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新日本製鐵八幡サッカー部

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
新日本製鐵八幡サッカー部
原語表記 新日本製鐵八幡サッカー部
クラブカラー   臙脂
創設年 1950年
解散年 1999年
ホームタウン 福岡県北九州市
ホームスタジアム 鞘ヶ谷陸上競技場
ホームカラー
アウェイカラー
テンプレート(ノート)サッカークラブPJ

新日本製鐵八幡サッカー部(しんにっぽんせいてつやはたサッカーぶ)は、福岡県北九州市戸畑区鞘ヶ谷陸上競技場にホームスタジアムを置いた企業のサッカー部。設立時には日本製鉄の前身の一つの八幡製鐵のサッカー部で八幡製鐵サッカー部だったが、八幡製鐵1970年富士製鐵との合併により新日本製鐵となったさいに新日本製鐵のサッカー部となり[1]新日本製鐵サッカー部(新日鐵)と改称した。更にJSLから降格した1991年新日本製鐵八幡サッカー部に改称し、1999年シーズンを最後に廃部となった。

概要

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1947年、8人の素人メンバーの集まりで活動を開始[2]。2年後の1949年寺西忠成が入社し、翌1950年にサッカー部を創部[1][3]1951年に寺西が監督へ就任後、寺西と同郷の広島県出身者を中心にチームが強化された。昭和30年代に黄金期を迎え天皇杯全日本サッカー選手権大会決勝に4度進出、優勝1回(1964年)準優勝3回(19565865年都市対抗決勝には6度進出して2回優勝(1957年1962年)、1963年、1964年度は全日本実業団選手権を2連覇。

1965年から始まった日本サッカーリーグ (JSL) に創設時から参加していた8クラブのうちの一つであり、初年度、2年目に優勝争いに加わった。当時のメンバーには日本代表メキシコ五輪銅メダルの宮本輝紀渡辺正らがいた[4]2021年現在で、日本統治時代の朝鮮から参加したクラブを除き、本州以外を本拠地としている(もしくはしていた)クラブとして唯一天皇杯優勝経験のあるクラブであり、2021年の第101回大会大分トリニータが決勝進出するまでは唯一の決勝進出チームでもあった。

1960年代には優勝争いを繰り広げた強豪クラブも、会社の業績が悪くなり、補強ができなくなると主力選手の引退もあって成績が低迷、1981年のJSLで1部9位となり、入替戦で同年2部2位だった日産自動車サッカー部横浜F・マリノスの前身)に敗れ、1982年のJSLからJSL2部に降格、その後2部が前半の成績で上位・下位リーグに分かれるシステムとなって以降は毎年下位リーグに属するなど2部でも低迷、ついに1990年-1991年のJSLで2部最下位となり、再び1部に返り咲くことはなかった[5][6]1991年シーズンからは九州サッカーリーグに降格、降格2シーズン目の1992年には優勝し全国地域リーグ決勝大会に出場したものの予選リーグ1分1敗で敗退、1993年から創設されたJリーグにも地域性から参加を要請されたが、親会社の業績が思わしくなかったため参加しなかった。その後九州サッカーリーグにおいて優勝することは無かったものの2位から5位と安定した成績を残していたが、1999年シーズンを最後に廃部となった。

選手の一部は三菱化成黒崎サッカー部に移りプレーを続けた[4]。なお2022年現在、九州サッカーリーグ日本製鉄大分サッカー部、北九州社会人サッカーリーグ(福岡県社会人サッカーリーグの下部組織)に日本製鉄九州八幡サッカー部がそれぞれ所属しているが、いずれも往年の八幡製鉄サッカー部の後継クラブではない。また、北九州招待サッカー大会では当チームと、三菱化成黒崎の両チームの選抜チームとして「ニューウェーブ北九州」を結成していたが、同名のチームはその後三菱化成黒崎を母体にJリーグ参入を目指すクラブ(北九州フットボールクラブ)の母体となり、2010年Jリーグに昇格、ギラヴァンツ北九州に改称している。

戦績

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年度 所属 順位 勝点 試合 得点 失点 得失 監督
1965 JSL 2位 24 14 11 2 1 40 14 +26 寺西忠成
1966 2位 21 14 10 1 3 33 16 +17
1967 4位 18 14 8 2 4 29 22 +7
1968 4位 17 14 7 3 4 32 19 +13
1969 3位 15 14 5 5 4 24 23 +1 渡辺正
1970 6位 13 14 5 3 6 31 29 +2
1971 3位 18 14 8 2 4 34 23 +11
1972 JSL1部 6位 12 14 4 4 6 22 30 -8
1973 6位 16 18 7 2 9 25 26 -1
1974 5位 19 18 8 3 7 24 25 -1
1975 4位 21 18 9 3 6 28 23 +5
1976 9位 12 18 5 2 11 23 30 -7 宮本輝紀
1977 7位 22 18 3 2PK勝 6PK敗 7 14 29 -15
1978 8位 26 18 5 2PK勝 2PK敗 9 16 18 -2
1979 8位 29 18 6 2PK勝 1PK敗 9 23 25 -2
1980 8位 15 18 6 3 9 21 27 -6 上久雄
1981 9位 11 18 3 5 10 14 27 -13
1982 JSL2部 5位 19 18 8 3 7 24 21 +3
1983 4位 19 18 7 5 6 29 21 +8
1984 9位 12 18 4 4 10 15 28 -13 金子功
1985 JSL2部西 7位 11 10 5 1 4 18 9 +9
JSL2部西下位 7 4 3 1 0 9 2 +7
1986 JSL2部西下位 9位 23 20 11 1 8 37 22 +15
1987 9位 19 20 8 3 9 23 33 -10 上久雄
1988-89 10位 20 20 7 6 7 25 25 ±0
1989-90 JSL2部 13位 24 30 7 3 20 29 68 -39 大井成元
1990-91 16位 11 30 3 2 25 18 94 -76
1991 九州 3位 38 20 12 2 6 61 30 +31
1992 優勝 45 18 14 3 1 58 20 +38
1993 2位 40 18 12 4 2 53 20 +33
1994 5位 30 18 9 3 6 38 21 +17
1995 3位 39 18 11 1PK勝 4PK敗 2 37 19 +18
1996 4位 33 16 8 4PK勝 1PK敗 3 24 11 +13
1997 4位 31 18 8 3PK勝 1PK敗 6 32 31 +1
1998 3位 34 18 9 3PK勝 1PK敗 5 31 32 -1
1999 5位 29 18 8 2PK勝 1PK敗 7 32 38 -6

タイトル

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天皇杯

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古河電工との同時優勝

リーグ戦

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歴代監督

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歴代所属選手

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評価

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前述のように監督の寺西が同郷の広島出身の高卒選手を集めてチームを強化、チームが強くなると静岡関東出身の選手も集まったが、地元出身選手はあまりいなかった。当時九州はサッカー不毛の地といわれていた[2]。しかしトップレベルのサッカーを展開し、根付かせた功績は大きく1970年代まで福岡のサッカー界をリードした[7]。引退選手の多くは地元の子供たちを指導した[4]

その後、福岡市中央防犯サッカー部を母体にアビスパ福岡、さらに北九州市で三菱化成黒崎サッカー部を母体にギラヴァンツ北九州がJリーグに加盟している。

脚注

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  1. ^ a b 日本サッカーリーグ 編『日本サッカーリーグ・イヤーブック '90→'91』日本サッカーリーグ、1990年、82頁。 
  2. ^ a b 週刊サッカーマガジン、1967年1月1日号、p43
  3. ^ 八幡製鉄で自ら鍛え杉山、釜本とともに銅メダルチームの核となった 宮本輝紀(下)”. 賀川サッカーライブラリー. 2020年12月8日閲覧。
  4. ^ a b c メキシコ銅に4選手/ 八幡製鉄サッカー部 メキシコ銅に4選手”. 毎日新聞 北九州市市制50周年記念事業. 毎日新聞 (2012年11月15日). 2013年1月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年12月17日閲覧。
  5. ^ 週刊サッカーマガジン、2009年3月24日号、ベースボール・マガジン社、p84
  6. ^ 週刊サッカーマガジン、2008年11月11日号、p57
  7. ^ 週刊サッカーマガジン、2009年3月24日号、p84