淡路仁茂
淡路仁茂 九段 | |
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名前 | 淡路仁茂 |
生年月日 | 1950年3月21日(74歳) |
プロ入り年月日 | 1974年4月1日(24歳) |
引退年月日 | 2015年5月21日(65歳) |
棋士番号 | 113 |
出身地 | 兵庫県神戸市 |
所属 | 日本将棋連盟(関西) |
師匠 | 藤内金吾八段 |
弟子 | 久保利明、村田智弘、村田智穂 |
段位 | 九段 |
棋士DB | 淡路仁茂 |
戦績 | |
一般棋戦優勝回数 | 1回 |
通算成績 | 695勝697敗(0.4993) |
竜王戦最高クラス | 2組(6期) |
順位戦最高クラス | A級(1期) |
2015年2月10日現在 |
淡路 仁茂(あわじ ひとしげ、1950年3月21日 - )は、将棋棋士。棋士番号は113。兵庫県神戸市出身。藤内金吾八段門下。名人戦A級通算1期。
棋歴
[編集]関西三段リーグで1970年、1972年に優勝するが、東西決戦で敗れて四段昇段を逸する。そして、1973年度に3度目の優勝をし、「3度目は東西決戦不要」の規定により四段昇段してプロデビューする。
1977年度、第16期十段戦と第27期王将戦でリーグ入り。いずれも定員がA級順位戦より少なく、将棋界屈指の難関リーグとされていたが前者では5勝5敗・4位の成績でリーグ残留、後者では3勝4敗でリーグに残留できなかったものの、2つのリーグで大山康晴(当時棋聖)に3連勝を挙げた。当年度は将棋大賞の新人賞・最多勝利賞(43勝)・最多対局賞(65局)を受賞した。
1979年度、第35期棋聖戦を勝ち上がり中原誠への挑戦権を獲得。五番勝負は3連敗で敗退したが、当年度は将棋大賞の敢闘賞を受賞した。
第40期(1981年度)、第41期(1982年度)の昇降級リーグ(順位戦)で、それぞれ8勝2敗(リーグ2組・B級2組相当)、9勝3敗(リーグ1組・B級1組相当)の成績を収め、2年連続昇級で名人戦挑戦者決定リーグ(A級)八段となる。
第43期(2002年度)王位戦でリーグ入り。森内俊之(当時名人)・南芳一に勝利するが、リーグ残留には失敗。翌年の第44期(2003年度)王位戦でも予選を勝ち上がり、プロ入り5年目の若手・山崎隆之を予選決勝で下し2期連続のリーグ入り。リーグでも佐藤康光(当時棋聖)・石川陽生に勝利するが、再びリーグ残留に失敗。
2011年度以降は順位戦に出場せずフリークラスに転出[1]。65歳で迎えた2014年度公式戦の最終対局(2015年5月21日・第28期竜王戦5組残留決定戦・対森雞二)に勝ち、6組への降級を回避した上で引退[注釈 1][2]。勝敗に関わらず引退となる対局に勝ち「有終の美」を飾ったケースは、大内延介以来5年ぶりであった[注釈 2]。
棋風
[編集]受けにおける粘り強さに因み、原田泰夫に「不倒流」と命名され、二つ名として定着していた。
また、長手数の対局が多く、1局が160手を超えることも頻繁にあったことにちなみ、三枚目の男という異名もつけられた[注釈 3]。
六段時代の1981年10月23日・第23期王位戦予選2回戦(対中田章道戦)では339手までもつれ込み、先手の淡路が勝利した。当対局は入玉を含まないものに限定すると2023年現在も公式戦の最長手数記録とされている。後に『将棋世界』の付録にて、この将棋が採り上げられた際に、自ら「長手数の美学」と題名を付けた。こちらも淡路の棋風を象徴する二つ名として用いられるようになった[3]。
後手番一手損角換わり戦法の産みの親であり、2006年に升田幸三賞を受賞した。また、現代矢倉の基礎的な変化をまとめた功績もある。
人物
[編集]2005年度より2011年度まで、日本将棋連盟常務理事を務め、2015年6月より同監事を務めた。
パソコン及びインターネットに明るく、日本将棋連盟の棋譜管理ソフトの開発に携わったこともある[注釈 4]。
羽生善治との通算対戦成績は、2勝1敗と勝ち越して締めくくった(2連勝の後に1敗)[4]。 豊川孝弘が将棋解説の際に攻めが間に合わないという意味でよく使用する駄洒落の「間に淡路」を、豊川に「どんどん使ってくれ」と勧めたという[5]。 中国象棋も趣味としていた[6]。
反則負け
[編集]公式戦で延べ7回の反則負けを喫したとされているが、これは日本将棋連盟の記録に残る範囲では全棋士中1位とされる。以下に対局日・棋戦・対戦相手・反則内容の詳細を記す。
対局年月日 | 棋戦 | 対戦相手 | 反則内容 |
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1980年2月22日 | 第36期棋聖戦・本戦1回戦 | 石田和雄 | 5七の角を1一に成る[注釈 5] |
1985年8月14日 | 第8回オールスター勝ち抜き戦 | 島朗 | 二歩 |
1986年1月24日 | 第44期順位戦・B級1組9回戦 | 石田和雄 | 二歩 |
1986年11月6日 | 第26期十段戦・予選1回戦 | 大原英二 | 二手指し |
1990年9月29日 | 第24回早指し将棋選手権・本戦2回戦 | 森雞二 | 二歩 |
1997年6月3日 | 第31回早指し将棋選手権・予選 | 矢倉規広 | 二歩 |
2005年3月24日 | 第18期竜王戦・3組昇級者決定戦1回戦 | 岡崎洋 | 二手指し |
反則負けの多さに関しては将棋界でも多くの場面でネタにされ、2005年にNHK衛星第2テレビで放映された「大逆転将棋」の「プロ反則負け特集」において、米長邦雄永世棋聖から「永世反則王」の称号を与えられる演出があった[注釈 6]。
反則負けの他、2007年6月7日・第20期竜王戦5組昇級者決定戦2回戦(対大内延介戦)では時間切れによって敗北した。淡路自身は時間切れに至った経緯について、自身に対する秒読みを隣で対局していた対局者の秒読みだと思い込んでいた旨、後年述懐したという。
淡路自身も反則負けの多さを意識していると見られ、上記「プロ反則負け特集」の司会を担当した神吉宏充の証言によると、神吉が反則負けをした際には、直後にうなだれる神吉のもとに駆けつけ、「君も(反則を)やったか!」と喜んだという。 また、自身の引退対局(上述)が終局した後のインタビューでも、同席していた弟子の久保利明が通算成績について言及した際に「反則が多かったからなー」と述懐した[7]。
弟子・普及活動
[編集]棋士となった弟子
[編集]名前 | 四段昇段日 | 段位、主な活躍 |
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久保利明 | 1993年4月1日 | 九段、棋王3期、王将4期、A級在籍13期、棋戦優勝6回 |
村田智弘 | 2001年10月1日 | 七段 |
(2022年4月1日現在)
女流棋士となった弟子
[編集]名前 | 女流2級昇級日 | 段位、主な活躍 |
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村田智穂 | 2002年4月1日 | 女流二段 |
(2022年4月1日現在)
- 神戸将棋センター館主として広く普及活動を行っている。
- 孫弟子には女流棋士の榊菜吟と久保翔子(いずれも久保の弟子。久保翔子は久保の長女)がいる。
- 指導熱心、弟子煩悩な面を語るエピソードとして、弟子の一人である久保が4歳のときに淡路は19枚落ち(淡路側は玉将1枚のみ)から指導した、将棋世界の企画における角落ち対局(上手久保・下手金井恒太)の際、棋士室で上手の久保を心配していた、などがある[8]。
昇段履歴
[編集]昇段規定は、将棋の段級 を参照(ただし、四段昇段は旧規定)。
- 1966年奨励会入会 : 5級 =
- 1968年 : 初段
- 1974年: 四段 = プロ入り 4月 1日
- 1975年 4月 1日: 五段(順位戦C級1組昇級)
- 1978年 4月 1日: 六段(昇降級リーグ2組昇級)
- 1982年 4月 1日: 七段(昇降級リーグ1組昇級)
- 1983年 4月 1日: 八段(名人戦挑戦者決定リーグ昇級)
- 1996年: 九段(勝数規定/八段昇段後公式戦250勝) 4月26日
- 2015年: 引退 5月21日
主な成績
[編集]通算成績
[編集]- 1392戦 695勝697敗(勝率 0.4993)[9]
在籍クラス
[編集]開始 年度 |
順位戦 出典[10]
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竜王戦 出典[11]
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期 | 名人 | A級 | B級 | C級 | 期 | 竜王 | 1組 | 2組 | 3組 | 4組 | 5組 | 6組 | 決勝 T |
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1組 | 2組 | 1組 | 2組 | |||||||||||||||
1974 | 29 | C213 | ||||||||||||||||
1975 | 30 | C113 | ||||||||||||||||
順位戦の第31-35期は回次を省略 | ||||||||||||||||||
1976 | 36 | C106 | ||||||||||||||||
1978 | 37 | B215 | ||||||||||||||||
1979 | 38 | B202 | ||||||||||||||||
1980 | 39 | B203 | ||||||||||||||||
1981 | 40 | B204 | ||||||||||||||||
1982 | 41 | B113 | ||||||||||||||||
1983 | 42 | A 10 | ||||||||||||||||
1984 | 43 | B102 | ||||||||||||||||
1985 | 44 | B106 | ||||||||||||||||
1986 | 45 | B108 | ||||||||||||||||
1987 | 46 | B106 | 1 | 2組 | -- | |||||||||||||
1988 | 47 | B107 | 2 | 3組 | -- | |||||||||||||
1989 | 48 | B108 | 3 | 2組 | -- | |||||||||||||
1990 | 49 | B108 | 4 | 2組 | -- | |||||||||||||
1991 | 50 | B106 | 5 | 3組 | -- | |||||||||||||
1992 | 51 | B202 | 6 | 2組 | -- | |||||||||||||
1993 | 52 | B206 | 7 | 2組 | -- | |||||||||||||
1994 | 53 | B206 | 8 | 2組 | -- | |||||||||||||
1995 | 54 | B206 | 9 | 3組 | -- | |||||||||||||
1996 | 55 | B216 | 10 | 3組 | -- | |||||||||||||
1997 | 56 | B217 | 11 | 3組 | -- | |||||||||||||
1998 | 57 | B208 | 12 | 3組 | -- | |||||||||||||
1999 | 58 | B222 | 13 | 3組 | -- | |||||||||||||
2000 | 59 | C101 | 14 | 3組 | -- | |||||||||||||
2001 | 60 | C117 | 15 | 3組 | -- | |||||||||||||
2002 | 61 | C121 | 16 | 3組 | -- | |||||||||||||
2003 | 62 | C132 | 17 | 3組 | -- | |||||||||||||
2004 | 63 | C118 | 18 | 3組 | -- | |||||||||||||
2005 | 64 | C122 | 19 | 4組 | -- | |||||||||||||
2006 | 65 | C202 | 20 | 5組 | -- | |||||||||||||
2007 | 66 | C226 | 21 | 5組 | -- | |||||||||||||
2008 | 67 | C217 | 22 | 5組 | -- | |||||||||||||
2009 | 68 | C220 | 23 | 5組 | -- | |||||||||||||
2010 | 69 | C237 | 24 | 5組 | -- | |||||||||||||
2011 | 70 | F宣 | 25 | 5組 | -- | |||||||||||||
2012 | 71 | F宣 | 26 | 5組 | -- | |||||||||||||
2013 | 72 | F宣 | 27 | 5組 | -- | |||||||||||||
2014 | 73 | F宣 | 28 | 5組 | -- | |||||||||||||
2015 | 2015年5月21日付で引退 | 2015年5月21日付で引退 | ||||||||||||||||
順位戦、竜王戦の 枠表記 は挑戦者。右欄の数字は勝-敗(番勝負/PO含まず)。 順位戦の右数字はクラス内順位 ( x当期降級点 / *累積降級点 / +降級点消去 ) 順位戦の「F編」はフリークラス編入 /「F宣」は宣言によるフリークラス転出。 竜王戦の 太字 はランキング戦優勝、竜王戦の 組(添字) は棋士以外の枠での出場。 |
タイトル挑戦
[編集]- 登場回数合計1、獲得合計0
一般棋戦優勝
[編集]- オールスター勝ち抜き戦5勝以上 1回(第6回-1983年度、5連勝)
- 優勝合計 1回
将棋大賞
[編集]- 第5回(1977年度) 新人賞・最多対局賞・最多勝利賞
- 第7回(1979年度) 敢闘賞
- 第33回(2005年度) 升田幸三賞(後手番一手損角換わり)
- 第43回(2015年度) 東京将棋記者会賞[12]
その他表彰
[編集]著書
[編集]- 早指し将棋の指し方(1980年11月、成美堂出版、ISBN 4-415-04619-3)
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 順位戦のC級2組で降級点を3回喫したり、三段リーグで次点2回を獲得したりしてフリークラスに編入した棋士が、在籍期限の最終年度に竜王戦5組に残留した場合は竜王戦に限定して引退を2年間延長できる規定が存在する。しかし淡路は自身の意思でフリークラスに転出したため、この規定の対象外であった。
- ^ 2010年4月20日・第23期竜王戦5組残留決定戦における石田和雄との対局。
- ^ 当時、棋譜の記録用紙には1枚に80手分しか記入できず、160手を超える対局を記録する際は3枚の用紙を用いざるを得なかったことによる。
- ^ 棋士仲間のパソコンのセットアップもよく委ねられたという。
- ^ この時、5七と6六に淡路の角があった。無論、6六の角が1一に成るのは反則ではない。
- ^ 当称号は日本将棋連盟に公的に存在しないことは言うまでもなく、あくまで同番組における演出の一環として設けられた架空の称号である。
出典
[編集]- ^ 『順位戦・フリークラスについて:日本将棋連盟』。オリジナルの2013年7月2日時点におけるアーカイブ 。
- ^ “淡路仁茂九段が引退|将棋ニュース|日本将棋連盟”. 日本将棋連盟. 2017年8月26日閲覧。
- ^ 「将棋世界」2009年1月号「感想戦後の感想」
- ^ 玲瓏・羽生善治データベース
- ^ 「『両取りヘップバーン』はそんなに好きじゃなくて……」あの将棋オヤジギャグはこうして生まれた ――豊川孝弘七段インタビュー #1 - 文春オンライン(2019年4月26日)
- ^ 能智映『愉快痛快 棋士365日」(日本将棋連盟)P.128
- ^ 日本将棋連盟モバイル「淡路仁茂九段・共同インタビュー」2015年5月21日(潤記者)
- ^ 「将棋世界」2009年6月号「トップ棋士vs新鋭棋士 指し込み2番勝負!!」
- ^ 『平成28年版 将棋年鑑 2016』80頁。
- ^ 「名人戦・順位戦」『日本将棋連盟』。
- ^ 「竜王戦」『日本将棋連盟』。
- ^ “第43回将棋大賞受賞者のお知らせ|将棋ニュース|日本将棋連盟”. 日本将棋連盟. 2017年8月26日閲覧。
- ^ 「淡路仁茂、通算600勝(将棋栄誉賞)達成」『日本将棋連盟』。2003年10月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。