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大茅村

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
おおかやそん
大茅村
廃止日 1952年11月1日
廃止理由 新設合併
成器村大茅村大成村
現在の自治体 鳥取市
廃止時点のデータ
日本の旗 日本
地方 中国地方山陰地方
都道府県 鳥取県
岩美郡
市町村コード なし(導入前に廃止)
面積 33.79 km2
総人口 1,402
鳥取県統計書、1950年)
隣接自治体 成器村、小田村蒲生村
兵庫県美方郡八田村
大茅村役場
所在地 鳥取県岩美郡大茅村大字栃本字山ヶ鼻471番地
地図
旧・大茅村役場庁舎位置
座標 北緯35度28分13秒 東経134度21分46秒 / 北緯35.47017度 東経134.36286度 / 35.47017; 134.36286座標: 北緯35度28分13秒 東経134度21分46秒 / 北緯35.47017度 東経134.36286度 / 35.47017; 134.36286
特記事項 村役場は現在の大茅地区公民館付近に所在した
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大茅村(おおかやそん)は、鳥取県岩美郡にあった自治体である。1896年(明治29年)3月31日までは法美郡に属した。

概要

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現在の鳥取市(旧国府町)のうち、国府町拾石・国府町楠城・国府町下木原・国府町木原・国府町雨滝・国府町栃本・国府町石井谷・国府町大石・国府町菅野に相当する。袋川(雨滝川)上流域に位置した。

藩政時代には鳥取藩領の法美郡大茅郷(おおかやのごう)に属する拾石村・楠城村・下木原村・木原村・雨滝村・栃本村・石井谷村・大石村・菅野村があった[1][2]

栃本(とちもと)は栃の木に由来するとされる。また土地の本、つまり地域の中心を表し「栃」は「土地」の当て字とも言われる。 地内には国指定史跡の栃本廃寺跡(en)があり、また大茅村の中心として役場や小学校が置かれた[1]

雨滝(あめだき)には著名な雨滝があり、村名もこれに由来する[1]

木原(きはら)は太古には大木の繁る原っぱであったことが由来と伝承されている。集落の下手、雨滝川を距てて下木原(しもきはら)があり、鳥取藩史には元禄14年(1701年)に木原村から分村とある[1]

石井谷(いわいだに)は石井郡(かつての巨濃郡、後の岩井郡)へ抜ける谷の入口であったことからと伝承されている[1]

大石(おおいし)には周囲26m、高さ2.5mの巨石があり、村のシンボルとして信仰の対象となりこの地に大石神社が建てられた。この巨石から大石の地名となったと言われる[1]

菅野(すがの)には菅野大明神があり、側に宮司一人しか住んでいなかったと因幡志にはある[1]

楠城(なわしろ)は元禄の頃は苗代と書かれていた。それから十数年後の享保元年(1716年)の郷村高辻帳には「楠城郡、古は苗代村」と書かれている。村内には2箇所の城址がありいずれも楠氏のものであるという伝説が残されている。米の収穫高から「苗代」が生まれ、楠氏ゆかりの地から「楠城」と変化したと考えられる[1]

拾石(じっこく)は戦国期には「十黒」と書かれていたが江戸期に入ると「拾石」となっており、その理由は明らかになっていない。村には「川向うに豆の木があり、一本から十石が取れたので十石村と言うようになった」という伝承があり、農業の収穫量が多いことを誇示するためではないかとも考えられる。1999年(平成11年)頃から殿ダム建設に伴い住民のほとんどが集落を離れている[1]

沿革

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  • 1881年(明治14年)9月12日 - 鳥取県再置。
  • 1883年(明治16年) - 中河原村(後の登儀村大字中河原)に置かれた連合戸長役場の管轄区域となる。
  • 1889年(明治22年)10月1日 - 町村制施行により、拾石村・楠城村・下木原村・木原村・雨滝村・栃本村・石井谷村・大石村・菅野村が合併して村制施行し、大茅村が発足。旧村名を継承した9大字を編成し、役場を栃本村に設置[3][4]
  • 1896年(明治29年)4月1日 - 郡制の施行により、邑美郡・法美郡・岩井郡の区域をもって岩美郡が発足し、岩美郡大茅村となる。
  • 1914年(大正3年)10月1日 - 「大茅村大字○○村」から大字の「村」を削除し、「大茅村大字○○」と改称[5]
  • 1915年(大正4年)8月15日 - 役場位置を大字栃本字山ヶ鼻471番地に変更[6]
  • 1952年(昭和27年)11月1日 - 成器村と合併して大成村が発足。同日大茅村廃止[7]

行政

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歴代村長

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氏名 就任年月日 退任年月日 出身 備考
森原元七 1889年(明治22年)11月4日 1893年(明治26年)2月25日 栃本
岡本光重郎 1893年(明治26年)3月10日 1897年(明治30年)3月17日 木原
岡本光重郎 1897年(明治30年)3月18日 1901年(明治34年)12月20日 木原
岡本光重郎 1901年(明治34年)12月26日 1903年(明治36年)8月23日 木原
岡本光重郎 1903年(明治36年)8月30日 1904年(明治37年)3月30日 木原
北村幾太郎 1904年(明治37年)4月12日 1905年(明治38年)11月4日 雨滝
山本利二 1905年(明治38年)11月21日 1908年(明治41年)5月23日 楠城
岸本長吉 1908年(明治41年)7月4日 1908年(明治41年)8月1日 雨滝
岡本光重郎 1908年(明治41年)8月15日 1909年(明治42年)3月30日 木原
村川九三郎 1909年(明治42年)4月3日 1909年(明治42年)5月21日 鳥取市二階町
小林友蔵 1909年(明治42年)6月1日 1910年(明治43年)3月21日 大石
岸本虎吉 1910年(明治43年)4月10日 1911年(明治44年)11月6日 雨滝
山本利二 1911年(明治44年)11月30日 1915年(大正4年)3月7日 楠城
山本利二 1915年(大正4年)12月14日 1919年(大正8年)3月13日 楠城
山本利二 1919年(大正8年)12月20日 1923年(大正12年)12月19日 楠城
山本利二 1923年(大正12年)12月20日 1927年(昭和2年)12月19日 楠城
岸本虎吉 1928年(昭和3年)3月26日 1932年(昭和7年)3月20日 雨滝
岸本虎吉 1932年(昭和7年)3月27日 1936年(昭和11年)3月26日 雨滝
野津三男 1936年(昭和11年)4月29日 1940年(昭和15年)4月28日 大石
野津三男 1940年(昭和15年)4月29日 1944年(昭和19年)4月28日 大石
野津三男 1944年(昭和19年)4月29日 1946年(昭和21年)10月24日 大石 後に初代国府町議会議長に就任
高橋民雄 1947年(昭和22年)4月8日 1951年(昭和26年)4月7日 石井谷
高橋民雄 1951年(昭和26年)4月8日 1952年(昭和27年)10月31日 石井谷 後に大成村長に就任
参考文献 - [1]

教育

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  • 大茅村立大茅小学校(後の国府町立大茅小学校
  • 宇倍野村外六ヵ村学校組合立邑法第三中学校(大茅教場):1947年(昭和22年)に成器村・大茅村の組合立大成中学校として創設されたが邑法地区7ヶ村(旧邑美郡・法美郡の宇倍野村面影村津ノ井村米里村倉田村・成器村・大茅村)における組合立の関係から1949年(同24年)に改称[8]。大成村発足後の1954年(同29年)に再び大成中学校と改称、この年に大茅教場は廃止され成器校舎に一本化された[1]

交通

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出身者

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脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m 国府町誌(国府町誌編さん・編集委員会、1987年)、改訂 国府町誌(改訂国府町誌編纂・編集委員会、2004年)
  2. ^ 角川日本地名大辞典 鳥取県「大茅郷(近世)」
  3. ^ 鳥取県改正市町村名及役場区域 明治22年10月改正(横山敬次郎、1889年)
  4. ^ 鳥取県町村合併誌102頁(鳥取県、1964年)
  5. ^ 「字名改称」『官報』1914年9月21日国立国会図書館デジタルコレクション)
  6. ^ 「村役場位置変更」『官報』1915年8月21日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  7. ^ 「鳥取県告示第489号・市町村の廃置分合」『鳥取県公報 号外第28号』1952年10月14日鳥取県立公文書館
  8. ^ 「鳥取県教育委員会告示第21号・中学校の設置並に廃止認可」『鳥取県公報 第2003号』1949年4月19日(鳥取県立公文書館)

関連項目

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