晴樹をリリーフしてプロ初勝利を挙げ、1965年にはウエスタン・リーグで13勝を記録し投手部門のタイトルを総なめにするが、一軍では思うように成績は伸びなかった[2]。
1967年に大石清との「大石交換」で広島カープへ移籍、これが大きな転機となる[2]。長谷川良平監督に「そんな球投げていて、勝てないわけないだろう。ど真ん中狙って思い切り投げればいい」と言われ、大石は開眼[2]。「タコ踊り」と呼ばれた、大きな体を十分に使ったダイナミックなフォームから繰り出される直球で打者を抑え、先発・中継ぎとフル回転し、移籍1年目に初の2桁となる10勝を記録[2]。
1968年には自身初の開幕投手を務め、その後も1969年から1972年まで4年連続2桁勝利[2]を挙げた。
1971年にはシーズン最多無四球投球を記録し、オールスターにも4度出場(1967年, 1970年 - 1972年)。
1975年に白石静生と共に、児玉好弘・宮本幸信・渡辺弘基との交換トレードで、9年ぶりに古巣・阪急へ復帰。多彩な変化球で抑え役としての活躍を期待されたが、9試合登板で1敗1セーブと応えられずに終わる。
1976年4月11日のロッテ戦(宮城)で村田兆治と投げ合い、2年ぶりの勝利と復帰後初勝利を完封で飾った。同年は2度の完封を含む4勝をマークし、その内の2勝を太平洋から挙げた。
1977年には戸田善紀・森本潔・小松健二と共に稲葉光雄・島谷金二・大隅正人との4対3の大型トレードで中日ドラゴンズへ移籍し、4月3日の巨人戦(後楽園)で初登板。開幕カード2試合目の先発マウンドを任されたが、先発のクライド・ライトと張本勲に1号本塁打を献上して敗戦。同7日の阪神戦(ナゴヤ)ではハル・ブリーデンに2本の本塁打、同17日の大洋戦(千葉天台)では田代富雄に2本の本塁打を献上して共に敗戦。結局シーズン通して勝ち星を1個も挙げられず、防御率7.20と散々な成績に終わった。
1978年はリリーフで2勝を挙げるが、1979年には南海ホークスへ移籍。チームの最下位脱出にリリーフで貢献し、防御率3.95と前年の5.35から大幅に改善。チーム防御率12球団最下位の投手陣において、佐々木宏一郎・金城基泰に次ぐ好成績を挙げた。関西(阪急)→広島→関西(阪急)→名古屋→関西(南海)と渡り鳥の様な生活を送ったが、南海では2年連続未勝利に終わる。
1980年にはある試合で香川伸行とバッテリーを組み、外角ぎりぎりのストレートを自信を持って投げたが、相手打者に難なく弾き返されてしまう[3]。大石自ら自由契約を球団に申し出て[3]、同年限りで現役を引退[2]。
引退後はスポルディング日本法人で勤務[3]する傍ら、日本短波放送「たんぱストレートナイター」解説者を務めた。スポルディング入社後はプロの用具担当として野球界に関わり、バットの材質や見分け方、ボールの巻き方、グラブの善し悪しなどを知ることができた[3]。
後に玉澤スポーツへ転籍するが、西武球場に西武の根本陸夫管理部長に挨拶に行った[3]際、根本から「大石、台湾行って野球やれや!」と言われ[3]、1993年から台湾CPBL・統一ライオンズ投手コーチに就任。最初はレベルの低さと国民性の違いに悩み、犠打を指導しようしたところ、「何で自分が犠牲にならないといけないの」と選手に言い返されたこともあった[3]。
1994年からは監督に昇格し、王漢や郭進興の活躍もあり、1995年に前後期優勝を果たす。同年11月のアジア・パシフィックスーパーベースボールでは、台湾のプロ野球チームとして初の国際大会優勝を成し遂げる[4]。
1996年は後期優勝を果たし、台湾シリーズでは前期優勝の味全を倒す。大石自身も2年連続で最優秀監督(最佳総教練)に輝いたが、1992年には森下正夫、1993年と1994年には山根俊英(共に兄弟)が受賞しており、実際には5年連続で日本人監督が受賞することとなった。
退団後は帰国し、1998年には6ヶ月間だけ「呉昭和リトルシニア」でコーチを務め、選手には”左右バランス良く筋力を”とアドバイス[5]。
その後は沖縄県名護市に移住し、沖縄フルーツランドの支配人[6]を務める傍らで安仁屋ベースボールTRY[7]、名桜大学(2010年 - 2014年)の投手コーチ[3]、エナジックのヘッドコーチ(2015年)[8]→監督(2016年)[9]を務めた。
2024年2月22日、心筋梗塞のため名護市の病院で死去。80歳没[1]。
詳細情報
[編集]年度別投手成績
[編集]年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1962 | 阪急 | 15 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | -- | ---- | 138 | 35.0 | 30 | 2 | 3 | 1 | 0 | 12 | 0 | 0 | 13 | 11 | 2.83 | 0.94 |
1963 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | -- | ---- | 10 | 2.0 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 1 | 1 | 4.50 | 2.00 | |
1964 | 25 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | -- | -- | 1.000 | 186 | 43.2 | 48 | 5 | 6 | 0 | 1 | 18 | 0 | 0 | 28 | 22 | 4.50 | 1.24 | |
1965 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | -- | ---- | 28 | 5.0 | 10 | 3 | 2 | 0 | 0 | 5 | 0 | 0 | 11 | 11 | 19.80 | 2.40 | |
1966 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | -- | ---- | 15 | 2.2 | 6 | 2 | 1 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 4 | 4 | 12.00 | 2.63 | |
1967 | 広島 | 52 | 15 | 5 | 1 | 2 | 10 | 14 | -- | -- | .417 | 810 | 204.0 | 190 | 16 | 28 | 4 | 4 | 122 | 1 | 0 | 69 | 65 | 2.87 | 1.07 |
1968 | 20 | 11 | 3 | 1 | 1 | 6 | 5 | -- | -- | .545 | 340 | 82.1 | 77 | 11 | 14 | 0 | 1 | 49 | 0 | 0 | 39 | 30 | 3.29 | 1.11 | |
1969 | 39 | 7 | 3 | 2 | 1 | 11 | 8 | -- | -- | .579 | 461 | 117.2 | 87 | 13 | 23 | 5 | 4 | 73 | 1 | 0 | 38 | 30 | 2.29 | 0.93 | |
1970 | 47 | 25 | 10 | 5 | 4 | 13 | 9 | -- | -- | .591 | 782 | 206.2 | 158 | 14 | 23 | 5 | 8 | 104 | 0 | 2 | 58 | 51 | 2.22 | 0.88 | |
1971 | 46 | 26 | 11 | 3 | 6 | 13 | 10 | -- | -- | .565 | 823 | 216.0 | 176 | 23 | 20 | 2 | 11 | 93 | 0 | 0 | 65 | 62 | 2.58 | 0.91 | |
1972 | 38 | 19 | 8 | 0 | 1 | 11 | 15 | -- | -- | .423 | 752 | 187.0 | 166 | 18 | 34 | 9 | 7 | 87 | 2 | 0 | 67 | 58 | 2.79 | 1.07 | |
1973 | 35 | 7 | 0 | 0 | 0 | 5 | 8 | -- | -- | .385 | 424 | 102.2 | 103 | 12 | 22 | 2 | 4 | 49 | 0 | 0 | 47 | 41 | 3.58 | 1.22 | |
1974 | 27 | 9 | 2 | 1 | 0 | 3 | 5 | 0 | -- | .375 | 349 | 80.2 | 83 | 8 | 28 | 4 | 7 | 49 | 0 | 0 | 36 | 35 | 3.89 | 1.38 | |
1975 | 阪急 | 9 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | -- | .000 | 80 | 19.1 | 26 | 4 | 2 | 0 | 0 | 7 | 1 | 0 | 12 | 12 | 5.68 | 1.45 |
1976 | 13 | 8 | 4 | 2 | 0 | 4 | 3 | 0 | -- | .571 | 269 | 61.1 | 68 | 8 | 22 | 0 | 2 | 15 | 2 | 0 | 28 | 26 | 3.84 | 1.47 | |
1977 | 中日 | 12 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 | -- | .000 | 124 | 24.2 | 37 | 7 | 11 | 2 | 1 | 13 | 1 | 0 | 25 | 20 | 7.20 | 1.95 |
1978 | 26 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | -- | 1.000 | 158 | 37.0 | 47 | 7 | 6 | 0 | 2 | 18 | 0 | 0 | 24 | 22 | 5.35 | 1.43 | |
1979 | 南海 | 36 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 250 | 57.0 | 67 | 7 | 10 | 0 | 3 | 35 | 0 | 0 | 30 | 25 | 3.95 | 1.35 |
1980 | 15 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 114 | 24.0 | 34 | 7 | 9 | 1 | 0 | 6 | 0 | 0 | 17 | 13 | 4.88 | 1.79 | |
通算:19年 | 462 | 136 | 46 | 15 | 15 | 79 | 81 | 1 | -- | .494 | 6113 | 1508.2 | 1417 | 167 | 264 | 35 | 55 | 758 | 8 | 2 | 612 | 539 | 3.21 | 1.11 |
- 各年度の太字はリーグ最高
表彰
[編集]- CPBL
- 最佳総教練(最優秀監督):2回 (1995年、1996年)
記録
[編集]- NPB
- オールスターゲーム出場:4回 (1967年、1970年 - 1972年)
背番号
[編集]- 37 (1962年 - 1966年)
- 19 (1967年 - 1978年)
- 60 (1979年)
- 53 (1980年)
- 77 (1993年 - 1996年)
脚注
[編集]- ^ a b “大石弥太郎さん死去 80歳、カープ元投手”. 中国新聞. (2024年2月25日) 2024年2月26日閲覧。
- ^ a b c d e f g プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、97ページ
- ^ a b c d e f g h ベースボールマガジン2011年5月号、2011年03月19日、B004PIZXPK、ベースボール・マガジン社。
- ^ 幻の野球アジアシリーズ~1995福岡 (野球)All About
- ^ ニュース|大石弥太郎さん死去
- ^ OKINAWAフルーツランド
- ^ チーム情報 2006年 登録・変更情報 日本野球連盟(JABA)
- ^ エナジック | 社会人野球ドットコム
- ^ 石嶺が感じた落合監督と同じオーラ/上田氏編14 - プロ野球 : 日刊スポーツ
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 個人年度別成績 大石弥太郎 - NPB.jp 日本野球機構