琉球八景
『琉球八景』(りゅうきゅうはっけい)は、葛飾北斎による揃い物錦絵。1832年(天保3年)秋頃版行。全8点。大判[注釈 1]錦絵。落款は「前北斎為一筆」(ぜん・ほくさい・いいつ・ひつ)。版元は森屋治兵衛[注釈 2]。
版行の経緯
[編集]北斎が旅した先は、京都大阪及び紀州が最も遠方であり[注釈 3]、ましてや、薩摩藩の実質統治下ではあるが、対外上は「外国」の琉球王国[4][5][6]に渡れるはずがない。では、どうやって本図を描いたのか。
『八景』を見ると、船を通すために部分的にアーチを付ける石橋などは、明清期及び徳川期の名所図の定番である西湖図を思わせ、手本があると推測されていたが、それが、清朝の版本『琉球国志略』(1757年・乾隆22年)だと判明した[7]。後載する「図版一覧」を見れば、墨摺と錦摺の違いはあるものの、図柄は瓜二つである。
撰者の周煌(しゅうこう)は、1756年(乾隆21年)、冊封副使として来琉、約1年間滞在し、地誌や生活ぶりを記録し、『志略』にまとめたのである[8]。この版本は、徳川幕府も有用だと思ったのか、1831年(天保2年)に「官本」として、そのままの内容で版行する。北斎が目にしたのは「官本」の方だろう[9]。
翌32年(同3年)10月から11月にかけて、第二尚氏王統第18代尚育王の襲封[注釈 4]謝恩使として、豊見城王子を正使として江戸上りが行われる[9]。横山學によると、徳川期における琉球関連の版本は、重版も含め95点が確認されているが、殆どが謝恩使か、徳川将軍就任を寿ぐ江戸上がり慶賀使の時期と重なっている。その中でも、天保3年版行が23点と、最も多い。その理由として横山は、琉球及び朝鮮通信使が暫く訪れていなかったので[注釈 5]、江戸の人々にとって、久々の「祭り」気分になったからだろうと推測する[10]。
以上の点から、『八景』は、官本『志略』版行の翌年であり、謝恩使が江戸に着く直前の、1832年(天保3年)秋頃版行と考えるのが妥当である[9]。
図版の比較
[編集]周煌と北斎の図を見比べてもらえばわかるように、北斎は周煌図をほぼ踏襲している。 だが描き加えられたものもある。
- 舟:「臨海湖声」「 粂村竹籬」「龍洞松濤」「筍崖夕照」「長虹秋霽」「中島蕉園」
- 人々:「臨海湖声」「 粂村竹籬」「筍崖夕照」「長虹秋霽」「中島蕉園」
- 雪:「龍洞松濤」
- 月 :「泉崎夜月」
- すやり霞:全8図
琉球に行ったこともないのに、それぞれ良い効果をあげている。永田が言う「絵空事の天才」[11]である。1843-44年(天保4-5年)に版行された『雪月花』「隅田」は、「龍洞松濤」の焼き直しに見える。
逆に、周煌画にあって、北斎画に描かれなかったものもある。
- 雲:「泉崎夜月」
- 雲気:「城嶽靈泉」
「泉崎夜月」は、雲より月を描いた方が分かりやすい。
「雲気」とは、中国絵画で最も重要とされる「気」を雲として表現したものである。「気」は、南朝・南斉の謝赫による『古画品録』の第一にある「気韻生動(きいんせいどう)」から来るもので、写実的であることより、「気」を画に込めることこそ大切だとする思想[12]で、少なくとも明朝前半まではこの理想が維持された[13]。そして仏教及び儒教道教といった「唐」の思想(=テクノロジー)と共に、日本(特に京の公家・武家・高僧)にもこれらが浸透し、彼らをクライアントとする絵師は「気韻生動」の理想を貫いていたのである[14]。
周煌はこの地が「『靈(=霊)』泉」と聞き、雲気を描きこんだのだろうが、「絵空事の天才」北斎にとって、雲気は演出上不要だったのだろう。彼のクライアントは、漢籍に通じたエリート層ではなく、寺子屋止まりの町民である。難解な思想でなく、斬新で分かりやすい画が求められたのである。
なお北斎は、この作品より前に、曲亭馬琴の読本『椿説弓張月』(1807-11・文化4-8年)に挿絵を提供する。伊豆大島に流された源為朝が、琉球に渡って王女(わんじょ)と結ばれ、その子が琉球王朝の始祖と言われる「舜天」となる物語に沿って、描いている[15][16]。各描写を見ると、巌や松等の表現に唐画の影響がうかがえる。
図版一覧
[編集]-
泉崎夜月(せんざきやげつ)
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周煌撰 泉崎夜月
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臨海湖声 (りんかいこせい)
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周煌撰 臨海潮聲(りんかいちょうせい)
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粂村竹籬(きゅうそんちくり)
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周煌撰 粂村竹籬
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龍洞松濤(りゅうどうしょうとう)
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周煌撰 龍洞松濤
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筍崖夕照(じゅんがいせきしょう)
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周煌撰 筍崖夕照
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長虹秋霽(ちょうこうしゅうせい)
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周煌撰 長虹秋霽
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城嶽靈泉(じょうがくれいせん)
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周煌撰 城嶽靈泉
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中島蕉園(ちゅうとうしょうえん)
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周煌撰 中島蕉園
なお、「長虹秋霽」に関しては、冊封使の為、当時は三角州であった那覇と琉球島を結んだ「長虹堤」を描いたもので、1451年に建造された[6][17][18]。那覇はその後、橋が「トンボロ現象」を招き、河川からの土砂堆積で陸繋島となった。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ 藤澤 2008, p. 97.
- ^ 永田 1990, pp. 66–71.
- ^ 永田 2009, pp. 7–11.
- ^ 鹿児島県 1940.
- ^ 沖縄県教育委員会 1970.
- ^ a b 宮城 1977.
- ^ 岸 1966, pp. 36–39.
- ^ 平田 1977.
- ^ a b c 岸 1966, p. 36.
- ^ 横山 1987, pp. 147–191.
- ^ 永田 1990, p. 69.
- ^ 宇佐美 2014, pp. 42–43.
- ^ 宇佐美 2014, pp. vii-viii、138-176.
- ^ 辻 2005, pp. 263–265.
- ^ 後藤1958.
- ^ 後藤1962.
- ^ 角川日本地名大辞典編纂委員会 1986, p. 741.
- ^ 高杉 2010, p. 41.
参考文献
[編集]一次史料
[編集]- 周, 煌撰『琉球國志略』1757年。乾隆24年。全十六巻四冊。
- 周, 煌撰『琉球國志略』1831年。天保2年。官板。全十六巻四冊。
- 平田, 嗣全訳注『琉球国志略』三一書房、1977年。
- 周, 煌撰『琉球國志略』1831年。天保2年。官板。全十六巻四冊。
- 曲亭, 馬琴編述、葛飾, 北齏圖畫『椿説弓張月』1807~11。全廿八巻六十八回。
- 宇佐美, 文理訳注「「古画品録」訳注」『信州大学教養部紀要』第27号、1993年、1-28頁。
二次資料
[編集]- 鹿児島県, 編『鹿児島県史第2巻』1940年。
- 岸, 秋正「北斎の「琉球八景」に就いて」『浮世絵芸術』第13号、国際浮世絵学会、1966年、36-39頁。
- 沖縄県教育委員会, 編『沖縄県史第1巻 通史』1970年。
- 宮城, 栄昌『琉球の歴史』吉川弘文館〈日本歴史叢書〉、1977年。
- 角川日本地名大辞典編纂委員会, 編『角川日本地名大辞典47 沖縄県』角川書店、1986年。
- 横山, 學『琉球国使節渡来の研究』吉川弘文館、1987年。
- 永田, 生慈監修『北斎美術館4 名所絵』集英社、1990年。
- 辻, 惟雄『日本美術の歴史』東京大学出版会、2005年。
- 藤澤, 紫『遊べる浮世絵 体験版・江戸文化入門』東京書籍、2008年。
- 永田, 生慈「北斎旅行考」『研究紀要』第2号、財団法人北斎館 北斎研究所、2009年、4-14頁。
- 浅野, 秀剛監修『北斎決定版』平凡社〈別冊太陽174〉、2010年。
- 高杉, 志緒『超絶なる風景画』2010年。
- 宇佐美, 文理『中国絵画入門』岩波書店〈岩波新書新赤版1490〉、2014年。
- サントリー美術館, ほか編『広重ビビッド 原安三郎コレクション』TBSテレビ、2016年。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 浦添市美術館 - 浦添市指定有形文化財 - 琉球八景・琉球八景校合摺り
- メトロポリタン美術館(英語) - 琉球八景
- ウィキメディア・コモンズには、琉球八景に関するカテゴリがあります。