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川越博

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
川越博
かわごえ ひろし
生年月日 1911年2月17日
出生地 日本の旗 日本 宮崎県北諸県郡都城町
(現宮崎県都城市)
没年月日 (1968-11-09) 1968年11月9日(57歳没)
出身校 青山学院高等学部英語師範科卒業
(現青山学院大学)
前職 日向青年同志会常任委員
現職 都城育英会理事
文化放送総務局嘱託
通商産業大臣秘書官
外務大臣秘書官
所属政党 (日本協同党→)
(国民協同党→)
(改進党→)
日本民主党

選挙区 (宮崎県全県選挙区→)
旧宮崎2区
当選回数 2回
在任期間 1946年7月6日 - 1948年12月23日
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川越 博(かわごえ ひろし、1911年明治44年)2月17日[1]1968年昭和43年)11月9日[2]) は、昭和期の新聞記者、政治家秘書衆議院議員

経歴

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宮崎県[2]北諸県郡都城町[3](現都城市)で生まれた[注釈 1]。1932年(昭和7年)青山学院高等学部(現青山学院大学)英語師範科を卒業した[2][3][4]

報知新聞社に入社し政治部記者となる[2][3][4]。その後、東亜研究所嘱託、日本興亜同盟書記、輿論科学研究所理事、日向青年同志会常任委員などを務めた[2][3][4]

戦後、1946(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙に宮崎県全県区から日本協同党公認で出馬して落選したが[5]甲斐政治の辞職に伴い同年7月に繰上補充となった[2][6]。1947(昭和22年)4月の第23回総選挙宮崎県第2区から国民協同党公認で出馬して再選され[7]、衆議院議員に連続2期在任した[2][3][4]。この間、国民協同党中央委員、同青年部長、同出版部長などを務め[2][3]、広報担当として三木武夫の信頼を得た[3]。1949(昭和24年)1月の第24回総選挙に立候補したが落選[8]。以後、第26回改進党公認)、第27回総選挙日本民主党公認)に連続して立候補したが落選した[8]

その後、都城育英会理事、文化放送総務局嘱託などを務め、三木武夫の通商産業大臣秘書官、外務大臣秘書官にも就任した[2][3]

脚注

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注釈

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  1. ^ 『人事興信録 第15版 下』補遺16頁では東諸県郡本庄町(現国富町)。

出典

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  1. ^ 衆議院『第九十回帝国議会衆議院議員名簿』〈衆議院公報附録〉、1946年、33頁。
  2. ^ a b c d e f g h i 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』191頁。
  3. ^ a b c d e f g h 『宮崎県政外史』642頁。
  4. ^ a b c d 『人事興信録 第15版 下』補遺16頁。
  5. ^ 『衆議院議員総選挙一覧 第22回』1731頁。
  6. ^ 『官報』第5865号、昭和21年8月2日。
  7. ^ 『衆議院議員総選挙一覧 第23回』597頁。
  8. ^ a b 『国政選挙総覧 1947-2016』381頁。

参考文献

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  • 人事興信所編『人事興信録 第15版 下』人事興信所、1948年。
  • 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 第22回』衆議院事務局、1950年。
  • 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 第23回』衆議院事務局、1948年。
  • 宮崎県政外史編纂委員会編『宮崎県政外史』宮崎県政外史刊行会、1967年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 『国政選挙総覧 1947-2016』日外アソシエーツ、2017年。