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宇喜多秀高

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
宇喜多秀高
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 天正19年(1591年)7月
死没 慶安元年8月18日1648年10月4日
別名 秀隆[1]、秀矩[3]、家矩[4]、家親[2]
通称:孫九郎
戒名 秀光院殿雲照居士
墓所 東京都八丈町の宗福寺および長楽寺が菩提所、大賀郷の稲場墓地に墓石
官位 従四位下侍従
幕府 江戸幕府
主君 豊臣秀頼
氏族 宇喜多氏豊臣氏
父母 父:宇喜多秀家、母:豪姫
兄弟 秀高秀継
奥山忠久の娘
クス(奥山平太夫次善の室)、秀正(太郎助)
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宇喜多 秀高(うきた ひでたか)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武士宇喜多秀家嫡男。母は前田利家の娘で豊臣秀吉の養女の豪姫官位従四位下侍従。通称は孫九郎[5]。別名は秀隆[1]

生涯

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天正19年(1591年)7月、備前岡山大名・宇喜多秀家と豪姫の次男として生まれる(『北野社家日記』)[6]。出産は京都の秀家屋敷であったとみられるが、豪姫は出産後病気となり吉田兼見の祈祷を受けている[7]

秀家と豪姫の間には既に天正17年生まれの長男がいたため、秀家は北野社祠官・梅松院禅永に次男を養子として差し上げることを申し出ている[8]。しかし禅永は姉または妹のおさこが豊臣秀次の側室であったため、文禄4年(1595年)の秀次事件によるおさこの処刑に伴い逐電しており、もし養子になっていたとしてもこのときに宇喜多家に戻されたとみられる[9]

天正19年時点では存命だった長男はそれ以降に早世したために、次男の孫九郎が嫡男に立てられたとみられる[10]

慶長2年(1597年)正月5日、孫九郎は秀家の嫡男・豊臣秀隆として正五位下に叙され、同年9月27日に侍従に任官、翌28日に従四位下に昇叙された[11]

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に属して敗戦し、父と共に薩摩島津義弘を頼って落ち延びたが、慶長8年(1603年)に島津忠恒(義弘の子)によって徳川家康の下へ身柄を引き渡された[要出典]

慶長11年(1606年)、父の流罪に従い八丈島に流される[12]。米や料紙などの支援を行っていた実祖母・芳春院の書状によれば、八丈島での孫九郎は精神に異常をきたしてしまったという[13]

その後、百姓になり[要出典]、代官・奥山忠久(縫殿助)の娘(『八丈実記』)または三根村彦七娘(『宇喜多中納言家系』)を娶り、太郎助秀正、くすの一男一女を儲けたという[14]

慶安元年(1648年)8月18日、父に先立って食傷のため死去、享年58[14]。戒名は秀光院殿雲照居士[5]

脚注

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  1. ^ a b 高柳 & 松平 1981, p.40
  2. ^ a b c 岡山市 1922, p.1644-1645
  3. ^ 『八丈年代記』による嫡子の名[2]
  4. ^ 『海島誌』による[2]
  5. ^ a b 大西 2019, pp. 181–183.
  6. ^ 大西 2019, pp. 106, 181–183.
  7. ^ 大西 2019, pp. 106–109.
  8. ^ 大西 2019, p. 106.
  9. ^ 大西 2019, pp. 183–184.
  10. ^ 大西 2019, p. 183.
  11. ^ 大西 2019, pp. 188–189.
  12. ^ 大西 2019, p. 237.
  13. ^ 大西 2019, pp. 240–241.
  14. ^ a b 大西 2019, pp. 241–242.

参考文献

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  • 岡山市 編「国立国会図書館デジタルコレクション 宇喜多秀家史料」『岡山市史. 第2』岡山市、1922年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1261440/337 国立国会図書館デジタルコレクション 
  • 高柳光寿; 松平年一『戦国人名辞典』吉川弘文館、1981年、40-41頁。 
  • 大西, 泰正『「豊臣政権の貴公子」宇喜多秀家』株式会社KADOKAWA〈角川新書〉、2019年9月10日。ISBN 978-4-04-082287-7