コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

木村義徳

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 木村義徳 九段
名前 木村義徳
生年月日 (1935-05-02) 1935年5月2日
没年月日 (2021-06-29) 2021年6月29日(86歳没)
プロ入り年月日 1961年10月1日(26歳)
引退年月日 1991年3月31日(55歳)
棋士番号 82
出身地 東京府(現:東京都
所属 日本将棋連盟(関西)
師匠 加藤治郎名誉九段
弟子 井道千尋田中沙紀[1]
段位 九段
棋士DB 木村義徳
戦績
一般棋戦優勝回数 1回
順位戦最高クラス A級(1期)
2021年7月6日現在
テンプレートを表示

木村 義徳(きむら よしのり、1935年昭和10年)5月2日 - 2021年(令和3年)6月29日[2])は、将棋棋士東京府(現:東京都)出身。加藤治郎名誉九段門下。棋士番号82。父は木村義雄十四世名人

経歴

[編集]

早稲田大学第二文学部在学中の1956年にアマチュア名人・学生名人を獲得。1958年、アマチュアとして第9期九段戦予選に特別参加。芹沢博文に敗れた。大学院在学中の1959年にも第10期九段戦予選に特別参加して健闘して、三段で奨励会入り[3]

1960年に早稲田大学大学院文学研究科卒業(東洋史専攻)[4]。翌年の1961年に四段に昇段する。大学院卒の将棋棋士は木村が初。四段時代の1963年に、王座戦大山康晴名人に勝利して、「四段が名人を破った」金星としてニュースになった[5]

1972年度第27期順位戦でB級2組において成績不振により降級点を喫する。しかし、翌期には好成績を収めて抹消した。1978年度第20期王位戦で予選を勝ち抜きリーグ入り。土佐浩司[6]を撃破する活躍を見せたが、土佐からの1勝のみで陥落となってしまった。

第37期(1978年度)昇降級リーグ戦(順位戦)で2組(B級2組)から1組(B級1組)に昇級し、翌期も連続で昇級して初の名人戦挑戦者決定リーグ(A級)入りを果たした[7]。昇降級リーグ2組(B級2組)以下で降級点を喫した経験のある棋士が挑戦者決定リーグ(A級)に昇進したのは史上初で、第81期(2023年度)に至るまでも木村のみである。当時44歳での初の名人戦挑戦者決定リーグ(A級)昇級は新記録であったため、1980年の将棋大賞で木村は殊勲賞を受賞した。

第39期の名人戦挑戦者決定リーグ(A級)は9戦全敗で1勝も出来ずに昇降級リーグ1組(B級1組)へ降級した。順位戦A級クラスのリーグ戦で皆勤全敗したのは、第2期の村上真一(0勝13敗)に次いで史上2人目(後に第40期の石田和雄と第73期の阿久津主税が0勝9敗)。この後、木村はA級クラスの復帰がないまま現役を引退したため、A級在籍経験者で史上唯一のクラス未勝利者となっている。第40期も1勝11敗でクラス最下位となり、2期連続降級して昇降級リーグ2組(B級2組)に戻ってしまった。

第40期昇降級リーグ戦1組(順位戦B級1組)では、1期の間に2度の反則負けをしてしまった(2手指し、馬の動かし間違い)。また当期は1局目から9局目まで連敗し、前期名人戦挑戦者決定リーグの9戦全敗と併せて昇降級リーグ(順位戦)18連敗となった。

1990年度、第49期順位戦B級2組にて2勝8敗で降級点が付く結果に終わり、現役を引退。順位戦最終局は羽生善治棋王との対戦で、これが公式戦初手合であった。羽生が勝利している。

2021年(令和3年)6月29日、老衰のため京都市内の介護施設で死去[2]。86歳没[2]

人物

[編集]
  • 木村義雄十四世名人の三男。親子で順位戦A級在籍歴と九段昇段は近代将棋史上2組目(もう一組は板谷四郎板谷進親子。なお、現役中の昇段だけによる親子九段はまだ出ていない)。
  • 父の義雄とは違って「弱がり」である事で有名で、「自分の将棋は弱い」と公言してはばからない。
  • 関西将棋会館の将棋博物館の館長を長く務めた。
  • 将棋の歴史についての研究でも著名であり、将棋の起源について6~7世紀頃に中国から立像型のものが到着し、後のシャンチーと同系統に属するという説に立っている[8]。また興福寺境内跡で発掘された駒は持ち駒ルールの下で使われ、それゆえ11世紀にはすでに持ち駒ルールが存在していたということを発表している。こうした木村義徳の説に対しては増川宏一が反対し、論争が続いた。
  • 株式相場に精通した棋士としても知られた。棋士になる以前の1955年から株式投資を始めたので投資歴が長く、二十年間かけて120万円の元手を30 - 40倍ほどに増やした実績も持つ[9]。他に株に精通した棋士として米長邦雄がいるが、木村は「米長さんには将棋では勝てないが株なら自分の方が上手」と豪語していた[9]
  • 昭和30年代には、チェスプレイヤーとして活動したこともある[10]

弟子

[編集]

女流棋士となった弟子

[編集]
名前 女流プロ入り日 段位、主な活躍
井道千尋 2005年4月1日 女流二段

(2017年6月28日現在)

  • 田中沙紀の最初の師匠でもある[1]。かつては奨励会にも棋士を目指している木村門下が複数名いた。

昇段履歴

[編集]
  • 1959年 三段 = 奨励会入会
  • 1961年10月1日 四段 = プロ入り
  • 1966年4月1日 五段(順位戦C級1組昇級)
  • 1968年4月1日 六段(順位戦B級2組昇級)
  • 1970年4月1日 七段(順位戦B級1組昇級)
  • 1980年4月1日 八段(名人戦挑戦者決定リーグ昇級)
  • 1991年3月 引退
  • 2000年4月1日 九段(引退棋士の昇段規定)

主な成績

[編集]

一般棋戦優勝

[編集]

在籍クラス

[編集]
順位戦・竜王戦の在籍クラスの年別一覧
開始
年度
(出典)順位戦
出典[11]
(出典)竜王戦
出典[12]
名人 A級 B級 C級 0 竜王 1組 2組 3組 4組 5組 6組 決勝
T
1組 2組 1組 2組
1962 17 C212
1963 18 C206
1964 19 C201
1965 20 C206
1966 21 C113
1967 22 C105
1968 23 B214
1969 24 B204
1970 25 B113
1971 26 B201
1972 27 B205
1973 28 B216
1974 29 B206
1975 30 B207
1976 主催者移行問題により中止
1977 36 B214
1978 37 B213
1979 38 B113
1980 39 A 09
1981 40 B102
1982 41 B202
1983 42 B209
1984 43 B209
1985 44 B221
1986 45 B204
1987 46 B210 1 3組 --
1988 47 B207 2 3組 --
1989 48 B210 3 3組 --
1990 49 B207 4 4組 --
順位戦、竜王戦の 枠表記 は挑戦者。右欄の数字は勝-敗(番勝負/PO含まず)。
順位戦の右数字はクラス内順位 ( x当期降級点 / *累積降級点 / +降級点消去 )
順位戦の「F編」はフリークラス編入 /「F宣」は宣言によるフリークラス転出。
竜王戦の 太字 はランキング戦優勝、竜王戦の 組(添字) は棋士以外の枠での出場。

将棋大賞

[編集]
  • 第7回 (1980年度)殊勲賞
  • 第24回(1997年度)東京記者会賞

著書

[編集]

脚注

[編集]
  1. ^ a b 女流3級時代の田中は木村門下で、木村の没後に研修会からLPSAでプロ入りしてからは大野八一雄が師匠。
  2. ^ a b c 訃報 木村義徳九段|将棋ニュース|日本将棋連盟
  3. ^ 現行の三段リーグ編入制度に基づくものではない。
  4. ^ 『ボクは陽気な負け犬』(ベストセラーズ)裏表紙
  5. ^ 田丸昇『運命の一着』(毎日コミュニケーションズ)P.69-70
  6. ^ 土佐は当時十段戦で難関の予選を通過しリーグ入りするなど有望視されていた若手であった。
  7. ^ この経験を著書『弱いのが強いのに勝つ法』にまとめている。同書によると、それまで木村が得意としていた振飛車戦法は、必然的に長期戦となるため(大山康晴のような)「強者」が勝つための戦法だという。「弱者」が「強者」に勝つには、短期決戦となるべく急戦を仕掛けるべきだとし、実際この「連続昇級」の際には振飛車党から居飛車党に棋風を改造したという。
  8. ^ 清水康二「庶民の遊戯である将棋」考
  9. ^ a b 『株は大局観 元手を100倍にする読みと定跡』より
  10. ^ 東公平『近代将棋のあけぼの』(河出書房新社)P.195
  11. ^ 名人戦・順位戦」『日本将棋連盟』。
  12. ^ 竜王戦」『日本将棋連盟』。

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]