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畝美与吉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 畝 美与吉 七段
名前 畝 美与吉
生年月日 (1900-11-15) 1900年11月15日
没年月日 (1971-09-07) 1971年9月7日(70歳没)
プロ入り年月日 1932年[注 1]
引退年月日 1957年(56歳)
出身地 広島県呉市[注 2]
所属 関西将棋研究会
→十一日会
日本将棋革新協会
→将棋大成会(関西)
日本将棋連盟(関西)
師匠 神田辰之助九段
段位 七段
順位戦最高クラス C級
2022年2月21日現在
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畝 美与吉(うね みよきち、1900年11月15日 - 1971年9月7日)は、将棋棋士。七段。神田辰之助九段門下。広島県呉市[注 2]出身。

経歴

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1931年、神田辰之助に入門。翌1932年に四段昇段。

戦後は戦災のために第1期順位戦は不参加。1947年の第2期順位戦からC級に参加。1954年11月2日、第9期順位戦(C級2組)で当時14歳の加藤一二三と対戦したが、敗れている[3]1956年の第11期順位戦でC級2組から降格し、翌1957年は56歳にして予備クラス(現在の三段リーグに相当)で対局することになったが、1957年前期の予備クラスでも1勝11敗と大きく負け越し、1957年前期限りで引退した[4][5]

1954年第9期順位戦(C級2組・西組)では当時14歳の加藤一二三と2局対局しいずれも敗れている[6][7]。加藤が公式戦で対局経験を持つ19世紀生まれの棋士3人(他に村上真一野村慶虎)のうちの一人である。

昇段履歴

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  • 1931年 入門
  • 1932年 四段
  • 1936年 五段
  • 1948年 六段(順位戦C級上位)
  • 1957年 引退
  • 1968年 七段(表彰感謝の日表彰)

脚注

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脚注

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  1. ^ ここでは便宜上、四段昇段日をプロ入り日として扱うが、畝のプロ入り当時は初段昇段時から専門棋士として扱われていたとされる。昭和9年(1934年)に大阪で升田幸三が初段になった頃までは、「初段からが専門棋士」だった[1]。その頃、奨励会ができた(東京は昭和3年(1928年)、大阪は昭和10年(1935年))ことをきっかけに、「(奨励会を卒業して)四段からプロ棋士」という制度が確立されていった[2]
  2. ^ a b ただし、呉市の成立は1902年であり、畝が生まれた時点では未成立。

出典

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  1. ^ 東公平『升田幸三物語』(日本将棋連盟)P.36
  2. ^ 加藤治郎原田泰夫田辺忠幸『証言・昭和将棋史』(毎日コミュニケーションズ)P.10、P.215-220
  3. ^ 『将棋世界』第19巻第1号、日本将棋連盟、1955年1月、p.1, 66ページ。
  4. ^ 近代将棋 1957年9月号』近代将棋社/国会図書館デジタルコレクション、1957年9月、108頁https://dl.ndl.go.jp/pid/6046803/1/58 
  5. ^ 近代将棋 1957年10月号』近代将棋社/国会図書館デジタルコレクション、1957年10月、108頁https://dl.ndl.go.jp/pid/6046804/1/58 
  6. ^ 近代将棋 1955年5月号』近代将棋社/国立国会図書館デジタルコレクション、1955年5月、159頁https://dl.ndl.go.jp/pid/6046775/1/83 
  7. ^ 第9期順位戦のC級2組は、開始当初の17人総当たりから、東西に組を分けての2回戦総当たり制(最大12局)に中途再編した上で行われた。

関連項目

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