常州牛堀

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『常州牛堀』
作者葛飾北斎
製作年1830年天保元年)から1834年(天保5年)ごろ[1][注釈 1]
種類多色刷木版画
寸法25.4 cm × 38.1 cm (10.0 in × 15.0 in)

常州牛堀」(じょうしゅううしぼり)は、葛飾北斎の代表作『富嶽三十六景』全46図の内の一図。1831-34年(天保2-5年[注釈 2][注釈 3])頃刊行。大判[注釈 4]錦絵落款は「前北斎為一笔(ぜん・ほくさい・いいつ・ひつ)」。版元は永寿堂西村屋与八

概要[編集]

『利根川図志』巻一より、利根川・霞ケ浦周辺の地図。「霞浦及西浦」の上、「箕和田『浦』」の左側の地名二つ目に「牛堀」がある。

「牛堀[注釈 5]」は、霞ヶ浦の南東端から流出する常陸利根川左岸にあり、現在の茨城県潮来市大字として残る。『三十六景』全図中、最も東に位置し、かつ最も富嶽から遠い距離(約175キロメートル[注釈 6])にある。

立体地図ソフト「カシミール3D」を駆使し、理論上、富士が見える場所を提示した田代博によると、常陸国南部は、西側に山地が接していない為、富嶽が見られる地区になっている[7]

徳川幕府利根川瀬替え政策により、東廻海運が当湊に寄港するようになり[注釈 7]遊廓が出来るほど栄えるが、本図が刊行される頃には、廻船は直接利根川本流に入るようになり、当地は水戸藩の輸送と霞ケ浦での漁業、鹿島香取両神宮参詣の宿としての利用に留まった[9][10]

当地は、赤松宗旦利根川図志』巻六にて、「牛堀 霞が浦入口なり 霞が浦ハ至て渡り難き海なれバ 此所に滞船して風をまつ故に 出入の船多く此河岸に集り また鹿島に至るに 利根川より横利根に入り 北利根を経て 浪逆(なさか)の海にいたる」 と言及されている[11][12]。本図でも船は帆柱を畳んでおり、風待ちしているものと思われる。

河村岷雪『百富士』巻四より「常州牛堀」

北斎が常州を訪れた確実な記録はないが[注釈 8]河村岷雪絵本『百富士』[注釈 9]巻四に同地からの富士が描かれており、同書からの援用が考えられる[16][17][18]

岷雪の画は、右に筑波山、左に富嶽を望み、霞ヶ浦・常陸利根川も広く取り入れた俯瞰図である。遠景に帆船が浮かぶ様は、『三十六景』「上總ノ海路」にも見られる構図である。

対して北斎は、「高瀬舟[注釈 10]を前面に大きく描写し、更にその手前に巌(いわお)を配する「近接拡大法」を取ることによって、岷雪の説明的な「実景」ではなく、力強い「売れる」絵を描いた。

狂歌画帖『みやこどり』より「三叉の月」。オランダ・ライデン国立民族学博物館蔵。

左の男は、高瀬舟から水を流しているが、彼が持つものは、よく見ると羽釜だと確認でき、右手で流出箇所を押さえていることから、米を研いでいるのだと分かる[19][10]。同様の行為は、北斎の狂歌絵本『みやこどり』(1802年・享和2年)の「三叉の月」でも見られる[20]

雪の葦原を2羽のが飛ぶが、彼らの姿勢は、『三十六景』「駿州大野新田」での5羽と同じである。

『富嶽三十六景』の内「駿州大野新田」

初摺は「ベロ藍」単色摺だが、本図は後摺で、船及び遠景の庵2軒に木色が用いられている。富嶽の頂より右下にも庵2軒があるが、こちらはベロ藍のままである。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 刊行年については柳亭種彦が出版した『正本製』に掲載された広告を根拠とする天保2年(1831年)に刊行したとする説、エドモン・ド・ゴンクールの著した『北斎』の記述を根拠とする文政6年(1823年)から文政12年(1829年)に刊行したとする説などもある[2]
  2. ^ 天保二年正月、三十六景の版元となる永寿堂から刊行された柳亭種彦『正本製』(しょうほんじたて)巻末に三十六景の刊行予告がある。「富岳三十六景 前北斎為一翁画 藍摺一枚 一枚ニ一景ツゝ 追々出版 此絵ハ富士の形ちのその所によりて異なる事を示す 或ハ七里ヶ浜にて見るかたち又ハ佃島より眺る景など総て一やうならざるを著し 山水を習ふ者に便す 此ことく追々彫刻すれバ 猶百にもあまるべし 三十六に限るにあらず 」[3]
  3. ^ 曲亭馬琴書簡、天保七年三月二十八日付「板元にし村屋 身上不如意ニて 久しく彫刻不出来 去年ハ既に戸を建(=店を閉める)候様子の処 やうやう借財ヲ年賦いたし 商売とりつゞき居候(以下略)」 [4]
  4. ^ 約39cm×約26.5cm。大奉書紙を縦二つ断ちしたもの。この時期の浮世絵は大判が標準サイズになる[5]
  5. ^ 地名の由来は、徳川期の年に掘を築いて生まれた土地だからという[6]
  6. ^ Google Earthにて計測。Google Earth”. 2020年2月27日閲覧。
  7. ^ 鹿島灘沖の航行、及び房総半島回りが困難な為、那珂湊(現:茨城県ひたちなか市)で荷揚げし、陸路と水路運送を繰り返して、北浦から潮来・牛堀に到達、その後、横利根川を通って、利根川本流へ、関宿江戸川に入って、江戸湊に到着する[8]
  8. ^ 宗旦は、『利根川図志』での挿絵の一部が、北斎によると述べている[13]。柳田国男が当地で取材するに「北斎は一時師匠の許をしくぢつて、爰へ来て匿れて居たことがある。其間に描いたものだから落款を入れていない」と聞き取る[14]が、北斎は『図志』発刊より6年前の1849年(嘉永2年)に亡くなっているので、疑わしい。現在の茨城県古河市を訪れた説はあるが[15]、当地は常州ではなく、下総国である。
  9. ^ 全4冊。1771年(明和8年)冬刊行。版元は京都・西村市郎右衛門ほか。
  10. ^ 永田は「高瀬船」とする[19]が、日野原は「苫船」(とまぶね)とする[10]。「苫」は萱(かや)のことで、「萱葺きされた船」ということになり、船の形式自体ではないので、本稿では永田案を採用する。

出典[編集]

  1. ^ 北斎年譜”. 島根県立美術館の浮世絵コレクション. 島根県立美術館. 2022年9月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年9月3日閲覧。
  2. ^ 磯崎 2021, p. 124.
  3. ^ 永田 2014, p. 207.
  4. ^ 永田 2014, p. 208.
  5. ^ 藤澤 2008, p. 97.
  6. ^ 角川日本地名大辞典編纂委員会 1983, p. 147.
  7. ^ 田代 2011, p. 23、27-28.
  8. ^ 潮来町史編さん委員会 1996, pp. 372–373.
  9. ^ 潮来町史編さん委員会 1996.
  10. ^ a b c 日野原 2019, p. 64.
  11. ^ 柳田 1938, p. 327.
  12. ^ 角川日本地名大辞典編纂委員会 1983, p. 1300.
  13. ^ 柳田 1938, p. 33.
  14. ^ 柳田 1938, p. 12.
  15. ^ 永田 2009, p. 13.
  16. ^ 磯 1961.
  17. ^ 静岡県立美術館 2013.
  18. ^ 日野原 2019, pp. 217–219.
  19. ^ a b 永田 2014, p. 42.
  20. ^ 小林 2010, p. 118.

参考文献[編集]

一次史料[編集]

  • 河村, 岷雪『百富士』京都・西村市郎右衛門ほか書林、1771年。全四冊。 
  • 赤松, 宗旦『利根川図志』1855年。全六冊。 

二次資料[編集]

  • 磯, 博「河村岷雪の『百富士』と北斎の富嶽図」『美学論究』第1号、関西学院大学文学部美学研究室、1961年、67-84頁。 
  • 角川日本地名大辞典編纂委員会, 編『角川日本地名大辞典8 茨城県』角川書店、1983年。 
  • 石井, 謙治『ものと人間の文化史76-2 和船II』法政大学出版局、1995年。 
  • 潮来町史編さん委員会, 編『潮来町史』1996年。 
  • 藤澤, 紫『遊べる浮世絵 体験版・江戸文化入門』東京書籍、2008年。 
  • 永田, 生慈「北斎旅行考」『研究紀要』第2号、財団法人北斎館 北斎研究所、2009年、4-14頁。 
  • 浅野, 秀剛監修『北斎決定版』平凡社別冊太陽174〉、2010年。 
    • 小林, ふみ子『知られざる狂歌本3種』2010年、114-125頁。 
  • 田代, 博『「富士見」の謎』祥伝社〈祥伝社新書〉、2011年。ISBN 978-4-396-11239-4 
  • 古田, 亮、ほか, 編『近代洋画の開拓者 高橋由一』2012年。 
  • 静岡県立美術館, 編『世界遺産登録 富士山の絵画展』2013年。 
    • 福士, 雄也『富士見のトポスとその変遷-「発見」される富士山』、6-15頁。 
    • 福士, 雄也『河村岷雪画 百富士』、74頁。 
  • 永田, 生慈『限定版新撰 葛飾北斎 永寿堂版富嶽三十六景』小学館、2014年。 
  • 日野原, 健司『北斎 富嶽三十六景』岩波書店岩波文庫〉、2019年。 
  • 磯崎康彦北斎の風景・風俗版画」『福島大学人間発達文化学類論集』 34巻、福島大学人間発達文化学類、2021年、124-109頁http://hdl.handle.net/10270/5478 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]