寺西和史
最高裁判所判例 | |
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事件名 | 裁判官分限事件の決定に対する即時抗告 |
事件番号 | 平成10(分ク)1 |
1998年(平成10年)7月24日 | |
判例集 | 民集 第52巻9号1761頁 |
裁判要旨 | |
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最高裁判所大法廷 | |
裁判長 | 山口繁 |
陪席裁判官 | 園部逸夫・小野幹雄・千種秀夫・根岸重治・尾崎行信・河合伸一・遠藤光男・井嶋一友・福田博・藤井正雄・元原利文・大出峻郎・金谷利廣・北川弘治 |
意見 | |
多数意見 | 山口繁・小野幹雄・千種秀夫・根岸重治・井嶋一友・福田博・藤井正雄・大出峻郎・金谷利廣・北川弘治 |
意見 | なし |
反対意見 | 園部逸夫・尾崎行信・河合伸一・遠藤光男・元原利文 |
参照法条 | |
裁判所法49条,裁判所法52条1項,憲法21条1項,憲法82条1項,裁判官分限法2条,裁判官の分限事件手続規則7条,非訟事件手続法6条,非訟事件手続法13条,民訴法55条,民訴法148条,刑訴法35条,刑訴規則26条,刑訴規則27条 |
寺西 和史(てらにし かずし、1964年〈昭和39年〉8月26日 - )は、日本の元裁判官。兵庫県出身。
判事補であったときに組織的犯罪対策法案などに反対する集会に出席し法案に反対したととれる発言をしたことにより、1998年に分限裁判を受けた経緯がある。
人物
[編集]寺西は洛星高等学校卒業、京都大学法学部卒業。1990年、司法試験に合格。1993年、判事補に任官。
寺西は、被疑者を代用監獄(現:代用刑事施設)に送るべきではないという考えから、令状審査では拘置所に送る決定を常に下していた。しかし、検察官の準抗告によってほとんどの決定を覆されたため、やむなく被疑者が被疑事実を否認した事件に限って拘置所に送る決定を出すようにしたが、それでも大半が準抗告によって覆されたという。
1997年に令状によって傍受を可能とする組織的犯罪対策法案(犯罪捜査のための通信傍受に関する法律)の骨子が発表されると、旭川地方裁判所判事補であった寺西は「信頼できない盗聴令状審査」と題する批判を朝日新聞の読者欄に投稿、10月2日に掲載された。これによって、旭川地裁所長である鬼頭季郎から厳重注意処分を受けた。この時、田尾健二郎判事が寺西を批判する投書をし(「事実に反する令状言いなり」10月8日号掲載)、前田知克弁護士が田尾への反論を行っている(「事実に合った寺西氏の意見」10月10日号掲載)。なお、田尾判事は法案の元となる骨子の作成に携わっていた[1]。
1998年、組織犯罪対策法案反対派主催の集会で寺西(仙台地方裁判所に転任していた)に対してパネリストとして出席と発言を依頼された。一方、裁判所からはこれが裁判所法52条1号の「積極的に政治運動をすること」に該当するとしてパネリストとしての出席辞退を求められ[注釈 1]、寺西はパネリストとしてではなく一般参加者として出席する(1998年4月18日)。「集会でパネリストとして話すつもりだったが、泉山禎治仙台地裁所長に『処分する』と言われた。法案に反対することは禁止されていないと思う」と発言するに留まった。
しかし、当該集会に出席したことが裁判所から問題視され、仙台高等裁判所の分限裁判で裁判所法49条の職務上の義務に違反するとして戒告処分を受ける。寺西は即時抗告し最高裁判所の判断を仰ぐが、最高裁でも賛成10と反対5で戒告処分が妥当と判断された[3]。
その後、裁判官として再任拒否されるのではと危惧されたが、10年の任期を迎えた2003年4月に再任され、判事となった。
2012年4月1日付で神戸地方裁判所判事、2016年4月1日付で大阪高等裁判所判事、2019年4月1日付で高松高等裁判所判事に補せられている[4]。
著作
[編集]- 「愉快な裁判官」(河出書房新社)
- 共著
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ 『ジュリスト』1997年11月1日号(通巻1122号)「(座談会)整備要綱骨子の総括的検討(上)」松尾浩也、浅田和茂、渡邉一弘、岩村智文、田尾健二郎、岡田薫、三井誠
- ^ 『愉快な裁判官』(河出書房新社 ISBN 978-4309013473)
- ^ 裁判官分限事件の決定に対する即時抗告 - 裁判所
- ^ 裁判官検索:寺西和史
- ^ 「政治運動」で戒告経験の判事、依願退官 新聞で主張も 朝日新聞 2020年8月15日閲覧
外部リンク
[編集]- 「寺西判事補への裁判官分限法に基づく懲戒の申立に関する会長声明 - 日本弁護士連合会