寺内寿一
表示
(寺内壽一から転送)
伝記の記載を年譜形式のみとすることは推奨されていません。 |
寺內 壽一 | |
---|---|
| |
生年月日 | 1879年8月8日 |
出生地 | 日本 東京府[1] |
没年月日 | 1946年6月12日(66歳没) |
死没地 | マラヤ レンガム |
出身校 |
陸軍士官学校(11期) 陸軍大学校(21期) |
称号 |
元帥陸軍大将 従二位 勲一等旭日大綬章 功一級金鵄勲章 伯爵 |
親族 |
寺内正毅(父) 寺内毅雄(弟) |
第24代 陸軍大臣 | |
内閣 | 廣田内閣 |
在任期間 | 1936年3月9日 - 1937年2月2日 |
寺内 寿一(てらうち ひさいち、旧字体:寺內 壽一、1879年(明治12年)8月8日 - 1946年(昭和21年)6月12日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は元帥陸軍大将、位階は従二位、勲等は勲一等、功級は功一級、爵位は伯爵。東京府生まれ、東京府育ち[1]。山口県出身。
第18代内閣総理大臣などを歴任した元帥陸軍大将寺内正毅の長男で、皇族以外では陸海軍を通して親子2代で元帥府に列せられた唯一の人物である。
陸軍大臣在任時は、衛生省(厚生省、現・厚生労働省)の設立を提唱。太平洋戦争期には、編成時から一貫して南方戦線の陸軍部隊を統括する南方軍総司令官を務めた。
生涯
[編集]- 1879年(明治12年)8月8日、東京府にて出生する。
- 1882年(明治15年)4歳の時、父のフランス留学により、東京から山口県吉敷郡宮野村(現・山口市)の伯母・中島ふじ宅へ転居。3年後、父の帰国により東京へ戻る。麹町の幼稚園を経て、1888年(明治21年)高等師範学校附属学校小学科(現・筑波大学附属小学校)入学[1]。
- 1897年(明治30年)3月 高等師範学校附属尋常中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)卒業
- 1899年(明治32年)11月 陸軍士官学校(11期)卒業
- 1900年(明治33年) 6月22日 任 歩兵少尉
- 1902年(明治35年)11月15日 任 歩兵中尉
- 1903年(明治36年) 7月 1日時点 近衛歩兵第2聯隊附
- 1904年(明治37年) 3月 日露戦争に出征
- 9月16日 任 歩兵大尉
- 1909年(明治42年)12月 陸軍大学校(21期)を卒業
- 1911年(明治44年)10月18日 任 歩兵少佐
- 1912年(明治45年) 7月 1日時点 墺国大使館附武官輔佐官
- 1914年(大正3年) 7月 1日時点 陸軍省軍務局(獨国駐在)
- 1916年(大正5年) 11月15日 任 歩兵中佐
- 1917年(大正6年) 9月 1日時点 歩兵第2聯隊附
- 1918年(大正7年) 9月 1日時点 参謀本部々員
- 1919年(大正8年) 7月25日 任 歩兵大佐
- 1919年(大正8年) 12月 伯爵を襲爵
- 1920年(大正9年) 9月 1日時点 近衛歩兵第3聯隊長
- 1923年(大正12年) 9月近衛師団参謀長 1日時点
- 1924年(大正13年) 2月 4日 任 少将
- 1926年(大正15年) 3月 2日 補 第1師団司令部附
- 同年9月 山陽本線特急列車脱線事故に遭遇
- 1927年(昭和2年) 8月26日 補 朝鮮軍参謀長
- 1929年(昭和4年) 8月 1日 任 中将
- 1929年(昭和4年) 8月 1日 補 独立守備隊司令官
- 1930年(昭和5年) 8月 1日 補 第5師団長
- 1932年(昭和7年) 1月 9日 補 第4師団長
- 1933年(昭和8年) 6月17日 ゴーストップ事件
- 1934年(昭和9年) 8月 1日 補 台湾軍司令官
- 1935年(昭和10年)10月30日 任 大将
- 1936年(昭和11年) 3月9日 任 陸軍大臣(廣田内閣)
- 1937年(昭和12年)1月 政友会の代議士浜田国松と腹切り問答
- 二・二六事件の後、陸相として皇道派の追放(粛軍)を主導し、「追放された連中が陸相になれないように」との口実で軍部大臣現役武官制を復活させる等、軍部の影響力を増大させている。また、1937年(昭和12年)1月21日、「腹切り問答」後に議会解散を要求し、二日間の議会停会の後、廣田内閣を総辞職に追い込んだ。
- 廣田内閣総辞職後、宇垣一成に組閣の大命が降下されるが、湯浅倉平内大臣の事前打診に「もういい時分だ」と確言したにもかかわらず、石原莞爾ら陸軍中堅将校の猛反対を背景に陸相を推挙せず、宇垣内閣を流産に導く。宇垣は陸相在任時、予備役編入が内定した寺内の「母の胎内にいる時から陸軍に育った私です。任地は由良でも澎湖島の要塞でも結構ですから、どうか一生陸軍に置いて頂きたい」との言葉にほだされ、彼を現役に留めた恩人であった[2]。
- 1937年(昭和12年)2月 教育総監
- 1937年(昭和12年)8月 北支那方面軍司令官
- 1945年(昭和20年)9月12日 シンガポールで降伏文書調印式が行われるが、病床にあったために出席できず、隷下の第7方面軍司令官で実質的な南方軍総司令官であった板垣征四郎大将が代理出席した。
- 1946年(昭和21年)6月12日、 マレーシアのレンガムで拘留中に脳溢血のため死去[3]。享年68(満66歳没)。シンガポールの日本人墓地に記念墓がある他、山口市の山崎陸軍墓地にも墓所がある。
逸話
[編集]- 育ちが良く、周囲や部下に細密な気配りができ、陸軍では下士官や兵に人気があった。ただ、一方で幼少時は同級生を暴行していたとも伝えられる。作家永井荷風とは高等師範学校附属尋常中学校時代の同窓生(永井は病気で休学していた期間があり、復学した時に同期となった)だが、山田風太郎の回想によると、軟派学生だった永井を看過出来なかった寺内は、永井に対して暴行を加えたこともあったという[4]。
- 松前重義が東條英機によって懲罰召集され、勅任官である逓信省局長にもかかわらず、二等兵として南方に送られて来た際には、総司令官名での辞令を連発して、事実上スーツ姿で軍政顧問として働くようにさせた。陸軍の最長老で元帥でもある寺内にはさすがの東條もやり返せず、そのままになったが、そもそも松前が南方に送られたのは東条失脚の後である。長州閥に敵愾心を燃やした東條と長州閥のボスだった寺内正毅を父に持つ寺内寿一との関係は微妙なものがあった。
- 身長は170cm以上と、明治初期の生まれとしては高身長であった。
人物
[編集]陸軍元帥で華族の子息として生を受けるという恵まれた環境に育ち、身体的特徴としても容姿端麗で長身でであり、性格としては清潔、恬淡を旨とし金銭欲、権力欲、政治的野心のない純粋な軍人肌の人物であったとされる [5][6]。
栄典
[編集]- 位階
- 勲章等
- 1914年(大正3年)5月16日 - 勲四等瑞宝章[8]
- 1929年(昭和4年)9月4日 - 勲二等瑞宝章[9]
- 1942年(昭和17年)3月 - 功一級金鵄勲章
- 1943年(昭和18年)6月21日 - 元帥[10]
家族
[編集]子がなかったため、妻の姪を4歳から育て、その婿に萩銀行頭取で大地主の菊屋剛十郎の孫・嘉雄を迎え、跡継ぎとした[11][12]。
出典
[編集]- ^ a b c 国立国会図書館デジタルコレクション『大将の少年時代』174頁~189頁 (著者:中田千畝 出版者:実業之日本社 発行:1938年(昭和13年)8月1日) (2018年11月19日閲覧。)
- ^ 渡邊行男「宇垣一成」1993年 中公新書
- ^ 『朝日新聞』 1946年6月14日
- ^ 山田風太郎 『人間臨終図巻』 徳間書店
- ^ 「陸軍元帥 寺内寿一 明治12年~昭和21年〔山口〕」『NIDS防衛研究所』
- ^ 寺内寿一刊行会, 上法快男編著1978『元帥寺内寿一』芙蓉書房
- ^ 『官報』第1024号「叙任及辞令」1915年12月29日。
- ^ 『官報』第539号「叙任及辞令」1914年5月18日。
- ^ 『官報』第807号「叙任及辞令」1929年09月05日。
- ^ 『官報』第4931号「叙任及辞令」1943年6月22日。
- ^ 『元帥寺內寿一』芙容書房、1978年、p132
- ^ 『持丸長者国家狂乱篇: 日本を動かした怪物たち』広瀬隆、ダイヤモンド社, 2007年、p227
関連文献
[編集]- 『元帥寺内寿一』 同刊行会・上法快男編 「昭和軍事史叢書」芙蓉書房 1978年
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]軍職 | ||
---|---|---|
先代 原口初太郎 |
第5師団長 1930年 - 1932年 |
次代 二宮治重 |
先代 阿部信行 |
第4師団長 1932年 - 1934年 |
次代 東久邇宮稔彦王 |
先代 松井石根 |
台湾軍司令官 1934年 - 1935年 |
次代 柳川平助 |
先代 杉山元 |
教育総監 1937年 |
次代 畑俊六 |
先代 創設 |
北支那方面軍司令官 1937年 - 1938年 |
次代 杉山元 |
先代 創設 |
南方軍総司令官 1941年 - 1946年 |
次代 (代理)木下敏 |
公職 | ||
先代 川島義之 |
陸軍大臣 第42代:1936年 - 1937年 |
次代 中村孝太郎 |
日本の爵位 | ||
先代 寺内正毅 |
伯爵 寺内(正毅)家第2代 1919年 - 1946年 |
次代 華族制度廃止 |