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川崎祭

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
川崎祭
場所
標的 川崎憲次郎(当時中日ドラゴンズ所属)
日付 2003年(平成15年)
4月25日(組織票を呼び掛けるスレッドが立つ)[1] – 7月2日(川崎がオールスター出場辞退を届け出)[2] (UTC+9日本標準時〈JST〉))
概要 2001年にFAの権利を行使してヤクルトスワローズから中日へ移籍したが、故障により3年間一軍公式戦で登板できていなかった川崎に対し、インターネット掲示板の利用者たちが2003年のオールスターゲーム(球宴)ファン投票で「先発投手部門」の1位を獲得させるため組織票を大量に投票した[1]
攻撃手段 組織票
被害者 川崎憲次郎[3]
犯人 不特定多数のインターネットユーザーによる
動機 川崎への嫌がらせ[3]
影響 川崎はファン投票の「先発投手部門」で1位に選出されたがこれを辞退し、球宴には出場しなかった[4]
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川崎祭(かわさきまつり)とは2003年、当時中日ドラゴンズに所属していた川崎憲次郎投手オールスターゲームのファン投票で1位にするためネット上で繰り広げられた大量組織票工作である。

2ちゃんねる(現:5ちゃんねる)での呼びかけが発端でこの騒動が起こった[1]

翌2004年以降、オールスターのファン投票のインターネット投票は「会員登録制で1人1日5回(2008年からは1人1日1回)まで」とし、選手側にも投手は「5試合以上登板または10投球回以上」、野手は「10試合以上出場または20打席以上」といった、シーズン成績による選出基準が設けられるきっかけとなった[5]

概要

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川崎は2000年オフにFA宣言してヤクルトスワローズから中日ドラゴンズに移籍し、年俸2億円で3年6億円(4年契約で4年目は出来高制)という大型の契約を結んでいたが、中日移籍後の2年間(2001年2002年)は度重なる右肩痛で一軍公式戦では登板しておらず、ウエスタン・リーグ二軍)で数試合登板したのみであった[注 1][3]

中日移籍3年目となる2003年も二軍ウ・リーグで13試合に登板し4勝4敗(防御率5.58)の成績(3年連続一軍未登板)に終わったが[8]、同年4月25日には2ちゃんねるのプロ野球板において「川崎憲次郎をオールスターファン投票1位にしよう。」というタイトルのスレッドが立ち、中日への移籍以降高額年俸に見合わない成績であった川崎にセ・リーグの先発投手部門のファン投票で1位を獲得させる組織的な投票が行われた[1]。5月20日の時点で、オールスター運営委員会では川崎へ多数の票が集まったことに違和感を持って調査を開始したところ、ある1台のパソコンからわずか半日で1,000票以上の大量投票がされていることが判明した[3]

結局、川崎はセントラル・リーグ(セ・リーグ)先発投手部門で最多票数を獲得したが[4]、ファン投票の最終結果が発表される7月3日を前に選出辞退の意向を表明し、球団もその旨をセントラル野球連盟を通じてNPBコミッショナー事務局へ届け出た[2]。結果、川崎が選出を辞退した[注 2]ためセ・リーグの先発投手は2位・井川慶阪神タイガース[注 3]が繰り上げで選出された[13]

この件について川崎は「正直言って困惑している。中日のために何も働いていない自分への叱咤激励ともとれるが、僕にとっては嫌がらせ。情けない気持ち」と述べたほか[3]、2003年6月23日付で日本プロ野球選手会(JPBPA)公式サイトに掲載されたコメントでは「何よりも自分自身が悔しい。今回の一票一票を自分への叱咤激励と思い、自分を応援し続けているファンへの恩返しとして一日も早く一軍登板できるように頑張る」と述べている[14]

この事件を機に翌2004年からインターネット投票は会員登録制で「1人1日5回(2008年からは1回)まで」とし、選手側も投手は「5試合以上登板または10投球回以上」、野手は「10試合以上出場または20打席以上」といった、シーズン成績による選出基準が設けられた[15]

その他

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2003年のその他の2ちゃんねるの投票運動として、セ・リーグの捕手にカツノリ野村克也を父親に持つ「親の七光り」への揶揄)や鈴衛佑規(2ちゃんねるで人気を博していた[注 4])、一塁手にトレイ・ムーア(本来のポジションは投手だが、打撃がよく打者としての出場を期待して)、パ・リーグのDHに松坂大輔(本来のポジションは投手だが、打撃力も高く、代打で登場して打点を挙げたこともある)、捕手に福澤洋一(この年限りでの引退が濃厚であったため)、三塁手に小笠原道大中村紀洋の1位阻止)、遊撃手(ショート)にリック・ショート(名前とポジションの名が同じ事から駄洒落)などが呼びかけられていた。結果としてセ・リーグの一塁手でムーアは3位になり、パ・リーグの三塁手には小笠原が2位の中村を抑えて1位となった。

類似事件

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アメリカメジャーリーグMLBオールスターゲームのファン投票では、以前からインターネット投票の1人当たりの投票数に制限が設けられており、1999年にはノマー・ガルシアパーラに対して1人で約4万票の自動投票が行われたことが発覚し、該当票を無効にされた例がある[16]

脚注

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注釈

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  1. ^ 2001年は二軍で1試合(2イニング)登板したのみで0勝0敗[6]・2002年も二軍で3試合登板したのみ(0勝2敗)だった[7]
  2. ^ 「出場を辞退した」という資料もあるが[9][2]、扱いは選出の辞退である[4]
  3. ^ 井川は同年20勝・防御率2.80の成績でセ・リーグ最優秀防御率最多勝利を記録し[10]、リーグ最優秀選手(MVP)[11]沢村栄治賞(沢村賞)を受賞している[12]
  4. ^ 一軍の試合にほとんど出場しない(2006年に引退するまでに2試合)にもかかわらず戦力外通告を受けないことからであった。

出典

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  1. ^ a b c d SPA! 2012年5月22日号 ニュースディープスロート
  2. ^ a b c 中日新聞』2003年7月2日夕刊第10版第二社会面10頁「川崎やはり球宴辞退 ファン投票1位、自分への激励 『実績ある選手の出る場所』」(中日新聞社
  3. ^ a b c d e 日めくりプロ野球 2012年6月 【6月17日】2003年 球宴中間発表 登板なしの川崎憲次郎 ファン投票1位のナゾ」『Sponichi Annex』スポーツニッポン新聞社、2012年6月17日(原著2003年6月17日)。オリジナルの2020年3月2日時点におけるアーカイブ。2020年3月2日閲覧。
  4. ^ a b c ファン投票結果 2003サンヨーオールスターゲーム”. NPB.jp. 日本野球機構(NPB). 2020年3月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年3月2日閲覧。
  5. ^ 「情けない気持ち」中日投手が前代未聞の事態にため息 ルール改正にも発展、オールスターファン投票で起こった“川崎祭””. 2021年6月27日(日)閲覧。
  6. ^ 手塚宣武 編『完全保存版 プロ野球セ・パ両リーグ12球団全選手カラー百科名鑑2002』 第26巻第3号(通算264号)、日本スポーツ出版社〈『ホームラン』2002年3月号増刊〉、2002年3月31日、97頁。 
  7. ^ 手塚宣武 編『完全保存版 プロ野球セ・パ両リーグ12球団全選手カラー百科名鑑2003』 第27巻第3号(通算270号)、日本スポーツ出版社〈『ホームラン』2003年3月号増刊〉、2003年3月29日、65頁。 
  8. ^ 手塚宣武 編『完全保存版 プロ野球セ・パ両リーグ12球団全選手カラー百科名鑑2004』 第28巻第3号(通算278号)、日本スポーツ出版社〈『ホームラン』2004年3月号増刊〉、2004年3月29日、49頁。 
  9. ^ 川崎憲次郎が明かす、ドラゴンズFA移籍後の「つらすぎる4年間」」『Sportiva集英社、2018年1月30日。オリジナルの2020年3月2日時点におけるアーカイブ。2020年3月2日閲覧。
  10. ^ 2003年 表彰選手 セントラル・リーグ表彰”. NPB.jp. 日本野球機構(NPB). 2020年3月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年3月2日閲覧。
  11. ^ 2003年度 表彰選手 投票結果(最優秀選手)”. NPB.jp. 日本野球機構(NPB). 2020年3月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年3月2日閲覧。
  12. ^ 2003年度 表彰選手 正力賞・沢村賞”. NPB.jp. 日本野球機構(NPB). 2020年3月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年3月2日閲覧。
  13. ^ 過去には登板ゼロで1位選出も…03年川崎は辞退」『Sponichi Annex』スポーツニッポン新聞社、2017年5月23日(原著2003年6月17日)。オリジナルの2020年3月2日時点におけるアーカイブ。2020年3月2日閲覧。
  14. ^ 川崎憲次郎 (2003年6月23日). “中日ドラゴンズ川崎憲次郎選手から~オールスターのファン投票について”. 日本プロ野球選手会 公式ホームページ. 日本プロ野球選手会. 2003年12月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年3月2日閲覧。
  15. ^ 「情けない気持ち」中日投手が前代未聞の事態にため息 ルール改正にも発展、オールスターファン投票で起こった“川崎祭””. 2021年6月27日(日)閲覧。
  16. ^ 「米球宴ネット投票 腕に覚えあり 1人で4万票」『朝日新聞』1999年7月13日付東京夕刊、2頁。

関連項目

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外部リンク

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