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櫛笥賀子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
新崇賢門院から転送)
櫛笥 賀子
続柄 東山天皇側室中御門天皇生母

称号 新崇賢門院
身位 勾当内侍掌侍典侍従二位准三宮女院(追贈)
出生 延宝3年(1675年
死去 宝永6年12月29日1710年1月28日)(享年35)
埋葬 廬山寺京都府京都市上京区
配偶者 東山天皇
子女 中御門天皇直仁親王
父親 櫛笥隆賀
母親 家女房
養母:西洞院時子(西洞院時成養女)
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櫛笥 賀子(くしげ よしこ、延宝3年(1675年) - 宝永6年12月29日1710年1月28日))は、江戸時代中期の女性東山天皇側室で、中御門天皇閑院宮直仁親王の生母。

初名は慶子(よしこ)だったが、宝永4年(1707年)に自身が生んだ皇子の親王宣下を受けて諱が「慶仁」と定められたことで、同字をはばかって賀子に改名した(同時に父・隆慶も隆賀に改名している)[1]

略歴

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掌侍として出仕後、元禄3年(1690年)5月14日、前任の西洞院時成の娘が退任したために勾当内侍に任ぜられる[2](ただし、当時の勾当内侍の職務は東山天皇の生母・松木宗子とその親族が掌握していて、名前のみだったとする見解もある)[3]

同9年(1696年)典侍に昇進する。東山天皇との間に慶仁親王(中御門天皇)や閑院宮直仁親王など5皇子1皇女をもうけた。東山天皇の譲位後、一条局・四条局と名乗る。

宝永6年(1709年従三位に叙せられ、続いて、同年9月27日には従二位に叙せられた(『基長日記』)。これは即位して間もない中御門天皇の生母としての賀子の立場を強化したい東山上皇の強い意向によるものとされている[4]。ところが、同年12月17日に東山上皇が死去し、29日には賀子自身も35歳の若さで死去してしまった[4]。死因は2人とも疱瘡によるものとみられる[5]

墓所は京都府京都市上京区廬山寺。宝永7年(1710年)、まず准三宮、ついで3月26日付で女院を追贈されて、新崇賢門院(しんすげんもんいん)の院号が定められた。

系譜

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脚注

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  1. ^ 石田、2021年、P99.
  2. ^ 『基熈公記』同日条に亥の刻に父親の櫛笥隆賀が近衛基熈にこの旨を報告に来たとする記述がある。
  3. ^ 石田俊「霊元天皇の奥と東福門院」(初出:『史林』94-3(2011年)/所収:石田『近世公武の奥向構造』吉川弘文館、2021年 ISBN 978-4-642-04344-1)2017年、P402・404./2021年、P40・51.
  4. ^ a b 石田、2021年、P79.
  5. ^ 久保貴子『近世の朝廷運営 ―朝幕関係の展開―』(岩田書院、1998年) ISBN 4872941152 C3321 P176-177.
  6. ^ 『庭田重條日記』享保二年六月五日条

参考文献

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  • 芳賀登 他 監修『日本女性人名辞典』 日本図書センター、1998年、p. 568
  • 近藤敏喬 編 『宮廷公家系図集覧』 東京堂出版、1994年、p. 441 - 442
  • 石田俊「近世中期の朝廷運営と外戚」『近世公武の奥向構造』吉川弘文館、2021年 ISBN 978-4-642-04344-1 (原論文は朝幕研究会編『近世の天皇・朝廷研究 第三回大会成果報告書』2010年)