岡田茂 (三越)
おかだ しげる 岡田 茂 | |
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岡田茂(『アサヒグラフ』1953年7月22日号) | |
生誕 |
1914年8月3日 日本・京都府京都市 |
死没 | 1995年7月20日(80歳没) |
出身校 | 慶應義塾大学文学部 |
職業 | 実業家 |
岡田 茂(おかだ しげる、1914年〈大正3年〉8月3日 - 1995年〈平成7年〉7月20日)は、日本の実業家。三越社長(1972年 - 1982年)[1]。
1972年(昭和47年)から老舗百貨店・三越の社長を10年務めて「流通界の革命児」と呼ばれたが、一方で三越社内にワンマン体制を敷いて「岡田天皇」とも呼ばれるほどの権勢をふるった。愛人の竹久みちへの不正な利益供与など背任行為問題を起こしたことで1982年(昭和57年)の「三越事件」により社長職を解任され、後に特別背任で逮捕、裁判で有罪判決を受けるなど、明暗二様を生きた。
経歴
[編集]前半生
[編集]1914年(大正3年)に京都府京都市で生まれた。しかし、ほとんど東京府(現在の東京都)で育つ[2][注釈 1]。1938年(昭和13年)、慶應義塾大学文学部を卒業した[1][3]。
三越社員
[編集]大学卒業の同年、三越に入社[1]。宣伝部長を経て、銀座店店長となり、同店店長時代にはヤングファッションを中心とする営業政策や日本マクドナルドのテナント入りで成績を上げた。これによって、岡田は当時の三越社長・松田伊三雄の高評を得る一方、すでに社内での公私混同ぶりが問題視されるようにもなっていた。
専務時代の1970年(昭和45年)には、ニッポン放送の高崎一郎と共に、日本初のテレビショッピング番組とも言われる『東京ホームジョッキー』(フジテレビ、後の『リビング4』)を立ち上げている。
三越社長
[編集]1972年(昭和47年)に松田の後任として三越社長に就任。「これからは物だけ並べて売る時代じゃなくなるから、旅行、趣味、教育、医療にも目を向けろ。いずれ来る高齢化社会に備えて百貨店が他と差別化して何ができるか考えろ」と語るなど、百貨店経営においてユニークな発想を持っていた。社長としては決断力が高く指示が非常に早かったが、社内では「岡田天皇」と呼ばれるほどのワンマン体制を築き、自身のライバルとされていた坂倉芳明を常務の座から追い出すなど、意に沿わぬ人物を次々と粛清するなどした[注釈 2]。
三越事件
[編集]岡田の強引な経営手法は1982年(昭和57年)6月には優越的地位の濫用で公正取引委員会から審決を受ける。そして同年8月の「古代ペルシャ秘宝展」で偽物騒ぎが発生、さらに「三越の女帝」と呼ばれた愛人の竹久みちへの不当な利益供与も明るみに出た。こうした中、水面下では三井銀行の小山五郎相談役などの三井グループの幹部や三越の反岡田派を中心とした「岡田おろし」の準備が進められていた。
同年9月22日には取締役会が行われたが、その途中で岡田は腹心の専務、杉田忠義に議長を交代した。そこで杉田は秘密裏に計画していた岡田解任決議案を発議、16対0で可決成立し、その場で岡田は非常勤取締役に降格となった。このとき岡田が発したとされる言葉「なぜだ!」は流行語となる[1]。
10月に竹久が特別背任で逮捕、10月29日に岡田自身も逮捕される。逮捕の際に取締役を辞任、これ以後三越とは株主の一人としてのつながりだけになった。1987年(昭和62年)に東京地裁で懲役3年6ヶ月の実刑判決、控訴審の東京高裁で1993年(平成5年)に懲役3年の実刑判決が出され、上告するが係争中の1995年(平成7年)7月20日、腎不全のため死去。80歳没。また竹久も懲役2年6月、罰金6000万円の実刑判決が確定、栃木刑務所に収監され、岡田の死から14年後の2009年(平成21年)7月24日に死去した。
栄典
[編集]家族
[編集]- 妻:幾子 大阪府立清水谷高等女学校卒業。
- 長男:茂男(1945年 - )は、慶應義塾大学工学部卒業。三井物産勤務を経て、ダイキン顧問を務めた。
- 次男:之夫(1947年 - )は、慶應義塾大学商学部卒業後、1969年にTBSに就職し、おもに社会部の報道畑を務めたが、父の茂が刑事事件を起こしたため海外勤務に転じ、天安門事件当時の北京支局長などを務めた。その後、「NEWS23」を担当する報道制作局長となったが、1999年に電車内での痴漢行為により、現行犯逮捕され、依願退職している。
- 長女:幾美子(1948年 - )は、学習院大学卒業後、旧皇族竹田恒徳の次男である恒治に嫁いだ。なお、長男である竹田恒昭は、2015年に大麻所持で逮捕されている。
エピソード
[編集]- 慶應義塾大学予科在学時に『予科会誌』に当選した小説作品「泡沫」を東京アド・バンク社から1980年1月に出版しており、冒頭40ページを割いて、戸板康二、五木寛之、内村直也、中村汀女、池田弥三郎、杉村春子、ペギー葉山など著名人10人の序文を載せるという形を取っていた。
- 大学での卒業研究のテーマは「井原西鶴論」で、井原西鶴を「あれほど商売を書いた人はいない」と高く評価していた。その才覚を宣伝畑で生かしたと評価されていた[2]。
- 「ヤング」路線をヒットした銀座店長時代の実績もあり、社長就任当初は前社長より19歳若返った「ヤング社長」として高く評価されていた。本人は自らがヤングであることは否定したものの、70歳でもヤングな人はいるのでヤングかどうかは肉体的な年齢ではないというのが持論だった[2]。
- 高杉良の小説、「王国の崩壊」(新潮文庫)は岡田をモデルとしており、大下英治の経済小説、「小説三越・十三人のユダ」も岡田の解任劇までをモデルにしている。また、警視庁刑事の萩生田勝の「警視庁捜査二課」で岡田を取り調べたエピソード、見沢知廉の「囚人狂時代」には東京拘置所時代の岡田の姿が描かれている。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 慶応義塾編『慶応義塾塾員名簿 昭和17年版』慶応義塾、1924-1942年。