宇喜多秀高
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時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
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生誕 | 天正19年(1591年) |
死没 | 慶安元年8月18日(1648年10月4日) |
別名 |
秀隆[1]、秀矩[3]、家矩[4]、家親[2] 通称:孫九郎、侍従 |
戒名 | 秀源院殿浄雲居士 |
墓所 | 東京都八丈町の宗福寺および長楽寺が菩提所、大賀郷の稲場墓地に墓石 |
官位 | 従四位下侍従 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 豊臣秀頼 |
氏族 | 宇喜多氏 |
父母 | 父:宇喜多秀家、母:豪姫 |
兄弟 | 秀高、秀継 |
妻 | 奥山忠久の娘 |
子 | クス(奥山平太夫次善の室)、秀正(太郎助) |
宇喜多 秀高(うきた ひでたか)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての人物。宇喜多秀家の嫡男。母は前田利家の娘で豊臣秀吉の養女の豪姫。官位は従四位下侍従。別名は秀隆[1]。
生涯
[編集]天正19年(1591年)、備前岡山の大名・宇喜多秀家の嫡男として生まれる。通称は孫九郎。
慶長2年(1597年)、従四位下侍従に叙任され、豊臣姓を賜る。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に属して敗戦し、父と共に薩摩の島津義弘を頼って落ち延びたが、慶長8年(1603年)に島津忠恒(義弘の子)によって徳川家康の下へ身柄を引き渡された。
慶長11年(1606年)、父の流罪に従い八丈島に流される。その後、百姓になり、八丈島奉行奥山忠久(縫殿助)の娘を娶る。母の実家加賀より毎年米70俵金70両を贈られ、それを流罪になった同族らで分配していた。
慶安元年(1648年)8月18日、父に先立って死去。享年58。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 岡山市 編「国立国会図書館デジタルコレクション 宇喜多秀家史料」『岡山市史. 第2』岡山市、1922年 。
- 高柳光寿; 松平年一『戦国人名辞典』吉川弘文館、1981年、40-41頁。