室谷忠一
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室谷 忠一 | |
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生誕 |
1892年1月27日 日本 和歌山県 |
死没 | 1976年1月25日(83歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1912年 - 1945年 |
最終階級 | 陸軍少将 |
室谷 忠一(むろや ちゅういち、1892年(明治25年)1月27日[1] - 1976年(昭和51年)1月25日[1])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。功四級[2]。
経歴
[編集]1892年(明治25年)に和歌山県で生まれた[1]。陸軍士官学校第24期卒業[1]。1937年(昭和12年)10月に歩兵第68連隊補充隊長に就任し[2]、1938年(昭和13年)3月1日に陸軍歩兵大佐に進級[2]。7月7日に歩兵第78連隊長(第1軍・第20師団・歩兵第39旅団)に転じ[1][2]、日中戦争に出動した[1]。
1940年(昭和15年)9月に東京陸軍兵器補給廠長を経て[2]、1941年(昭和16年)7月8日に第25軍兵器部長(南方軍)に就任し[1][2]、8月25日に陸軍少将に進級[2]。太平洋戦争開戦後はシンガポール攻略戦に出征した[1]。1942年(昭和17年)12月に第52歩兵団長に転じ[1]、1943年(昭和18年)5月に第51歩兵団長(第18軍・第51師団)に着任[1]。東部ニューギニア戦線に出征し[1]、サラモア戦、サラワケット山脈越えなど悪戦苦闘の連続であった[1]。1944年(昭和19年)2月5日に留守第51師団司令部附を経て[1]、4月6日に第81師団司令部附(第36軍)となり[1]、茨城県結城で本土決戦に備える中で終戦となった[1]。終戦後の10月14日に予備役に編入された[2]。
1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[3]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 福川秀樹 編著『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。ISBN 4829502738。
- 外山操 編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。ISBN 4829500026。