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高島弘光

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 高島弘光 八段
名前 高島弘光
生年月日 (1941-09-15) 1941年9月15日
没年月日 (1996-12-27) 1996年12月27日(55歳没)
プロ入り年月日 1962年4月1日(20歳)
棋士番号 83
出身地 大阪府八尾市
所属 日本将棋連盟(関西)
師匠 高島一岐代九段
段位 八段
棋士DB 高島弘光
戦績
竜王戦最高クラス 4組
順位戦最高クラス B級1組
2017年8月24日現在
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高島 弘光(たかしま ひろみつ、1941年9月15日 - 1996年12月27日)は、将棋棋士、八段。高島一岐代九段門下。棋士番号は83。大阪府八尾市出身。

経歴

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1953年、叔父の高島一岐代に入門。旧制度の三段リーグに1958年度後期から参加。8期目となる1961年度後期関東リーグで12戦全勝(新記録)[1]。このとき、米長邦雄大内延介から2勝ずつを挙げている。そして、北村文男順位戦からの降級者)との東西決戦でも勝ち、1962年4月1日付でプロ入り(四段昇段)を果たす。

高島と、大内延介西村一義山口英夫との4名は同年生まれで若手時代から活躍して「花の昭和16年組」と呼ばれた[2]

プロ1年目も勢いは止まらず、初参加の順位戦となる第17期(1962年度)C級2組で残り2局の時点まで9勝2敗で突っ走り(最終成績は9勝4敗)、1期でC級1組へ昇級。段位は五段となる。

第17期(1967年度)王将戦で一次予選、二次予選を勝ち抜き、王将リーグ入り。3勝3敗で挑戦権は逃すも、リーグ残留をする。第18期は2勝4敗でリーグから陥落。

第12期(1968年度前期)棋聖戦本戦トーナメントで有吉道夫大山康晴らを破り挑戦者決定戦に進出するも、中原誠に敗れる。勝勢になりながら歩打ちが失着で逆転負けを喫した後の感想戦で、「歩を打ったのが失着とわかれば成り捨てれば(元の形に戻って)よかったのでは」という意見が出た時に高島は「打ったばかりの歩を捨てるなんて、そんな手は死んでも指せん」と言ったという逸話がある(河口俊彦「一局の将棋 一回の人生」新潮文庫)。なお、続く第13期(1968年度後期)でも本戦準決勝に進出している。

第23期(1968年度)C級1組順位戦で、9勝1敗(1位)でB級2組へ昇級(六段昇段)。1年を置いて第25期(1970年度)B級2組順位戦も9勝3敗(1位)の成績を収め、A級に一歩手前のB級1組へ昇級(七段昇段)。

第23期(1973年度)王将戦で、またも一次予選から勝ち抜き、王将リーグ入り。3勝4敗で残留はならず。

第5回(1974年度後期)早指し将棋選手権二上達也(準々決勝)、大山康晴(準決勝)らを破り決勝進出。米長邦雄に敗れ準優勝。

1975年度に新たなタイトル戦として誕生した棋王戦は、第1期に限り3名によるリーグ戦(2局ずつの総当り)で行われた。予選で森安秀光加藤一二三、大内延介、真部一男らを破った高島は、大内、内藤國雄とともに決勝リーグに進出。結果は4戦全敗に終わり、初代棋王にはなれなかった。

なお、この時に内藤-高島のリーグ戦が将棋史上初の公式戦海外対局としてハワイ州ホノルルで行われるはずだったが辞退。 理由は飛行機嫌いだからだとされていたが、「本戦の途中から決勝の場所がハワイになったからや。最初から決まっていたなら何も言わん。棋士は商品やない。」と後のインタビューで語った。親戚の家に行く時も飛行機を利用していたらしい。(将棋世界第60巻6号)

そのため、ハワイ対決は内藤-大内戦に変更された。

第19期(1978年度)王位戦でリーグ入り。出だし2連勝するが、その後3連敗に終わる。

第15回(1981年度)早指し将棋選手権で森安秀光、中原誠、森雞二、米長邦雄(準決勝)らを破り、7年ぶりに決勝進出。しかし、加藤一二三に敗れ、またも準優勝。

第9回(1982年度)名将戦でベスト4(準決勝で加藤一二三に敗れる)。

1984年4月、昇段規定に「勝数規定」が新設され、高島は七段昇段時からの勝ち星の積み上げで八段となる。

第36回(1986年度)NHK杯戦で、初めて本戦3回戦に進出(谷川浩司に敗れる)。

1988年、第1期竜王戦で竜王ランキング戦4組を戦うが、3連敗で5組に降級。このときの4組優勝者は羽生善治である。この頃から、若い強豪棋士達と当たるようになる。翌1989年は、5組で羽生と同世代の先崎学佐藤康光と当たる。先崎には勝ったが佐藤に敗れ、4組復帰はならなかった(佐藤は4組昇級)。第48期(1989年度)C級1組順位戦で羽生に敗れる。翌第49期(1990年度)では、村山聖森下卓、佐藤に敗れる。

C級1組から陥落して迎えた第53期順位戦(1994年度)C級2組では、出だし2連敗から7勝3敗とし、53歳にして順位戦勝ち越しをする。ちなみに、この3敗のうちの2敗は、後にタイトルホルダーとなる三浦弘行久保利明から喫したものである。

1996年12月17日第55期順位戦C級2組の対局で武者野勝巳に勝利し4勝3敗としたのが最期の対局となった。その僅か10日後の12月27日、現役のまま食道癌で死去[1][3]。享年55。

人物

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師匠の高島一岐代は叔父で、入門は1953年。元指導棋士五段の高島一由岐は一岐代の長男であり、弘光の従弟。

棋風

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矢倉右玉相掛かりなどの居飛車を指すことが多いが、振り飛車も指す。

激しい戦い方が多い棋風で、その攻め・寄せが筋に入れば、棋界を代表する強豪もかなわない。

昇段履歴

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  • 1953年00月00日:8級 = 入門
  • 1957年00月00日:初段
  • 1962年04月01日:四段(関東三段リーグ1位 + 東西決戦勝利) = プロ入り
  • 1963年04月01日:五段(順位戦C級1組昇級)
  • 1969年04月01日:六段(順位戦B級2組昇級)
  • 1971年04月01日:七段(順位戦B級1組昇級)
  • 1984年04月01日:八段(勝数規定/七段昇段後公式戦190勝〈制度新設・同年5月25日総会で決定〉、七段で196勝)[4][5]
  • 1996年12月27日:現役死去[3]

主な成績

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在籍クラス

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順位戦・竜王戦の在籍クラスの年別一覧
開始
年度
(出典)順位戦
出典[6]
(出典)竜王戦
出典[7]
名人 A級 B級 C級 0 竜王 1組 2組 3組 4組 5組 6組 決勝
T
1組 2組 1組 2組
1962 17 C213
1963 18 C111
1964 19 C102
1965 20 C105
1966 21 C108
1967 22 C110
1968 23 C106
1969 24 B216
1970 25 B207
1971 26 B112
1972 27 B110
1973 28 B108
1974 29 B105
1975 30 B112
第31-35期は回次欠番/第30期の翌期は36期
1976 36 B102
1978 37 B106
1979 38 B106
1980 39 B202
1981 40 B207
1982 41 B210
1983 42 B215
1984 43 B222
1985 44 C101
1986 45 C105
1987 46 C117 1 4組 --
1988 47 C123 2 5組 --
1989 48 C114 3 5組 --
1990 49 C118 4 6組 --
1991 50 C119 5 6組 --
1992 51 C115 6 6組 --
1993 52 C117 7 6組 --
1994 53 C201 7-3 8 6組 --
1995 54 C207 9 6組 --
1996 55 C231 4-3 10 6組 -- 1-0
1996 55 1996年12月27日 現役死去 10 1996年12月27日 現役死去
順位戦、竜王戦の 枠表記 は挑戦者。右欄の数字は勝-敗(番勝負/PO含まず)。
順位戦の右数字はクラス内順位 ( x当期降級点 / *累積降級点 / +降級点消去 )
順位戦の「F編」はフリークラス編入 /「F宣」は宣言によるフリークラス転出。
竜王戦の 太字 はランキング戦優勝、竜王戦の 組(添字) は棋士以外の枠での出場。

脚注

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注釈

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出典

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  1. ^ a b 平成10年版『将棋年鑑』
  2. ^ 田丸昇『運命の一着』(毎日コミュニケーションズ)P.75
  3. ^ a b 近代将棋 1997年3月号』183頁。 - 国立国会図書館デジタルコレクション収蔵
  4. ^ 近代将棋 1984年7月号「棋界ニュース・日本将棋連盟 新昇段者決まる」(1984年5月25日総会)』217頁。 - 国立国会図書館デジタルコレクション収蔵
  5. ^ 近代将棋 1984年8月号「棋界パトロール・新昇段制度」』183頁。 - 国立国会図書館デジタルコレクション収蔵
  6. ^ 名人戦・順位戦」『日本将棋連盟』。
  7. ^ 竜王戦」『日本将棋連盟』。

関連項目

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外部リンク

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