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黒田職隆

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小寺職隆から転送)
 
黒田 職隆
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 大永4年(1524年
死没 天正13年8月22日1585年9月15日
改名 小寺満隆→小寺職隆→黒田職隆→小寺宗円
別名 識隆(のりたか)[1][注 1]、甚四郎、美濃守、兵庫助
戒名 心光院殿満譽宗圓大居士
墓所 黒田職隆廟(兵庫県姫路市飾磨区妻鹿)
大長寺福岡県福岡市中央区
主君 小寺政隆→小寺則職→小寺政職織田信長豊臣秀吉
氏族 小寺氏黒田氏(自称宇多源氏
父母 父:黒田重隆(異説あり[2])、母:妻鹿氏
兄弟 職隆高友井手友氏松井重孝
正室:明石正風の娘小寺政職の養女[3]
継室:神吉氏
側室:母里氏[4]
孝高利高利則直之、香山妙春(三木清閑の妻)、秋山妙円尼(虎、尾上武則の妻)、心誉春勢(一柳直末、のち伊藤是庵室)、浦上清宗[5]
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姫路市妻鹿にある黒田職隆の墓
黒田職隆の墓所全景

黒田 職隆(くろだ もとたか)は、戦国時代から安土桃山時代武将。子に黒田孝高[6]などがいる。号は宗円。

生涯

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大永4年(1524年)、黒田重隆の子として備前国邑久郡福岡(現在の岡山県瀬戸内市)にて生まれたと伝わる[7][8]。初名は満隆(みつたか)[1]。妻は小寺氏の養女で明石正風の娘[9]、後妻または側室として母里氏[4]、神吉氏がいた。

播磨国御着城主の小寺政職に仕え、天文12年(1543年)には政職の敵であった香山重道を討ち取った[要出典]。それらの功績から天文14年(1545年)、政職の養女を娶って家老に列せられると共に、小寺姓氏偏諱(「職」の1字)を与えられて小寺職隆と名乗り[7](異説あり)、播磨姫路城城代になった。職隆は百間長屋を建てて貧しい者や下級武士、職人、行商人などを住まわせるなどして、配下に組み入れたり情報収集の場所としていた[10]

永禄7年(1564年)には、浦上政宗の二男・浦上清宗と自分の娘(官兵衛の妹[11][5]の婚姻を実現させた[11]。1月11日の婚礼当日、父・重隆のかつての主である赤松政秀の奇襲で浦上親子と娘が殺害され、職隆は政秀と対立したといわれている[11]。永禄10年(1567年)、子の孝高に、家督と小寺家の家老職を譲り[11]、自身は姫路城の南東に位置する国府山城(こうやまじょう)[注 2]隠居した。

永禄12年(1569年)、かねてより対立していた赤松政秀が、足利義昭を擁する織田信長に属した池田勝正別所安治の支援を受け、3,000の兵を率いて姫路城に攻め込んで来た[11]。迎撃に出るも実弟の井手友氏などを失い危機に陥っていた子・孝高救援のために自身も出馬して[要出典]勝利に貢献した(青山・土器山の戦い)。

その後、主君の小寺政職は織田氏に与するが、天正6年(1578年)に摂津有岡城主・荒木村重の謀反に呼応する向きを見せた。孝高は村重を説得するために有岡城に乗り込んだが失敗し、捕縛され牢に入れられた。孝高が幽閉され音信不通になってしまった事で黒田氏は当主不在となったが、この時、孝高の重臣7名が連署で主が不在の間は職隆の命に従う事を誓った書状を職隆に宛てて送っている[12]。こうした要請に応じて職隆は孝高が救出されるまでの間、黒田家当主の座に復帰し、織田氏から離反した小寺氏には与さず織田氏に変わらず味方する姿勢を示した。天正8年(1580年)、荒木村重の謀反鎮圧に伴い小寺政職が逃亡すると、その子・氏職を密かに引き取って養育していたという。その清廉で忠義一徹なところを羽柴秀吉にも賞賛され、後に姫路城の留守居を任された。

天正13年(1585年)8月22日、62歳で死去した[7][1]。播磨国飾東郡妻鹿村に葬られる[1]

没後

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天明3年(1783年)10月、第9代福岡藩主・黒田斉隆治世の時、墓所の発見が姫路の心光寺の僧・入誉上人より福岡藩黒田家に言上され[13]、新たに玉垣を廻らし墓所が整備された[14]。墓所は地元の人々によって代々守られ、「ちくぜんさん」の愛称で呼ばれる[要出典]。現在は姫路市指定文化財の史跡『黒田職隆廟所』になっている[13]。 また、福岡市光雲神社の摂社、堅盤神社に四神の一柱として奉じられ祀られている。[15]なお筑前福岡藩主となった黒田家が、最初に「百年忌法要」を行った(貞享元年)事がわかる人物である[要出典]

系譜

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関連作品

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テレビドラマ

脚注

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注釈

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  1. ^ 同書には、「今の呈譜、職隆もとたかに作る」と付記されている
  2. ^ 別名は妻鹿城・甲山城・功山城・袴垂城ともいう。
  3. ^ 小寺政隆あるいは小寺則職

出典

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  1. ^ a b c d 『新訂 寛政重修諸家譜 第七』 1965, p. 201.
  2. ^ 播磨鑑』によれば、小寺則職が父であるとし、通説とは異なる。また、『播磨御着郡誌』では則職の父・小寺政隆の養子になったとしている。
  3. ^ 『播磨御着郡誌』によると小寺政隆の養女とする。
  4. ^ a b c 母里氏の婿養子として家督を継いでいた母里小兵衛の未亡人。
  5. ^ a b c 『備前軍記』によると黒田孝高の娘とされているが、年齢的に合わず、孝高ではなく政職の子ではないかという説がある[要出典]。なお黒田氏の系図類ではその名は一切見られず、養女と見る向きもある[要出典]
  6. ^ 「荘厳寺本黒田家略系図」によると実際は養父にあたるという。ただし同系図の信憑性については他史料との乖離が大きいため、否定する意見もある。
  7. ^ a b c 諏訪 2013, p. 15.
  8. ^ 『黒田家譜』『備前軍記』
  9. ^ a b 諏訪 2013, p. 16.
  10. ^ 『週刊 日本の城14号』(デアゴスティーニ)
  11. ^ a b c d e f 三谷 2014, p. 15.
  12. ^ 『黒田家文書』
  13. ^ a b 黒田職隆廟所”. 姫路市. 2022年3月13日閲覧。
  14. ^ No.382 黒田家のご先祖さがし”. 福岡市博物館. 2022年3月14日閲覧。
  15. ^ 光雲神社公式ホームページ”. 光雲神社. 2022年4月6日閲覧。
  16. ^ a b c 諏訪 2013, p. 25.
  17. ^ 橋本政次『姫路城史』より。

参考文献

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  • 『新訂  寛政重修諸家譜 第七』続群書類従完成会、1965年1月30日。 
  • 諏訪勝則『黒田官兵衛 「天下を狙った軍師」の実像』中央公論新社〈中公新書2241〉、2013年11月25日。ISBN 978-4-12-102241-7 
  • 三谷紘平『中津藩』現代書館〈シリーズ藩物語〉、2014年5月20日。ISBN 978-4-7684-7134-0 

関連項目

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外部リンク

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