下平幸男
下平幸男 八段 | |
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名前 | 下平幸男 |
生年月日 | 1924年11月16日 |
没年月日 | 1993年5月25日(68歳没) |
プロ入り年月日 | 1948年(23歳) |
引退年月日 | 1985年(60歳) |
棋士番号 | 50 |
出身地 | 東京府東京市(現:東京都新宿区[注 1]) |
所属 | 日本将棋連盟(関東) |
師匠 | 渡辺東一名誉九段 |
弟子 | 有野芳人 |
段位 | 八段 |
棋士DB | 下平幸男 |
戦績 | |
一般棋戦優勝回数 | 2回 |
順位戦最高クラス | B級1組 |
2017年8月23日現在 |
下平 幸男(しもだいら ゆきお、1924年11月16日 - 1993年5月25日)は、将棋棋士、八段。渡辺東一名誉九段門下。棋士番号は50。東京府東京市(現:東京都新宿区[注 1])の生まれ。
棋歴
[編集]1948年、初参加の順位戦(第3期)において予選リーグで3勝無敗の成績を収めて昇級を決め、四段から六段に飛び昇段。
1956年度、第1回東京新聞社杯高松宮賞争奪将棋選手権戦で高松宮賞を獲得。
1957年度、第1回日本一杯争奪戦で優勝。
第12期(1957年度)B級2組順位戦において9勝2敗で2位となり、B級1組へ昇級するとともに七段に昇段。その後いったん降級するも、第16期(1961年度)B級2組順位戦で9勝3敗の2位となりB級1組へ復帰。さらに翌年度、第17期(1962年度)B級1組順位戦では五十嵐豊一とA級昇級の2番手争いをし、ともに最終局で勝ち9勝4敗の同星となったが、リーグ表順位が上の五十嵐がA級昇級した。以降、下平は順位戦で昇級することはなく、結果的に、五十嵐の1勝によって下平の八段昇段は21年先になる。
1972年7月26日、持ち時間10分の早指し将棋選手権予選・対桜井昇戦で、列車事故のため5分遅刻し、遅刻時間の3倍加算で開始前からすでに時間切れで不戦敗のはずだった。しかし、理事会は事故と5分という遅刻を考慮し、下平に指すように指示した。下平は「規則に則り、遅刻した私は負けのはずだ」と主張したが、そのまま対局が開始された。お互いに角道を開けた後、3二銀と指し、角が取られ、わずか5手で投了した。
第29期(1974年度)C級1組順位戦でC級2組へ降級。翌期、7勝2敗で最終局を迎え、勝てば即C級1組に復帰するところであったが敗れた。
1984年4月、昇段規定に「勝数規定」が新設され、下平は七段昇段時からの勝ち星の積み上げで八段となる。翌年、現役を引退。
棋風
[編集]居飛車党で、指し方は序盤から様々である。
終盤の入口から敵玉をまっしぐらに攻める棋風で、勝局には鮮やかに寄せたり、あるいは、際どく余したりするなどきれいな勝ち方が多く、その中には大山康晴や升田幸三から挙げた勝利もある。
人物
[編集]昇段履歴
[編集]- 1941年 : 入門
- 1944年 : 初段
- 1948年 1月 1日 : 四段 = プロ入り
- 1949年 4月 1日 : 六段(飛び昇段、順位戦C級における成績)
- 1958年 4月 1日 : 七段(順位戦B級1組昇級)
- 1984年 4月 1日 : 八段(勝数規定/八段昇段後190勝〈制度新設・同年5月25日総会で決定〉、七段で256勝)[2][3]
- 1985年 4月 1日 : 引退
主な成績
[編集]- 優勝
- 東京新聞社杯高松宮賞争奪将棋選手権戦・高松宮賞 1回(1956年度 = 第1回)
- 日本一杯争奪戦 1回(1957年度 = 第1回)
- 優勝合計 2回
- 順位戦
- 自己最高 B級1組
- キャリア
- 現役勤続25年表彰(1972年)
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b 平成10年版「将棋年鑑」
- ^ 『近代将棋 1984年7月号「棋界ニュース・日本将棋連盟 新昇段者決まる」(1984年5月25日総会)』217頁。 - 国立国会図書館デジタルコレクション収蔵
- ^ 『近代将棋 1984年8月号「棋界パトロール・新昇段制度」』183頁。 - 国立国会図書館デジタルコレクション収蔵