本田親雄
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(本多弥右衛門から転送)
本田 親雄(ほんだ ちかお、文政12年9月6日(1829年10月3日)[注釈 1] - 明治42年(1909年)3月1日[2])は、幕末から明治時代にかけての武士、官僚。薩摩藩士。正二位勲一等男爵。
略歴
[編集]本田弥右衛門の長男として生まれる。京都留守居役兼横目をつとめ、1862年(文久2年)の寺田屋騒動のときには負傷者を救護した。戊辰戦争では海・陸軍参謀。維新前国事に尽力し、のち元老院大書記官、元老院議官を歴任する。
1887年(明治20年)5月24日に後勲功により男爵[3]、従二位勲一等を賜る。1890年(明治23年)7月10日、貴族院男爵議員となり[2]、1907年(明治40年)10月11日に辞職[4]。錦鶏間祗候等を経て、1907年9月21日に枢密顧問官になり[5]、1909年(明治42年)まで顧問官であった。1909年3月1日に危篤となった際、正二位に叙し勲一等旭日大綬章を授与されたが、その日のうちに薨去した。81歳。通称は弥右衛門。墓所は青山霊園(1イ1-4)にある。
栄典
[編集]- 位階
- 勲章等
- 1887年(明治20年)11月25日 - 勲二等旭日重光章[9]
- 1889年(明治22年)11月25日 - 大日本帝国憲法発布記念章[10]
- 1906年(明治39年)4月1日 - 勲一等瑞宝章[11]
- 1909年(明治42年)3月1日 - 旭日大綬章
親族
[編集]- 長女 琴子(柴山矢八妻)[12]
- 二男 本田親済(貴族院男爵議員)[12]
- 三男 親恒(川上親民養子)[12]
- 二女 米子(外交官島村久妻)[12][13][14]
- 三女 清江(皿井立三郎妻)[12]
- 四女 小菊(軍人上原伸次郎妻)[12][15]
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ 本田親雄(初版 [明治36(1903)年4月] の情報) - 人事興信録データベース
- ^ a b 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』83頁。
- ^ 『官報』第1169号、明治20年5月25日。
- ^ 『官報』第7289号、明治40年10月14日。
- ^ 『官報』第7272号、明治40年9月23日。
- ^ 『官報』第994号「叙任及辞令」1886年10月21日。
- ^ 『官報』第3396号「叙任及辞令」1894年10月22日。
- ^ 『官報』第6703号「叙任及辞令」1905年10月31日。
- ^ 『官報』第1324号「叙任及辞令」1887年11月26日。
- ^ 『官報』第1928号「叙任及辞令」1889年11月30日。
- ^ 『官報』第7272号「叙任及辞令」1907年9月23日。
- ^ a b c d e f 『平成新修旧華族家系大成』下巻、508頁。
- ^ 島村久 (男性)『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
- ^ 島村久(読み)しまむら ひさしコトバンク
- ^ 上原 伸次郎(読み)ウエハラ シンジロウコトバンク
参考文献
[編集]- 柴田和夫「国立公文書館所蔵元老院関係資料について」『北の丸』第6号(昭和51年3月刊行)。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』1990年。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』下巻、霞会館、1996年。
公職 | ||
---|---|---|
先代 高崎五六 |
置賜県参事 1872年 |
次代 関口隆吉 |
日本の爵位 | ||
先代 叙爵 |
男爵 本田(親雄)家初代 1887年 - 1909年 |
次代 本田親済 |